>> 写真のないアルバム




 掃除の最中、偶然見つけた学生時代のアルバム。

 椎名のそのアルバムには、修学旅行の写真は一枚もない。


 だが彼の記憶にはいつでも鮮明に思い出せる、修学旅行の記憶があった……。

 そうあれは学生時代のある日の事だった。




 下校を促すチャイムが響く。

 教室に西日が入ってくる。

 一日の授業が終わり、ある生徒は部活に。ある生徒は帰路に、思い思いに歩き出す。


 「じゃ、椎名さん。またね!」


 偶然目が合ったクラスの女子は、椎名淳平に一声かけて去っていく。

 椎名は少し頷くと、鞄を背負い教室を後にした。


 この学校の放課後は少し雑然としすぎている。

 勉強に集中するには、校内より自宅の方がいい。


 それが、椎名がこの1年で学んだ事である。


 以前は図書室や教室で、予習くらいは済ましていたのだが最近は専ら自宅で済ますようになっていた。

 階段を下り、下駄箱に差し掛かったその時。


 「淳兄ぃ!」


 声がしたのが先だったか、抱き留められた方が先だったか。

 とにかく気がついた時、自分の腰回りにしっかりと抱きつく男の姿がそこにある。

 自分の従兄であり、クラスメイトである男……七瀬澪だ。



 「何だ澪、あまり人前でこういうのは……勘弁してくれないか?」



 後ろからしっかり抱きついて離れようとしない七瀬の姿に気付いたのか。

 すれ違う女子生徒たちの間から、くすくすと笑い声が聞こえてきた。



 「あ、また椎名さんがナナちゃんに付きまとわれてるよ!」

 「あはは、相変わらず仲いいよねー、あの二人ー」



 からかうような少女の笑いには止める意志は毛頭ない。

 抱きつかれた椎名が困惑してみせるこの状況を楽しんでいるのだろう。



 「……皆、見てるだろ。早く離れてくれないか?」

 「いやですー」

 「女子に笑われているだろうが……頼むから、離れてくれ」

 「淳兄ぃが一緒に帰ってくれるなら、離れるでーす」

 「わっ……わかった、一緒に帰るから、な?」



 人前でも構わずベタベタするのは、七瀬の特技のようなモノではあるが女子に冷やかされるのは……。

 元々、あまりこういった事に積極的ではない椎名にはとにかく恥ずかしい。



 「わー、じゃ、一緒に帰ろー。俺、靴もってくるね!」



 恥ずかしいが……。



 「もってきた! 淳兄ぃ、一緒に帰ろ!」



 ……悪い気は、しないのもまた、本音だった。



 「あぁ……行くか?」

 「うん!」



 七瀬の笑顔を隣に、椎名は歩き出す。

 校舎は西日に染まっていた。



 「それでさァ……岸本先生、黒板に問題書いて、これ解いておけ! って言ったまま教室出ていったんだけど、何してたと思う? 教室に戻ってきたらさ、購買のカレー弁当もってたんだ。生徒に問題解かせている間に、カレー買いに行ってたんだよ、あいつ!」



