>> #11982




 椎名淳平は幼い頃から記憶力に秀でた少年ではあったが、取り分け「彼」に関する事は良く覚えていた。



 『正直、どうしていいのか解らないわ。いくら、甥っ子と言っても――困るけど、子供を置いて逃げたっていうんなら、仕方ないでしょう?』



 椎名淳平が持つ、彼にまつわる最も古い記憶は、彼が来る前日、受話器を片手にそうまくし立てる母の姿だった。

 母のそんな言葉から、明日来るのは招かれざる来客だという事を理解していた。


 母を困らせる客人には、関わらない方がいい。


 それに自分は、他の子他の子どもたちのように、他愛もない話しで喜んだりなれ合ったりする事が満足に出来ない気質であり、恐らくこれから来る客人も、自分と関わる事なんてゴメンだろう。

 そう思っていた椎名淳平の前に、彼は、現れた。


 自分と同じ年齢だと聞くその少年は、自分より随分細く華奢に見えた。

 薄汚れたぬいぐるみ――タオルで作った猫のようなウサギのようなぬいぐるみを抱きかかえ、所在なさげに視線を彷徨わせるその姿は、まだ自分が捨てられた事を知らず箱につめられ孤独に鳴く子猫の姿のようだ。


 この少年は、自分が何故ここに居るのか全てを理解しているのだろうか。

 部屋の片隅でぬいぐるみを握りしめ、声さえあげようともしない少年に、椎名淳平は自ら声をかけていた。



 「――大丈夫か?」



 その瞬間。

 強張った少年の表情は、糸がほどけるように和らぎ、僅かに頬を染めながら顔一杯に笑みが浮かぶ。



 「うんッ、だいじょうぶ。 ありがとう、えっと…………」

 「淳平。椎名淳平」

 「うん、ありがとう、じゅんぺいくん!」



 不思議だった。

 彼が笑った時、世界が変わった気がした。


 人の笑顔を見る事がこんなに心を揺らすのだと思ったし、ありがとうの一言がこんなに喜ばしい事なのだとも思った。



 口を利くつもりもなかった少年であったが――。

 家族の嫌悪とは裏腹に、椎名淳平は驚く程の早さで彼とうち解けていった。



 「じゅんぺいくん、絵本を読める? 絵本を読めるなら、読んで欲しいよ、じゅんぺいくん?」



 平仮名をまだ半分ほどしか知らない少年は、椎名淳平の持つ絵本を引っ張り出してはそれを読む事をせがんだ。

 最初は面倒な注文だと思ったが。



 「ねェ、何でこのパンで作った少年は逃げ出したりしたのかな。一緒に居た方が楽しいのにねぇ」

 「どうして犬と猿と雉と喋る事が出来るのかな、ボクも出来るようになるのかな?」

 「小人さんにプレゼントをしたら居なくなっちゃうんだね、居なくならなくてもいいと思うよね?」



 どの話を読んでも一々反応をする彼の発言は自分の感性とは違い興味深い。

 また彼は、どんなモノを見るにしても全てが初めての事のように笑ってみせたし、喜んでもみせた。

 そして何より。



 『じゅんぺいくん、何をしているの? 面白いこと? ね、じゅんぺいくん?』



 広げた白紙の画用紙に、刻まれるのは数多の数字。

 全て特定の条件下に基づいて書かれた数字である。


 常に画用紙半分ほどを数字で埋め尽くしていた椎名淳平のその行動は、母さえも奇妙な戯れだと思い特に感心を示さなかった。



 だから彼は孤独に続けていた。

 己が孤独を埋めるよう数字に向かっていた、そんな椎名淳平の行動に初めて興味を示したのもまた、彼だった。



 「数えているんだ、数を――」

 「数?」

 「そう――縦、横、斜め。三つに区切ったマスに数字をいれていくだろ、そうすると数字が9個入るんだが――」

 「わかんない、ぼく、自分の歳より大きい数数えられないもん」

 「はは、その数字をさ。縦、横、斜めでそれぞれ足していったとして――縦を足しても、横を足しても、斜めを足しても、全ての数が同じになるように、数を並べて遊んでるんだよ」


