>> 通り雨のはなし
駅についた時、僅かに降っていただけの雨は本降りとなっていた。
「しまった……折り畳み傘でも一ついれておくんだったな」
バケツをひっくり返したような豪雨でこそないものの、切れ間無い雨は絶えず降り注ぎ周囲を鉛色に染める。
家まではそう遠くもない。
走ればさして濡れずに行けるのだろう、生憎椎名は仕事の後に全力疾走出来る程体力のある身体ではなかった。
幸い、駅の傍にコンビニがある。
ビニール傘を一本かって、ゆっくり帰るか……。
どうせ明日は休みなのだから、このまま濡れて帰っても別にいいだろう。
さて、どうしたものか……。
考え倦ねる椎名の前に、思いも寄らぬ人影が現れたのはそうして立ち止まっている最中の事だった。
「あ、いた……きた。淳兄ぃだ! 淳兄ぃ!」
小走りで近づくのは見知った顔……家で椎名を待つはずの、七瀬澪の姿だった。
その片手には、椎名が普段愛用している大きめの傘が握られている。
「澪……」
雨が降ってきたから心配して、傘をもって迎えにきてくれたのだろう。
その心遣いは有り難いが、それ以上に椎名は七瀬の身体が心配になる。
一度心に負った傷は簡単に癒えるものではない。
ある雨の日。
非道い仕打ちを受けた七瀬の記憶は今もまだ根深く残っており、今でも空が陰る度に七瀬の心に羞恥と痛みを蘇らせるのだ。
だから七瀬は雨ともなれば外に出る事も出来ず、震えている事が多い。
それほど雨が恐ろしいはずなのに、今、彼は外に出ている……。
七瀬は笑顔をみせてはいるが、相当の負担になっているだろう。
「澪、どうしてこんな所に……?」
「どうしてって、外。雨ふってきただろ。淳兄ぃ、今日は傘もってなかったから、おれ、淳兄ぃが大変だと思って! だから、おれ……」
「俺なら、コンビニで傘でも買う。だから気にするな、無理をして外に出なくても、いいんだぞ?」
傘を持って来てくれた喜び以上に、無理をした七瀬に。
そして、七瀬に無理をさせてしまった自分に憤り、ついせめるような口調になっていた。
「……あ。ご、ごめん。淳兄ぃ。おれ……いけない事、した……」
その言葉で、七瀬はすっかり萎縮した様子で俯き、その表情は見る見るうちに悲しみに染まっていった。
今にも泣き出しそうな七瀬の顔を見て、椎名はすぐに自分の至らなさを痛感する。
七瀬は自分が心配で、無理をしてここまできたのだ。
それを感謝できずに責め立ててどうするのだ。
ここに居るだけで、心は壊れそうな程に震えているというのに……。
「いや、悪い事じゃないんだ……俺の方こそ、スマン……その」
だが、うまい謝罪の言葉も、労いの言葉も思い浮かばず、結局ただ曖昧に曖昧に謝るだけに留まる。
「あ……おれの方こそ、勝手な事して……ごめん。淳兄ぃ……本当に……」
一方の七瀬も、やはり雨の日は本調子ではないのだろう。
普段なら『何謝ってるんだよー』なんて、笑い飛ばせるくらいの言葉も、今日は随分こたえるようでただ俯いて謝るばかりだった。
長雨のように晴れぬ気持ちのまま、暫く違いに沈黙し向き合う。
「……いくか」
だがこのまま向き合っていても埒があかない。
それに、七瀬だって雨の日、外にいるだけで苦痛のはずだ……。
椎名はそう思い、七瀬の手を握ると家への道を急ぐ。
外は相変わらず絶え間なく雨が降り続いていた。
「……当分やみそうにないな」
顔をあげれば、灰色の雲が分厚く覆い被さっている。
空を見る椎名の隣で、七瀬は小さく頷いてゆっくりと傘を開いた。
いや、開こうとしていた。