 身振り、手振りを交えながらやや憤慨した様子で七瀬が語る。


 「おかげで、教室の中カレー臭くなったしッ……もぅ、イヤになっちゃうよ!」


 憤慨しているのは、教室がカレー臭くなった事よりむしろ岸本という教師がカレーを買った事だろう。

 購買のカレーは毎週月、木と二度しか販売されない人気メニューだ。


 七瀬の好物でもあるのだが、今日は授業が押した為に買う事が出来なかったらしい。

 それで余計に腹を立てているのだ。



 「そう怒るな、岸本も今日はカレーを食べないと腹が落ち着かない日だったんだろう」


 椎名は笑いながら、隣を歩く七瀬を見る。


 ゆら、ゆら。

 細く柔らかな七瀬の黒髪が、風で軽く揺れる。


 「澪……」


 自然と、手が伸びる。

 その髪は、指先で触れれば艶やかで、指先ですくえば柔らかに指の間をすり抜ける。


 この髪が、椎名は好きだった。

 だが。



 「えっ……あ、ちょっ、ダメだよ淳兄ぃ!」


 何時になく照れた様子で、七瀬は驚いたような表情になる。


 「……どうした、イヤだったか?」

 「えっ。べ、べ、別に、イヤじゃないんだけど、さ……」

 「だったら、どうした? 今まで髪に触られるのは……嫌いじゃなかったろう?」



 椎名に問われ、七瀬は顔を赤くしてこたえる。


 「で、でもさぁ……この前、りっこが言ってたんだ。そのっ、髪とか触るの……恋人がする事だよ、って」



 りっこ、とは去年まで七瀬と同じクラスだった、上條律子の事だろう。


 外見も性格も、どこか女性的な七瀬は女子生徒にも概ね好意的に……というより、玩具感覚とでもいうのだろうか。

 女子生徒達には「可愛い」とぬいぐるみ感覚で愛されており、女子生徒の友達が多い。


 上條律子も、そんな風に七瀬を愛玩する女子生徒の一人だった。



 「りっこ……髪とか触るのは、恋人同士。それも、えっちしている関係だよ! って強く言ってたからさぁ」

 「何だそれは。聞いたコトないな……上條の妄想だろ?」

 「そうかもしんないけどッ、そういう風に思う子も居るんだよ……」



 七瀬はそう言いながら、自分の髪を手でなおす。



 「……バレちゃ、困るだろ。俺と、そういう風になってるの」



 女子生徒に、恋人だの旦那だの嫁だの内縁だの。

 そうやってからかわれるのが最早日常になってはいる所に、これ以上噂をたてられる事は確かに椎名は望んでない。

 だが。



 「そう……か。俺にとってはとっくにそうなんだが、澪にとっては違うんだな」

 「えっ?」

 「……いいだろ、そう思われても。事実、そうなんだからな」



 それ以上に、七瀬の暗い表情を見る事を椎名は望んでいなかった。

 だから精一杯伝えてやる。


 周囲に何を言われても、決して変わる事のない自分の思いを。



 「……淳兄ぃ」



 頬が赤いのは西日のせいか、それとも照れているのか。

 椎名の場所からははっきりと、わからなかった。

 だが。



 「ね、淳兄ぃ。手ぇ、つないで帰ろうか?」

 「なっ……何だ急に」

 「いいだろっ、俺、手ぇつないで下校とか……したこと無かったもん。してみたい!」



 そう言いながら自分の右手に、甘えるように絡みつく。



 「何言ってるんだ……恥ずかしいだろっ!」

 「俺は恥ずかしくないよ……ね、どうしても、ダメぇ?」

 「……仕方ないな」



 椎名はそう言うと、ポケットの中に手を突っ込む。



 「右のポケットを貸してやる……中の手もお前のモノだ、好きにするといい」

 「……うん!」


 ポケットの中で、互いの手が触れ合い結びつく。


 人通りの少ない通学路。

 西日が二人の背を押し、影を伸ばす。


 結んだ手は温かく。時は、緩やかに過ぎようとしていた。

 そんな下校の最中。



 「あ、そうだ。淳兄ぃ。もうすぐ、修学旅行だったっけ?」



 不意に七瀬がそんな事を言い出す。



 「ん? あぁ、そうだが……」

 「いいなぁ……何処に行くんだっけ?」

 「京都、奈良だな……今の時期なら紅葉が見頃だろう」


 テレビでしか見た事のない鮮やかな紅葉を、椎名は脳裏に思い浮かべて語る。


 「まぁ、紅葉を愛でながら古都に思いを馳せるというのは、学生らしさが無いかもしれんな」


 吹き付ける風はすっかり夏のまぶしさを忘れ、滲むような寒さを感じさせる。


 「そっか、京都かぁ。京都って何があるの? シカ、シカ居るの何処!?」

 「シカは奈良だな……奈良公園だ。周辺の東大寺や春日大社、興福寺等も含め……」

 「奈良かぁ……じゃぁ皆シカに煎餅あげられるんだね、いいなぁ……」



 背負ったリュックの肩紐を弄る七瀬の歩みは何処か力無い。

 無理もないだろう。



 「いいなぁ……俺も皆と行きたかったな、修学旅行」


 そう、七瀬は修学旅行に行く事が出来ないのだ。

 有り体な言い方をする所の、家庭の事情というもので。


 「カズ君と、ゆーちんと、イインチョ達はうずまき映画村って所に行くんだってさ」

 「うずまき? うずまさ、だろう。太秦」

