>> ぼくのからだのなかの、あめ。
ざぁ、ざぁ、ざぁ。
何処からか、雨音が聞こえる。
ひた、ひた、ひた。
身体の中で、雨水がしたたり落ちる音だけがただ響く。
七瀬澪の部屋は窓がなく、外を見る事は出来ないが恐らく今日は、雨降りなのだろう。
雨が降る日は、外を見なくてもそれが分かる。
身体の中から悲鳴が聞こえるからだ。
「……っ」
七瀬は毛布にくるまると震える体を抱きしめた。
ざぁざぁざぁ。
ひたひたひた。
雨はまだ、やみそうにない。
目を閉じて、身体を抱きしめる。
寒くはないはずだが、身体の震えがとまらなかった。
「怖くない、怖くない、怖くない……」
呪文のように同じ言葉を繰り返す。
怖くない、怖くない、怖くない。
だがその言葉と裏腹に、身体の震えは強くなり。
ぎし、ぎし、ぎし。
誰かが布団のまわりを歩く音が聞こえてきた。
次いで、ちゃり、かちゃり。
ベルトの金具を外す音が。
みしり、みしり。
自分の首にかけられた縄を、誰かが無造作に引き寄せる音が、身体の中から聞こえてくる。
外はまだ雨が降っている。
……あの日も、雨が降っていた。
「……何もいない。何もいない。何もいない」
まじないのように呟いて、自分の身体を抱きしめる。
そう、何もいない。
そこには誰も居ない。
わかっていた。
だが。
あの時も、何もなかった。
あの時も、誰もいなかった。
黒い、ただ黒いだけの部屋。
うち捨てられた身体を横たえ、真っ黒な部屋の天井を見つめて、身体の痛みを思い出せば、虐げられた記憶が蘇る。
ナメクジのように這い回る舌の感覚が。
蜘蛛のように絡みつく指の感覚が。
ヘビのように突き上げる男の感覚が。
雨音とともに、身体の内側からしみ出してきた。
ぎゅぅっと目を閉じ、身体を小さくしてただ、終わるのを待つ。
震えながら小さく、怯えた目で世界を見る。
長雨が続いたあの時、七瀬の世界はただ、黒かった。
毛布の中から、時計を見る。
時刻は2時を過ぎている、が……夜明けまで、まだ大分ある。
蛍光灯の明かりはてらてらと輝いている。
以前のように闇を恐れる事はなくなったが、それでも灯りがないと不安だった。
特に、今日のような雨の日は。
「……大丈夫だから。大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせるよう呟いて、再び強く目を閉じる。
そんな七瀬の耳に。
ぎしり、ぎしり。
誰かが廊下を歩く、冷たい足音が聞こえた。
「……ぃっ」
悲鳴にも声にもならない吐息を漏らし、七瀬は我が身を抱きしめる。
心臓が早鐘のように鳴る。
廊下に沈む足音は、自分の中から聞こえる過去の音ではなく、現実のそれだったからだ。
ひた、ひた、ひた。
雨音はまだ続いている。
ぎし、ぎし、ぎし。
布団の周囲を歩く、その足音にあわせて身体が傾く。
震えがおさまらない七瀬の脳裏に蘇るのは、永遠に続くと思われた黒い部屋での仕打ちだった。
蛞蝓に身体を支配され。
蜘蛛に身体を傷つけられ。
蛇が身体を突き上げる、ただそれだけの毎日が身体の中に蘇る。
同時に、一つの考えが過ぎる。
そう……あの黒い部屋から出たのなんて、全て自分の夢か。
あるいは妄想だったのではないだろうか。
友人や、先輩と笑って歩ける生活なんて全て自分が夢で描いていた嘘で……。
恋人が傍らに居て、今でも自分を愛し続けてくれているなんて、全て偽りで。
本当はまだ、自分はあの黒い部屋に居るんじゃないだろうか。
そうでなければおかしいのだ。
自分は、血も肉も。
髪の毛一本に至るまで汚れた人間なのだから……再び、愛されるはずがないのだから。
そう。
自分は、誰からも愛された事がない人間なのだから。
