>> オレンジの円盤





 本屋から戻った時、当然のように出迎えてくれると思っていた七瀬の姿はなくなり、代わりにテーブルの上には一枚の書き置きが残されていた。


 『カズ君と河川敷であそんできます。夕飯前にはちゃんと戻りますので心配しないでください。 七瀬澪』


 時刻は午後3時を過ぎていた。
 あと数時間もすれば戻って来るのだろうが、それまで一人で待っているのも寂しい。

 本屋で大きな収穫もなかったし、やる事もないからと、椎名は河川敷へ七瀬と、その友人の桐生和彦――七瀬は学生時代のあだ名である、カズ君という呼び方を使っている――を探しに行く事にした。

 休日の河川敷は家族連れの姿も多く、キャッチボールにサイクリングと身体を動かす人の姿も多い。

 これだけ人が多ければ探すのは難儀かもしれないな。
 そう思った椎名だったが、意外にも目的の人物はあっけなく見つかった。

 人の輪から外れた先に、フライングディスクを追いかける見慣れた姿が目に入る。
 家族連れが多い中、男が二人でじゃれ合うようはしゃぎ会う姿は案外目立つ光景だった。


 「やー、やだやだー、飛ばしすぎだよー、カズくーん」


 オレンジのディスクを追いかけて笑う姿は、七瀬澪……。
 見知った椎名の同居人だ。

 そんな彼に向かい、笑ってディスクを受け取るのは「カズ君」こと桐生和彦。
 椎名の、学生時代からの友人になる。


 「よーし、もう一回いっくよー! えーい!」


 奇妙な手つきでディスクを握り、目一杯投げれば、奇妙な放物線を描きながらそれは水平に飛んで行く。


 「あー、失敗! 変なトコ飛んじゃったよー、カズくーん!」
 「まかせろ!」


 七瀬の言う通り、ディスクは桐生のいる場所とは別の所。
 見当はずれもいい場所に飛んでいたが、それでも桐生は軽快に走ると余裕で宙に浮くディスクを受け取る。

 桐生は学生時代、陸上部に所属していた。
 有名な大会にも何度か出ているらしい。

 学生時代に培った健脚はまだ現役という事だろう。


 「すっげ。カズ君、すっげー!」


 まさか取れると思わなかったのだろう。
 桐生の手にあるオレンジのディスクを見て、目を丸くしながらも七瀬は小さく拍手をして見せる。

 無邪気に笑い飛び跳ねながらだ。


 「ははっ……んじゃま、次いくぜ……ほら、こー投げるんだ。こうだ!」


 桐生の投げたディスクは見事、七瀬のいる方へと飛んでいく。
 運動神経の良い桐生は、どんなスポーツでもそつなくこなす。
 フライングディスクの操作もお手の物といった所か、緩やかな放物線を描いたそれは七瀬の手へと収まった。


 「あはは、ぴったり俺の所だ。すっげー、カズ君ホントにすげー!」


 受け取ったディスクを抱き、七瀬はまた屈託なく笑った。
 椎名は手近な土手に腰掛けると、そんな彼らの様子を離れた場所で伺う。

 大げさにディスクを振り回し、投げる七瀬のそれは相変わらず明後日の方向へと向かう。
 だが、どんな場所に向かっても桐生は大概それに追いつき、彼の元へと投げ返す……。

 ただディスクが行き交うだけの単純な遊びだが、七瀬は無邪気に笑っていた。
 汗が弾け、風が踊る。

 ……こんな顔もするんだな。
 椎名は漠然と、そんな事を考えていた。

 運動神経はお世辞にも良いとはいえない椎名だ。

 休みともなれば行くのは買い物の付き合いか、映画か……。
 身体を動かすとなっても、するのはせいぜい散歩程度だったから、身体を動かしている時の七瀬がこんな風に笑うのは知らなかった。

 七瀬は、小さい頃から病気がちでよく寝込んでいた印象も強かった。
 ムリに身体を動かしては、かえって毒だと思いこんでいたのもあったのだろう。


 「こんな風に笑うのなら、外に連れだしてやってもよかったかもしれないな」


 そんな事を呟きながら、椎名は以前。
 七瀬が、ブーメランの投げ方に興味を抱いてた事を思い出した。


 『ゲームとかでブーメラン投げるのあるだろ。おれも、あーいう風に投げてみたいんだよね。ブーメラン戻ってくるの、すげーやってみたいんだ!』


 無邪気に笑いながらそう訴えた七瀬の言葉に、自分は何とかえしたのだろうか……。
 はっきり記憶してないが、善処しようと誤魔化した気がする。
 七瀬は「楽しみにしているからね!」と素直に頷き笑ったが、「善処」の内に秘められた言葉は「出来ない」だ。