 「そんな事出来るの、えっと――1から並べて――」


 「出来るんだ、存在するんだよ、それに気付いたから最近はずっとこうして遊んでいるんだ、ほらこれだ――」



 椎名淳平はそう言いながら、数多の数字の中から9つの数字を囲んだ枠を指し示す。



 「ほら、見てみろ。6と1と8を足すと――」

 「足す、増やすの?」

 「指折り数えてみるといい、6個あった所に、1個増やして、さらに8個増やすと――ほら、15になる。同じように、6と5と4を足したとしても……ほら、15。ここも、ここも全て15になるんだ」

 「全部同じになるの、違う数字が?」

 「そうだ、違う数字が全部同じになるんだ――面白いだろ?」

 「へぇっ、面白いねぇ!」

 「あぁっ――だから今は、もっと沢山の升目を増やしても同じようなモノが作れないか考えてるんだ」



 ――その法則性を見いだすのは、それから数ヶ月後。

 それが、魔方陣と呼ばれるモノだという事を椎名淳平が知るのはそれから5年後の事である。


 今になって思えば、10まで数えるのもおぼつかない状態でこんな事を聞かされても面白い事なんて無かっただろう。

 だがそれでも、彼の視線は奇異の目を向ける大人達とは違っていた。


 人とは違った戯れ――紙と鉛筆を用い、専ら数式を編む事に喜ぶ。

 そんな、おおよそ子供らしくない遊びを好み、ろくに遊び相手もないまま孤立していた椎名淳平の行動を彼は奇妙とも奇怪とも思わず。



 『そんなことしているんだぁ、すごいね、じゅんぺいくんは、すごいね!』



 彼は笑ってくれた。

 まるで自分の事のように楽しそうに、笑ってくれたのだ。


 数を編む事でしか楽しみを見いだせなかった自分を、そのままの姿で受け入れ、初めて認めてくれた人間。

 それが、彼だったのだ。



 ――結局、彼は他の家に引き取られ、離れた場所で生活する事になった。



 だがそれでも、彼との交流そのものが途絶えた訳ではない。

 夏休みになれば彼は度々遊びにも来たし、電話や手紙のやりとりもするようになった。



 月日が流れても、椎名淳平が数式を編む事を戯れとする偏屈な少年である事は変わらず。

 また、そんな椎名淳平を全て、あるがままに受け入れ、共に笑い喜ぶ相手として彼が存在していたのも、変わらなかった。



 時に親友として、時に幼馴染みとして、時にそれ以上のパートナーとして。

 椎名淳平が必要な時に必要な言葉を与え、望む事柄を同じように望む。


 椎名淳平の思い出と呼ばれる記憶。

 その多くに彼は関わっていた。



 自分の思い出を語る時に彼の存在は必要不可欠だったし、またこれからもそうなのだろう。

 そう信じていた椎名淳平にとって。



 彼が死を選んだ――。



 その報告は、まさに青天の霹靂と形容するに相応しいものだった。



 生き残る事が幸運であったとしたら、彼はまさしく幸運の持ち主だったのだろう。

 片手と両足は痛々しく晴れ上がり、全身は打撲と擦過傷で化粧されていたが、命には別状がないという。


 ギプスで固定され幾つもの管をつけられた彼はただ、静かに眠っている。

 鎮痛剤のせいか、意識はまだ戻ってはいない。


 明日の朝までには戻るのでは、というのが医者の見解だった。


 誰も居ない病室で痛々しい肉体を晒す彼の寝顔を見据えながら、その時椎名淳平は、生まれて初めて考察した。

 彼の居ない世界についてを、だ。



 「――うわ、テストに丸がいっぱい――流石淳兄ぃだねっ、丸数えるのめんどくさくなっちゃうくらいあるよ!」



 例えば今より優れた成績をあげたとして。

 それを自分の事のように喜んで笑う彼の笑顔が見られないのだとしたら。



 「はいっ、淳兄ぃっ。お疲れさま――ずっと座って考えてただろ? ほら、ホットミルク。淳兄ぃ、甘いのダメだから砂糖入ってないよ、一服しなって、ね?」



 戯れに編んだ公式と格闘し時を経つのも忘れている自分に、暖かなミルク片手に労いの言葉をかけてくれる彼が居ないのだとしたら。



