>> ハッピーハロウィン
その日、玄関を開けた椎名淳平を出迎えたのは一匹のお化けだった。
「Trick or treat!」
黒のスモックに半ズボン。
両手には猫の前足を意識したもこもこの手袋が、両足には両手と同様、猫の後ろ足を意識したスリッパをはいている。
ねじれた尻尾は直接、ズボンに縫いつけられているのだろうか、くるりと緩やかなカーブを描きぴょこんと天井をむく。
そしてその耳を隠すよう、ネコの耳を模した耳あてがつけられていた。
「何だ澪。仮装か?」
抱きつく、飛びつく、キスをする。
玄関を開けた直後の、七瀬澪の行動が突飛である事に慣れている椎名にとって、コスプレくらいはすでに日常茶飯事だ。
むしろ、裸でないだけ有り難いくらいである。
コンビニのビニール袋を片手にネクタイを外し、部屋に入る椎名の後を、七瀬がついて歩く。
猫の尻尾についた鈴が、ちりちりと鳴った。
「うん! ほら、もうすぐハロウィンだろ。うちでも、ハロウィン気分味わいたいからさ、黒猫の仮装だよ、ほらほら。 Trick or treat!」
見れば、窓ガラスにはジャック・オ・ランタンや蝙蝠、ゴーストをイメージした切り抜きが幾つか張られている。
部屋もまた、黒とオレンジのハロウィン・カラーに彩られていた。
昔から、こういった行事における七瀬の行動力は目を見張るものがあるのだ。
「なるほど、ハロウィンか……」
スーツを脱ぎハンガーに吊す椎名に七瀬は両手を差し出す。
「そうだよ、だから……Trick or treat! お菓子をくれないと、悪戯するぞ? ねー、淳兄ぃ、お菓子ちょうだい。お菓子!」
「お菓子か……急にそう言われてもな……」
椎名は鞄を取り出すと、食べられるものがないか探してみるが、入っているのは仕事に関するモノばかり。
「ミントガムと酢こんぶならあるんだが……」
やっと見つけたお菓子も、七瀬の気分に合わなかったのだろう。
「えー……ミントガムはオヤツじゃないよぉ……」
「酢昆布はおやつだろう?」
「そうだけど、ハロウィンに出るおやつとしては、何か違う気がする……違うオヤツちょーだい、違うおやつー。じゃないと、俺悪戯するよ!」
頬をぷくっと膨らませると、手足をばたつかせてみせた。
「悪戯って、何するつもりなんだ……」
「しょうゆさしにウスターソース入れたり、歯磨き粉を置く場所に洗顔フォーム置いたり、ウイイレのユニフォームに聞いたコトもないような企業名をいれておいたりしてやる!」
七瀬の提案する悪戯は、地味ながらなかなかに厄介なものばかりであった。
「勘弁してくれ……いや、ちょっと待てよ」
思いの外タチの悪い悪戯に危機感を覚えた椎名は、ふと思い出したようにビニール袋を探ると、中からお菓子を一つとりだす。
「そういえば、コンビニで変わったお菓子を見つけたからお前が好きそうだと思って買ったんだ……ほら、これでいいだろ?」
ネットに入った丸いチョコレートに、ジャック・オ・ランタンの顔がプリントされた可愛らしい印象のものだ。
ハロウィンという行事の事はすっかり忘れていたが、こういった可愛らしい見た目のお菓子類をこの従兄弟が何より喜ぶ事を、椎名はよく心得ていた。
「わぁ、ありがと淳兄ぃ!」
七瀬はそれを受け取るとすぐに包みを嬉しそうに包みを開ける。
「外はオレンジと黒のおばけかぼちゃ! 中は……普通のチョコレートだ」
そして一つ頬張ると、口の中で転がした。
「あはっ、甘ぁい……嬉しぃ、チョコレート口の中いっぱいだぁ」