震えがおさまらなかった。
涙が自然に出て来た。
その涙を……誰かの指が、撫でる。
指だ。
蟲じゃ、ない。
無造作に身体を引き寄せ、弄び、這い回る蟲ではない。
暖かな指先は七瀬の身体を慰めるよう撫で、その腕で強く彼の身体を抱きしめた。
「……大丈夫だ」
優しい、においがした。
その手は温かく、柔らかく、溶けてしまいそうな程に愛しくて……。
自然と、涙が零れる。
だが、冷たい涙ではない。
優しい身体はその涙、すべてを受け止めようとするように、七瀬の小さな身体を抱き寄せて自分の胸に押しあてて、優しいキスを一つくれる。
「淳兄ぃ……」
声がもれる。
「淳兄ぃ、ありがと……」
身体の中の雨が止む。
七瀬の中にある黒い部屋も、音も。
何処かに消えてなくなっていた。
>> 冷たい夜の雨に。
胸騒ぎがしたから、目が覚めた。
時刻は午前2時。
眠らなければ明日の仕事にも支障が出る頃だろう、が……。
ひた、ひた、ひた。
外から静かな雨音がする。
眠る時に雨戸を閉め忘れていたか、窓を開ければ光の少ない夜の街に、静かに雨が降り注いでいる。
窓には結露が滴っていた。
「雨……か」
その滴を見て、俺は胸騒ぎの正体を知る。
椎名はベッドから起きると、灯りをつけないまま冷たい廊下を歩きだした。
さして広くはない家は、扉を開ければすぐ廊下から玄関まで見通せる。
彼はその廊下から、僅かに漏れる明かりを頼りに暗闇を歩き出す。
ぎし、ぎし、ぎし。
さして作りが悪くないはずだが、そんな音が聞こえる気がする。
……雨が降る日。
きまって彼は……七瀬澪は、怯えたように蹲って震えているのだ。
まるで自分が箱の中で。
群がる蟲の餌として生かされるだけの生活を送っていた頃に逆戻りをしたかのように。
……一人になって寂しいのなら、何時でも来いと言ってあるのだが、今日のように遅い時はあいつが自ら部屋に来る事はない。
いや、そもそも雨の日は自分の部屋から、動く事もままならないのだから、仕方ないといえばそうだろう。
だが……。
僅かに明かりが漏れる部屋を、音をたてないようにゆっくりと開ける。
自分の心配が取り越し苦労で、七瀬が雨にも気付かぬまま寝息をたてているのならそっと出ていつもりだったからだ。
七瀬は、あの日以来、暗闇の中で一人で居る事は出来ない。
だから部屋に明かりついていても、眠っているか起きているか、それで判断するのは難しいのだ。
僅かに開けた扉から、七瀬の様子をうかがえば布団の中に蹲り小刻みに震えるあいつの姿がある。
やはり、起きていた……か。
椎名は胸騒ぎの正体を知り、静かにその傍らへ腰掛ける。
そして、彼を怯えさせないようになるべく優しく、指で触れた。
ぴくり、と身体が跳ねるように動く。
身体の中に住み着いた蟲と獣との記憶が未だ消える事はないのだろう。
俺の身体も、獣の身体も、触れられただけでは判別がつかないに違いない。
「大丈夫だ……」
ここにはもう、蟲はいない。
それを知って欲しいから、俺は精一杯の言葉をかける。
今にも消えてしまいそうな、壊れてしまいそうな目の前の男を。
自分の元に連れ戻してやりたくて、その一心で身体を胸に抱き留める。
小刻みに震える体は、流れる涙を俺の胸で拭う。
大丈夫だから。
悪夢はもう、何処にもないから。
望めば俺は、何時でも傍に居るから……。
思いが上手く言葉に出ない。
代わりに椎名は、唇を重ねる。
「淳兄ぃ……」
か細い声が、腕の中から漏れた。
「淳兄ぃ、ありがと……」
濡れた瞳をこちらに向け、震える声でそう告げる。
その身体を、椎名は無言で抱きしめた。
悪夢はもうどこにもないと、伝えてやる代わりに。
何時でも傍に居ると、そう誓う言葉の代わりに。