 「えっ……完全方陣の説明、理解出来たのか? って? ……あは、実はあんまり。でもさ、いいんだよ俺は。淳兄ぃが、楽しそうにしているの見てるのがいいんだって!」



 説明もろくにせず、つい熱くなり語る自分の言葉を全て聞き入れ、楽しそうに見てくれている彼の存在が無いのだとしたら。

 世界に彼が居ないのだとしたら、自分はどれだけ無意味で、また無価値な存在になってしまうのだろうか。

 そしてその無意味で無価値な時間が巡る世界に、これからどれだけ生き続けなければいけないのだろうか。


 身震いがする。

 吐き気がする。


 知らない間に握った手からは、血が滲み出ていた。



 だが、今は生きていてくれていたからいい。

 未だ目覚めない彼の頬に触れれば、彼の震えは安堵の吐息に変わる。


 そう、彼は生きていてくれたのだ。

 だから、目を開けたらすぐにでも伝えなければいけない。


 二度とこんな真似をするなと。
 それも、完璧な方法で。



 二度とこんな真似をする気がなくなるような、完璧な論法を用いてだ。



 椎名淳平は病院の長椅子に腰掛けると、自分の持てる知識を総動員し、彼に生きていてくれた喜びを伝える方法のシミュレーションを開始した。


 元来、頭の切れる男である。

 多くのパターンを考え、多くの思考をし、とにかく伝えたい言葉を効率よく聞かせる方法を考えた。



 幾度の会話パターンを想定して行った模擬試験の回数は、およそ2098通り。


 その中で、有効だと思えたパターンはおよそ260通り。

 さらにそこから、より有効な方法を導き出す。


 最高の一手ではないが、効果の期待される方法を椎名淳平が導き出す頃。

 空はしらみ始めていた。



 彼が目覚めたのは、それから数時間後の事だった。

 会話の許可も程なくしており、唯一の付き添いであった椎名淳平とも面会の許可が出る。



 言ってやろう。

 今は、語らないといけない。



 文句の一つも言いたいが、今はいい。

 ただ、彼が生きていてくれた事を、喜ばないといけない。



 そして、聞かせてやろう。

 夜明けまで必死で考えた、最も効果の期待される言葉をだ。


 そう思っていた椎名淳平にとって。



 「淳兄ぃ――。」



 か細い声で彼が呟いた言葉は。



 「死ねなくて、ごめん――」



 どんな刃物より鋭く、椎名淳平を傷つけた。




 同時に椎名淳平はその時生まれて初めて、自分の無力さとを知る。


 数多の計算式を解いてきた頭が、何の答えも導き出せない。

 結局は何も言えないまま、時間だけが過ぎていった。



 観察、計算、模擬、実験。

 長くそれらを続けていた彼にとって、出来るのは物言わぬ数字との会話ばかり。

 人間の会話は心得ていない。


 だが彼は、それに絶対的な自信をもっていた。

 芯の揺らがないロジックがあれば、大概の事態に対応する事が出来る。



 そう思っていた自信が、激しく揺らいでいた。



 「淳兄ぃ、ごめんごめん、急に顔見たくなっちゃって、来ちゃった」



 椎名淳平の脳裏には、死の跳躍に挑む以前に見た彼の姿が思い出される。

 彼は……。



 「……大丈夫、淳兄ぃ、顔疲れてるけど。俺、何か作ろうか。どうせ食パンくらいしか食べてないんだろ。健康に悪いよ?」



 彼は、自分が退っ引きならない状態だっていうのに、この顔を見てそう言ったのだ。



 「いいんだよ、淳兄ぃは何もしなくても……俺がしてあげたいんだ!」



 そう言って、笑っていたのだ。

 自分の辛さ、苦しさ、憤り。

 それらを丸ごと飲み込んで。



 「……考察を開始しよう。何としても俺が……あいつの……生きる、理由を……」



 無意識に言葉が漏れていた。

 彼が椎名淳平の為に暖かな料理を差し出したかったように。



 椎名淳平は彼の為に、生きる理由を探してやりたかった。




 シミュレーションは再開された。


