>> いとこぐらし。
暖かな日差しがカーテンの隙間より入る。
この日の明るさからするとまだ、早朝だろう。
普段であれば起きなければいけない時刻だろうが、今日は休日だ、急いで起きる必要もない。
椎名淳平は、内心でそう呟くとベッドの中で寝返りをし微睡みに身を預けた。
もう少し深く、もう少し長く。夢の住人であり続ける為だ。
そう思っていた椎名の耳に、ドアのきしむ音と、男の割にやや高めの甘ったるい声がする。
「あ、まだ寝てるっ……ホントにお寝坊さんだなァ」
そう話すのは、椎名の従兄で居候の 七瀬澪 である。
独り身であれば、休日に惰眠を貪るのも一つの過ごし方として許容されるのだろう。
だが、残念ながら彼がそのような休日を過ごす事を、この居候は許さなかった。
「こら、こらこらこら、淳兄ぃっ、何時まで寝てるんだよっ、もぅとっくに朝、朝ですよー、ほら、起きてご飯食べてくださーい、パンも、焼けてますよ、よ?」
そう言いながら、ネコの抱き枕を振り回し、的確にこちらの頭部にダメージを与えようとする。
だが、伊達に椎名も従兄のこの猛攻を受け続けてきた訳ではない。
度重なるベッド内の籠城を得て、ついに椎名は最もダメージを受けない籠城方法を思いついていたのである。
微睡みの中、椎名は布団に潜り込み、枕で頭を防御して夢の世界に逃げ込もうとする。
「くぅっ、淳兄ぃっ、また布団の中でまくらヘルメットを装備してるな……」
装備:ねこのぬいぐるみに効果がないのに勘付いたのか、七瀬は悔しそうに、布団の中から出ようとしない椎名の姿を睨み付ける。
「……淳兄ぃがそういう事するんなら、だったら俺も、本気の攻撃行っちゃうんだからね、覚悟しておけよっ!」
かと思うと、そんな捨て台詞を残し部屋から去っていった。
とりあえず、安眠は守れたという事か。
椎名はベッドの中で溜め息をつくと、再び夢の世界へ戻ろうとした。
うと、うと。
麗らかな日差しは暖かく、心地よい眠りを誘う。
カーテンより差し込む光の温もりに撫でられ、再び夢の門。
その扉を叩こうとしたその時。
「お待たせ致しましたッ、おはようございます、ご主人様!」
さっき以上の猫撫で声で、部屋に立ち入る従兄の気配がする。
だが、何だろう。
この気配に、この迫力。
明らかにさっき、部屋に入ってきた従兄弟とは違う、明らかに格の違う威圧感(プレッシャー)を感じる……。
目を開けてしまえば、自分はもう眠る事は出来ない。
確証はない、だが椎名淳平にはそんな予感した。
眠りたい欲求はある。
だが、この威圧感の正体を知りたいという好奇心もある。
夢と現の間を彷徨う最中も。
「起きない……淳兄ぃっ……じゃない、ご主人様、ほら、朝ですよ起きてください!」
従兄は、寝たふりを決め込んでいる椎名の上に容赦なくまたがり、布団をかぶる椎名の身体をゆさ、ゆさと揺らす。
好奇心がわき出てしまった身に、実力行使にまで出られたのなら覚悟を決めるしかないだろう。
「っ、い……いい加減にしろ、澪! わかった、起きる。今起きる!」
根負けした椎名は、ゆっくり身体を起こすとベッドの上で大あくびをした。
ここまでなら、普段より繰り広げられる椎名淳平と、その居候……従兄であり、幼馴染みである七瀬澪との休日の一幕である。
だが、その日は普段と若干違っていた。
「あは、やっと起きたよ淳兄ぃ……じゃない、ご主人様!」
そう宣い、微笑みながらベッドの上に乗る従兄の姿は。
黒の、ワンピースとしては若干短めのスカートに、これでもか、これでもかと位にフリルのついたエプロン。
エプロンと同様にひら、ひらとフリルのつけられた、カチューシャに、ガーターベルトで固定されたオーバーニーソックスと。
俗に言う、萌え世界でのメイドさんがする姿そのものになっていた。
それを見た瞬間。
椎名淳平は、自分の感じたプレッシャーの正体を知った。
が。
「…………」
その、あまりの衝撃的な姿に椎名の思考は停止する。
彼が感じたプレッシャーの正体は、彼の認識できる常識の範囲を僅かに。
だが確実に逸脱していたのだ。
だが、椎名は元来、頭の切れる男である。
思考の停止は一瞬。