 「そうそれ、いいな、うずまき! 何があるか知らないけどさ」


 ……家庭の事情。

 といえば体よく聞こえるが、実際の所七瀬の受けている仕打ちは嫌がらせ以外の何者でもない。


 資産家である七瀬家には、貯蓄する金はあるが七瀬澪の為に使う金はないのだろう。


 バイトして貯金が出来れば修学旅行ができる。

 そう信じて夏休みを殆どバイトに明け暮れた七瀬だったが……この結果を見ると、元々旅行の積み立てもしていなかったに違いない。



 「桐生達は、何か言ってたか?」

 「カズ君? おみやげは食べ物がいいか。キーホルダー的なものがいいか、って聞かれたよ?」

 「そうか、それで、何を頼んだ?」


 「木刀!」


 「……断られただろ」

 「うん……木刀に、洞爺湖って彫ってほしかったんだけどなぁ」



 修学旅行の話題になると暗い表情ばかり見せる七瀬だが、修学旅行に参加するクラスメイトの話をすると笑顔が多い。



 「あはっ、カズ君……今の彼女と別のクラスだから会えないってぼやいてたよ」

 「そうか……宿泊先はホテルで、クラスにより階層が違うんだったか」

 「そうみたいだね。多分クラス違うと完全に別行動だよ……カズ君、随分ぼやいてたなぁ」


 そう語りながら、七瀬は少し笑う。


 「俺は、淳兄ぃと同じクラスだから、多分同じ部屋だったよね。今回の部屋割り、友達同士で自由に組んでよかったからさ」

 「そうだな……」

 「二日目の自由行動も、淳兄ぃと一緒に行ってたよ。京都で、シカ見て」

 「シカは奈良公園だ」

 「細かい事は気にしない! えっと、それで、甘い物食べるんだ。京都のトコロテンは黒蜜だっていうから!」



 並んで歩いてそう語る七瀬は、あらかた語り終わると、その場で足を止めた。



 「……澪」


 振り返ればそこには、泣き出しそうな顔をして立つ七瀬の姿がある。


 「ごめっ……淳兄ぃ。俺、一緒にいけなくて……ごめん……」


 泣いているのか、肩が震えてる。


 「……俺、淳兄ぃと同じ学校に通うの初めてだから、せめて修学旅行とか、一緒にしたいって思って」


 声が。


 「それで、夏休みずっとバイトしたけどっ……結局、行けなくてっ……」


 指先が、震えているのが解る。


 「でもさ、淳兄ぃ……旅行、楽しんできてな。その、俺。おみやげ楽しみにしてるからさ。洞爺湖って書いた木刀」



 京都で洞爺湖と書いてある木刀が売っているのかいささか疑問ではあるが、無理して笑う従兄の姿はあまりにも痛ましい。

 ……そろそろ、伝えてもいい頃だろう。


 椎名は少し溜め息をつくと、自分の髪に僅かに触れた。



 「悪いが、洞爺湖と刻んだ木刀なんて買えないぞ?」

 「え、何でだよ。カズ君がかってくれないっていうなら、淳兄ぃに頼むしかないだろ!」

 「頼まれても、買う事は出来ないな」

 「えー、何でー?」


 「……俺も、行かないからだ」



 椎名の言葉を、七瀬は暫く理解できなかったようだ。

 目を見開き、その意味を探る。


 暫く後。


 「え、あ……な、何で行かないんだよっ!」


 その意味を知った時、七瀬は驚きの声をあげた。


 「家庭の事情だ」

 「家庭って、そんな訳ないだろっ、淳兄ぃの家がそんな事……」

 「本当の事を言うとな、俺が旅行積み立ての紙を無くしてしまってな……積み立てを忘れた関係で、行けなくなった。それだけだ」



 最もらしい言い訳をするが、付き合いの長い七瀬だ。

 椎名が、大切なモノを無くすようなタイプではない事も、椎名の家が家庭の事情で修学旅行なんて大イベントを見過ごす家ではない事も、全てわかっているだろう。

 わかっているからこそ。



 「淳兄ぃ……バカだよ、俺の為に……」



 椎名が旅行出来ない理由、それに気付いてしまうのだ。


 「……お前の為じゃない。俺が、間抜けだっただけだ」

 「嘘つき」

 「嘘じゃない……いいか、俺が間抜けだった。だから俺は旅行出来ず、お前と留守番をする。それが全てだ、いいな?」



 一歩、一歩。

 立ち止まった七瀬の隣へ歩み寄る。



 「……わかった、そういう事に、しとく」

 「あぁ……それでいい」



 そして二人同時に歩き出すと。


 「……何だろ、あんなに行きたかった修学旅行、急に行かなくても良くなったよ。ヘンだね」

 「そう……か」

 「うん……修学旅行行かない間、俺達何してればいいんだろうね、勉強?」

 「その点は安心しろ、お前に京都、奈良の歴史をこの三日、みっちり仕込んでやる。覚悟しておけ」

 「はぁい……でも、仕込んでくれるのは歴史だけですか、椎名先生?」

 「……補習はお前次第だな。考えておいてくれ」

 「はぁーい!」


 互い笑顔で歩き出す。



 椎名の卒業アルバムに、修学旅行の写真はない。

 だが椎名には鮮明な思い出があった。


 色鮮やかな思い出と、未だに途切れぬ絆とともに確かに存在していたのだ。




 <椎名君は修学旅行するより、学校で恋人とイチャイチャしてたいタイプ。(戻るよ)>