>> お風呂でしたい放題。





 この国で生活する大概の人間が風呂で疲れを癒すように、椎名もまた一日の疲れを風呂で流していた。


 「ふぅ……」


 暖かな湯船につかり、今日の出来事を思い返す。
 取り分けて苦労もなかったが、面白い事もない、概ね平穏な一日だと言えよう。

 だがそれが、今は有り難い。
 平凡な一日が終わろうとしていた。

 その時。


 「淳兄ぃ、お風呂入るよッ!」


 突如浴室の扉が開き、見知った顔が入ってくる。
 かと思うとその男は、手桶を用いてじゃぶじゃぶと乱暴に湯をかけはじめた。


 「なっ……澪! 何してんだ、まだ俺が入ってるだろッ!」


 驚いて声をあげるが、見知った顔……七瀬澪はさして悪びれた様子もなく笑う。


 「だぁって、あと10分でいつも見てるテレビドラマが始まっちゃうんだよぉ。おれ、いつも楽しみにしてるから見逃したくないんだ。だから、テレビ始まる前に、お風呂入っておきたいだろッ。そうしないと、ゆっくりテレビ見られないもんね!」


 そう言いながらも、湯をかける手を休める様子はない。
 どうやら意地でも10分以内で風呂に入るつもりのようだ。


 「わかった、だったら俺が風呂から出る……」


 七瀬とは、知らない仲ではない。
 その性格も、身体も良く知っている関係ではあるが、準備もないまま浴槽を共にするのは抵抗がある。

 椎名淳平はそんな潔癖さを残した男だった。
 だが。


 「いいよいいよ、淳兄ぃは普通にお風呂入ってて。俺、適当に流してすぐでるからさ。淳兄ぃは疲れてるんだから、お風呂でゆーっくり疲れとらないとねー」


 七瀬が浴室から出る事を止める。
 椎名がまだ一定の節度を残しているのに対し、七瀬はそういった事に全く無頓着な所があった。

 自分に性的な魅力が備わっている事を、七瀬は未だ自覚していない所があるのだ。


 「疲れをとるというがなッ……」


 お前がここに居ると、かえって疲れがとれないのだが。
 そんな椎名の気持ちに、七瀬が気付くはずもない。

 自分の性に無頓着だという部分も七瀬にはあったが、椎名の前でだけは非道く羞恥心が薄い所も昔からある。
 椎名には、何時見られても気にしないのだろう。


 「……全く、仕方ない奴だな」


 だが、少しシャワーを浴びるくらいの間なら我慢をするか。
 椎名はそう思い直し、なるべく七瀬から視線を逸らす。

 カラスの行水。
 そう形容するのが相応しい七瀬の入浴なら耐えられるだろう、そう思ったからだ。

 しかし、椎名は忘れていた。
 自分の従兄弟が……七瀬澪が、自分の想像しているより僅かにひどい事をする、という事を。


 「ふぃ……さて、俺も少し暖まろうかなぁ……ねね、淳兄ぃ。もう少し足伸ばして!」

 「足……こうか?」
 「そうそう、ありがと!」


 七瀬は嬉しそうに微笑むと、浴槽に身体を伸ばす椎名の足に乗るよう腰掛ける。
 二人、同時に入った湯船から湯は溢れ、タイルへは遠慮なく湯が流されていた。


 「なっ……澪っ、お前、何をっ!」
 「何ってぇ……だっておれ、お風呂入りたいんだもん。いいでしょ、家のお風呂広いし、二人でも入るって!」


 二人で入れる、入れないの問題ではないのだが……。
 椎名の胸元に従兄の濡れた髪が触れた。


 「やっぱりお風呂あったかいなぁ、寒くなってきたから暖かい湯船っていいよね」


 そんな椎名の気も知れず、七瀬は手足を伸ばして笑う。
 かと思うと。


 「あ! 淳兄ぃ……また痩せただろ? 身体、細くなってない?」


 そう言いながら、椎名の胸元に触れた。
 ぞわぞわとした感覚が、椎名の身体全体を包み込む。


 「ばっ……バカ、やめろっ!」
 「え、何で?」

 「何ででも、だッ!」


 椎名の中で高ぶる思いがある。
 このままだと理性が保てるかもわからないのだが……だが、七瀬にはあまり悪気はないらしい。

 彼は何故、やめろと言われたのかわからない、といった様子で首を傾げていた。


 「わかりましたー……でも、淳兄ぃ、なんですぐ痩せちゃうんだろ。俺、ちゃんと栄養与えてるのになぁ」
 「仕方ないだろ、俺は昔から体質的に太れないんだ……」

 「そうなのかなぁ……俺の作るご飯がまずい訳じゃないよね?」
 「残した事はないだろう?」

 「そうだけどさぁ……淳兄ぃ、ガリガリなんだもん。おれ、ちゃんとご飯食べさせてないみたいでさ……」
 「だから、体質だから仕方ないと言ってるだろう……それとも、筋肉質の身体の方が好みか?」

 「そっ、そんな事ないよ!」


 七瀬は、湯気ごしでも解るくらいはっきりと赤い顔になる。


 「……俺は、淳兄ぃが好きだよ。顔とか身体がじゃなくって、淳兄ぃが好きだ」


 そして照れたように笑うと、椎名の胸を抱きしめた。
 肌が触れ合い、互いの鼓動が交わる。


 「澪……」


 あぁ、やはり七瀬は愛しい。
 改めて胸にその愛情を感じ、七瀬の身体を抱き返す。

 互い、自然と目を閉じていた。
 唐突に現れた七瀬だったが、今日はこのまま肌を重ね過ごすのもいいかもしれない。

 そんな思いを抱いた吐息が重なろうとしていた、その時。


 「あ、いっけなッ……ドラマ、始まっちゃうや!」


 七瀬はそう言いながら、不意に立ち上がる。
 そして、こちらを見る様子もないまま、大慌てで浴室を後にした。


 「なぁっ……おい、待てっ、澪! 澪っ!」


 呼び止める間もなく、椎名は一人取り残される。
 この奔放さこそが、七瀬が七瀬である所だろうが。


 「…………ふぅ」


 椎名は溜め息を付くと、すぐに冷水を準備する。
 やり場のない気持ちを静めるには、禊ぎの力が必要だった。





 <七瀬君は空気読んでるようで読まない子。 (戻るよ)>