指先が震えて思うように傘を開く事が出来ないのだろう……雨とはいえ、まだ9月。
外はそれほど寒くはない。
七瀬に熱がないのも考えると、心に潜む悪い蟲がまたざわざわと騒いでいるのだろう。
「澪……」
椎名は七瀬の名を呼ぶと、傘を開く事に手間取る彼にかわりそれを開いてやる。
七瀬の身体にはやや大きめの、オレンジの傘が暗く淀んだ空に彩りを添えた。
……この色は、陰鬱な雨の中も少しでも楽しい気分でいられるようにという、七瀬の願いを込めて買った色だ。
自分が陰気な雨音に負けぬ為に。
胸に潜む見えない痛みに負けぬ為にせめてもの抵抗で選んだ彩りも、今はただ暗い色に染まるばかりであった。
「ありがと、淳兄ぃ……」
開いてもらった傘を受け取るその手は、まだ震えている。
これだけ震え、怯えて歩いたのなら傘など殆ど役に立たなかったのではないだろうか……。
よく見れば、七瀬は髪も服もしっとりと濡れている。
雨の中、幾度も立ち止まり震える手をおさえながらここまで来るのは簡単なことではなかったのだろう。
今濡れる髪がそれをよく物語っていた。
「……貸せ、七瀬」
震える手に添えるようオレンジの傘を握ると、七瀬にかわって傘をさす。
「あ、淳兄ぃ……」
そして、突然傘を奪われ困惑する七瀬の身体を抱くと、半ば強引にその傘に入れた。
「そんな震える手だとまともに傘もさせないだろうが……俺がさしておいてやる。今日は、こうして寄り添って……一緒に帰るぞ」
「あ……」
「返事は?」
「あ、は、はっ……はい」
力無く頷いた七瀬は自然と椎名の身体を抱きしめる。
歩き初めて、七瀬はぽつりと自らの胸中を語り始めた。
「おれ、さ……家、ほんとは……一人で、留守番できなかったんだ……こわくて……」
七瀬の中には蟲が居る。
雨になると現れる、過去の傷という名の虫が全身を舐め、喰らい、そして犯していくのだ。
「おれ、痛くて……怖くて……一人でいるのが出来なくて……頭がおかしくなりそうだったから……家、飛び出して……淳兄ぃに助けて欲しかったから……だからおれ、駅で……雨にずっとうたれてて……身体を舐められてるかんじがして、おれ……」
語る言葉はまるで思いの断片的ででまとまりがないが、求めているモノはわかる。
望んでいたのだろう、自分が隣に居る事を。
救われたかったのだろう、絶え間なく続くこの、雨という名の悪夢から。
「澪……」
小さな身体を抱く手が、無意識のうちに強くなる。
あぁこの小さな心を一度は拒絶したのだから、自分の愚かさに憤りを感じる。
「……もっと傍にきてくれ。濡れてしまうから、な」
「淳兄ぃ……」
こんなに鈍感な男で済まないかったと思う。
気が回らない故に、傷つけてばかりだとも。
口下手で不器用な所作からこうして、七瀬を傷つけた事は一度や二度じゃないはずだ、とも。
だが。
「ありがとっ、おれ……本当は、淳兄ぃにこうしてもらいたかった。こうして、くれるだけでいいんだ」
七瀬はいつも全て許してくれた。
自分の傲慢も、不器用さもすべて。
そんな七瀬の手がまるで日溜まりのように暖かかったから。
「……澪。今日は、スマン。それと……来てくれて、嬉しかった……ありがとう」
思うように出なかった、感謝と謝罪の言葉が遅れながらも流れ出る。
「ううん……おれの方こそ。淳兄ぃ。おれと、いてくれて……ありがとう……それと」
だいすき……。
精一杯に気持ちを伝える七瀬は、その時ようやく笑顔を見せる。
それは嘘でも強がりでもない、暖かで穏やかな笑顔だった。
その笑顔前に、椎名の中に降り注ぐ陰鬱な雨の気配はいつの間にか消え失せていた。