 限られた時間の中で、出来ない事も出るのは当然だ。
 そうは思っていたが……。


 「やった! 今、思い通りの場所投げられた! 見た見た、カズ君。おれ、凄い。俺凄いよね!」


 綺麗な放物線を描き、桐生の手にディスクがおさまる。
 その様子を見て飛び跳ねて喜ぶ七瀬の姿を見て、自分は「善処」という曖昧な言葉で幾つも、この笑顔を拾い損ねているのだという事実を、改めて痛感する。


 「……あいつ、あんなにやりたかったんだな。こういう遊び」


 楽しそうに笑う七瀬を見ながら、彼は無意識にそう呟いていた。


 「今度はもっと遠くに投げてね、カズ君!」
 「あぁ、任せとけっ!」


 大きく身振り手振りをし、宙を舞うディスクを待つ七瀬。
 その注文に従い桐生は思い切ってディスクを投げるが、桐生の全力は七瀬が思っていた以上に遠いようだった。


 「あ。あー、あー!」


 ディスクは七瀬の頭上を越えると、彼方へと飛んで消えていった。


 「あー。俺のディスクー、小遣いで買った奴ー」
 「あ、悪ぃななみ!」

 「だいじょーぶ、今取ってくるねー」


 だがそんな失敗さえも楽しむように、七瀬はディスクを追って走り出す。
 そんな七瀬の後ろ姿を見送り、周囲の様子を伺ったその時、桐生はようやく、近くで腰掛けてこちらを眺める椎名の存在に気付いたようだった。

 彼は「よう」と小さく片手をあげると小走りでそばへと駆け寄ってくる。


 「何してんだよ、椎名。いつからいたんだ?」
 「いや……さっきな。書き置きを見て出向いたら、運良くお前たちを見つける事が出来たからな」

 「だったらそんな所で見てないで、こっち来れば良かったじゃねーか、なぁ?」
 「そうなんだがな……」


 椎名の目に、必死で転がるディスクを追いかける七瀬の姿が見える。


 「……あいつが、お前に。俺に、見せない笑顔を見せていたから……俺は、それだけあいつから笑顔を奪っていたのかと思うと、入りづらくてな……」
 「はぁ?」


 桐生は呆れた声を出し、すぐにパチンと彼の額を指で打つ。


 「なーに言ってんだお前は! ……いーか、椎名。身体動かしてななみと遊ぶのは俺の領分。お前の領分は、ゲームやったり映画見たりそーいう、インドアな趣味だろ。違うか?」
 「……そうかもしれないが」

 「だったらお前はそっちの方でななみと連んでればいーだろ?」
 「あぁ……そうなんだろうが。だが……何だろうな。俺がもっと、動けていれば……」


 そこまで言いかけた椎名の額を、桐生はまたパチンと打つ。


 「……そう思ってる奴が、こんな所で座って見てるのおかしくねーか、おい?」
 「う……」

 「動ける、動けないとかこーいうの関係無ぇと思うぜ。別に、試合じゃねーんだからよ!」
 「だが、その。何だ……お前と、澪が……楽しそうに、していたから……」

 「はぁ?」


 桐生はそこで溜め息をつき、呆れたように頭を掻く。


 「そういうが、お前は気付いてないかもしれねーけどなー……」


 何かいいかけた桐生の横から。


 「カズ君! それに、淳兄ぃー!」


 片手にディスクを抱いた七瀬がひょっこりと顔を出した。


 「よぅ。ディスク、もってきたのか?」
 「もってきた、だって俺のだもん。俺かってきたやつ……」


 七瀬は大事そうにディスクを抱えると、椎名の方へと向きなおる。


 「ね、淳兄ぃ。いつ来たの! あのね、俺、すげーこれ、投げるの上手くなったから! 見て、見て。ほら!」
 「あ。あぁ……」

 「ね、ほら。早く早くー」


 七瀬は半ば無理矢理、椎名の手をとるとどんどん進んでいく。
 その姿を眺めながら、桐生は一つ溜め息をついた。


 「……全く、本当に鈍感だよなァ。椎名は」


 桐生の前には、顔いっぱいに笑顔を作り椎名の傍らにあろうとする七瀬の姿が見える。


 「ななみが、あんな風に笑うのも……椎名、お前にだけなんだぜ? それを知らねぇで俺にばっかり嫉妬されてもなぁ……」


 無邪気でそして幸福そうな、七瀬の笑顔。


 「あんな風に笑わせる事が出来る癖に、全部の笑顔を欲しがろうったって。そりゃ、贅沢ってもんだぜ。なぁ?」


 桐生は一人、そう呟くと先に進む二人の後を追う。
 川からの風は冷たいが、日は暖かなある休日の出来事だった。





 <桐生兄さんは暖かく見守る係。 (戻るよ)>