 だが、改めて彼の考察を始めた椎名淳平は、またそこで思いがけない事実を知る。

 それは、彼が置かれていた境遇が、自分が最初に行ったシミュレーション時に想定した状況を、遙かに逸脱していたからだ。



 椎名淳平の脳裏に、かつての彼の笑顔が浮かぶ。

 彼は、自分が想定する事さえ出来なかった境遇に身を置きながら――それでも、自分の為に笑っていてくれたのだ。


 身も、心も。

 引き裂かれるような生活を強いられながら、それでも笑っていてくれたのだ。



 ただ、自分を心配させない為だけに。



 それは紛れもない彼の優しさであった。

 だが、今知るにはあまりに残酷な献身でもあった。



 「……あいつ」



 彼の過去の事。

 そして、現在置かれている状態。



 全ての材料がそろっているにも関わらず、椎名淳平は考えるのをやめた。


 いや。

 何も、考える事が出来ないでいた。



 自信があったはずの計算も、観察も、実験もなにもかも、全く役に立たない。

 役立てる自信もない。




 無力さを噛みしめながら、椎名淳平がした事は――。



 何もせず、ただ彼の傍に居る事だった。




 誰も居ない病室で未だ安静にしている彼の隣に立つ。

 お互いに何も言えず、長い沈黙が続く。


 それを最初にうち破ったのは、椎名淳平の方であった。



 「俺は――」



 何と沢山のものを彼から、貰っていたのだろう。

 そしてそれに、どれだけ救われていたのだろう。



 「何もする事も出来ない。何をしてやる事も出来ない、がらくた当然の無力な男だ」



 何と沢山の時間を彼と、共有していたのだろう。

 そしてその時間がどれだけ、輝いていたのだろう。



 「でも、必ず、俺が出来ることを見つけるから。お前の為に出来る事、必ず見つけるから」




 計算では出なかった言葉が、彼と居るだけで自然に出る。

 頭には方程式でも、模擬実験でもなく、ただ、彼との思い出だけが浮かんでいた。




 「だから――生きていてくれ、死なないでくれ。 俺、一生かかってもお前の答え、探してみせるから――」



 涙が自然にこぼれていた。

 彼の事が大切すぎて、大切すぎて、大切すぎて、言葉より先に心が零れていた。

 言葉にならない程、彼の事が大切だったのだ。



 頬を伝う涙が、彼の手を濡らす。

 その刹那。



 「うっ――うぁ…………ぁ――」



 慟哭が部屋を支配する。


 椎名淳平は自分の涙も。

 彼の涙を拭う事すら出来ないまま、声をあげて泣いていた。





 それから数年の月日は流れた。

 椎名淳平は今でもまだ、彼に対する明確な答えを見つけてはいない。



 ――だが。



 「淳兄ぃッ、どうしたんだよ、ボーっとしてさ」



 エプロンを揺らしながらせっせと働くのは、椎名淳平が生涯の研究対象として選んだ「彼」の姿である。


 普段と変わらぬ横顔は暫く熱心にテレビに映るアクション映画に釘付けになっていたが、椎名淳平の視線に気付いたのだろう。

 少年のあどけなさを今もなお色濃く残す彼の顔はいま、真っ直ぐこちらを向いていた。



 「いや、別に――ただ、な」



 とにかく今は、研究対象を見失わないよう観察が必要だろう。

 椎名淳平は自分にそう言い聞かせながら、こちらを見つめる彼と不意に彼を抱きしめた。



 「ちょっ……どどどど、どうしたんだよ、淳兄ぃ、急に……」

 「いや、ただな……澪。お前のもっと傍に居たくなったんだが、ダメか?」

 「…………もー、ダメとか言える訳ないっしょ。いいよ、ぎゅって、やって! 俺、淳兄ぃにぎゅってされるの、大好きだ!」



 手が、唇が、自然と触れあい重なっていく。

 室内には、静かな時間が流れていた。


 必ず見つけると、そう約束はしたが――。

 椎名淳平が彼の答え探し当てるのは、まだまだ当分先の事になりそうである。





 <タイトルは、フリーセルの絶対解けないステージの事です(戻るよ)>