ぺたんと床に座りながら嬉しそうに笑えばちりん、ちりんと尻尾についた鈴が鳴る。
その仕草は妙に愛らしく無邪気な笑顔が、椎名の心にある悪戯心を刺激する。
「そうか……それなら、俺も望んでもいいか? Trick or treat」
「えっ? 淳兄ぃ、何?」
「だから……Trick or treat. お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ。ほら、澪。俺にも何か出せよ……な?」
思いがけない椎名の言葉に、七瀬は困った顔をする。
「えぇえぇえぇっ、俺、何も準備してないよッ……普段、淳兄ぃ甘いの嫌がるじゃないか!」
「そうか……だったら」
悪戯だな。
椎名は唇だけでそう呟くと、ぺたんと座り込む七瀬の身体を包み込むように抱きしめた。
「あ、あ、あぁっ、やめ、淳兄ぃ!」
「やめてほしければッ Trick or treat お菓子を準備するんだな、ほら……」
腹を、脇を、撫でるようにくすぐれば。
「ひゃぅん! あ、んぅうぅ! やぁめぇて淳兄ぃい! だぁ、めぇ、駄目だってば!」
手足をばたつかせながら、必死で抵抗する。
大声を出して笑うのをこらえる姿を見るのもまたいじらしい。
椎名は少し笑うと、七瀬の身体を床に組み伏せさらに指で弄ぶ。
脇を、腹を、胸を。
指先を滑らせればその都度。
「あ、ぅあ、ひゃぅ! いぁ、ぁ……んぅうぅうう、いぁだぁ!」
首を振りながら悶える七瀬の愛らしいく、つい指先が熱くなる。
が……。
「いぁ……やぁ、もぅ、やめて! 淳兄ぃ、やめてよぉ!」
暫くそうやってじゃれていたが、流石の七瀬も我慢の限界が来たのだろう。
半ば強引に椎名の手から逃れると、壁に背をむけ涙目で訴えた。
「もぅ、非道いよぉ、淳兄ぃ……」
気が付けば、七瀬の来ていた衣装はほとんどはだけている。
呼吸は荒く、少し汗ばんだ肌が隙間から覗いていた。
「あ……悪い、澪。調子にのりすぎた」
その姿を見て、ようやく椎名は自分がやりすぎていた事に気付く。
体格差が大きい為、本気を出した自分の腕から相手が逃れられない事を、椎名は忘れていたのだ。
「もー、こんなにくすぐるの駄目だよ、俺弱いんだからさ……それに、こんなにくすぐられたら、お菓子を渡す暇もないよ!」
七瀬はゆっくり身体を起こすと、涙目になりながら衣服をなおす。
「お菓子? あぁ、別にいいんだ。俺は甘い物は苦手だしな……」
「でも、もう準備しちゃったもん。はい、淳兄ぃ」
と、そこで七瀬は椎名の傍らまで近づくと、背伸びをしてその唇を重ねる。
口の中にあるチョコレートの甘みが、七瀬の舌から伝わった。
「……お菓子、少しだけどお裾分け。Trick or treat だよね。だったら……これで、俺、もう悪戯されないよね?」
チョコレートの甘い香りが僅かに残る。
「……あぁ」
椎名はたまらなくなり、七瀬の身体を抱きしめた。
「あ! もー、淳兄ぃ。俺のとっておき、あげたんだから……悪戯しちゃ、嫌だよ」
「あぁ、もうしない。もう……何もな」
その腕の中で。
「……でも、俺……お菓子か、悪戯かなのに……お菓子ももらって、悪戯もされちゃった……ね、淳兄ぃ?」
七瀬が笑う。
「……望むならもう少し、してやろうか?」
「もー、そういう意地悪言うから……でも……俺、淳兄ぃだったら別にいいよ?」
椎名はその身体を、しっかりと抱きしめる。
その夜。
ハロウィンは静かにすぎていた。