だが、その一瞬の後、彼は一気に今、自分の置かれている状況と昨晩までの状況とを照らし合わせ、従兄であり居候である七瀬澪がいかにしてこのような破廉恥かつけしからん格好をするに至ったか。
その理由を推測した。
答えは……出なかった。
常識的な社会人である椎名の脳細胞では、非常識の塊である従兄の突飛な行動、その意味を見いだす事など、最初から不可能なのだ。
「じゃ、ご主人様も起きた事ですし……俺早速、朝食をお持ちしますね!」
七瀬はそう言うと、エプロンのフリルをはためかせキッチンへと消える。
残された椎名は、寝間着を着替えるのも忘れ改めて状況、その整理をはじめた。
「朝、起きたら……澪がメイド服で……俺が、ご主人様」
椎名の脳裏に、今見たばかりの従兄の姿が思い出される。
自分より数ヶ月ではあるが年上の従兄は、小柄でありまた童顔でその容姿は25才の男性というより女性にほど近く、その肢体も同年代の男のそれより少年の身体に近い。
顔が女性っぽいのは、驚く程に大きな目と雪のように白い肌、薄紅に色づいた魅惑的な唇とが大きな原因。
少年のような肢体のように思えるのは、声変わりもせず、体毛は腋には勿論、今に至っても陰部にさえ見られていないのが大きな原因だろう。
その上に、誰でも信用しすぎる素直な性格と、何処へ行っても子供のようにはしゃぐ性格とが、彼の幼さに拍車をかけていた。
そんな、元々女性的である従兄が、メイド服を着ているのである。
しかも、何故か自分の事をご主人様と、そう呼びくさっているのである。
整理すれば整理する程に、状況は混沌としていた。
「ごしゅじんさま、朝ご飯の準備、出来ましたよ!」
ドアをノックする声で、椎名はとりあえず考える事を辞める。
考えてもまともな答えは出そうになかったし、空腹でもあったからだ。
「わかった、今行く」
椎名は素っ気なく言うと、のろのろと着替えを始めた。
従兄を居候させてから、食事は極力同じ空間で食べる事。
そう決めた関係で、椎名家で食事は共有スペースでとる事と決まっている。
「あ、ご主人様。いらっしゃーい。ささ、暖かいですよ、どうぞ!」
食事の為に部屋に入れば、そこにはきちんと正座して椎名を待つ、従兄の姿があった。
七瀬が穏やかに微笑めば、頭につけたフリルつきのカチューシャもゆらゆらと揺れて見える。
少しでも男らしく見せよう。
そういった努力から、普段着は比較的男性っぽい従兄であるが、メイド服なんぞに身を包んでいる今は元より童顔で女性的な顔立ちもあってか、女の子のそれと大差なかった。
寝間着から着替え、顔を洗い髭を剃る。
ついでにメガネも洗う。
この課程で幾分か冷静さを取り戻したつもりであったが、やはりこの衣装を見ると狼狽えてしまう。
それ程、従兄のメイド姿は愛らしく見えた。
「はい、それではご主人様にコーヒーをお入れしますね!」
慣れた調子でコーヒーをいれる。
目の前には、スクランブルエッグと温野菜に、コーンポタージュスープ。
焼きたてのバターロールとクロワッサンは、従兄が生地から作ったモノである。
「焼きたてですよ、ご主人様のお口にあうかわかりませんけど、どうぞ!」
暖かな朝食は、いかにも美味しそうであるし、実際高い家事スキルを持つ従兄の料理だ。
美味しくないハズはない。
朝からメイドがこうも甲斐甲斐しく尽くしてくれるのであれば、ご主人様としても喜ばしい所だろう。
だが、残念ながら目の前に居るメイドは男である。
しかも自分より若干年上、次の誕生日が来れば26才になる、ちゃっきちゃきの成人男子である。
椎名の胸中に、なま暖かい思いが走った。
「あれ、ご主人様、食べないんですか? ダメですよ、朝ご飯食べないと元気出ませんよ。ほら、あーん!」
七瀬はそう言いながら、クロワッサンを千切りそれを口元へと運ぶ。
「い、いや、食欲がないという訳ではないんだ!」
「そうなんですかぁ、だったら食べてくださいよ! 今日のクロワッサンは、自信作なんですからねッ」
「だから、食欲がない訳ではない。じ、自分で食べるから、置いておいてくれ!」
「にゅ。はーい、わっかりました。ご主人様がそう言うなら、待ちますねー」
七瀬は素直にそう言うと、手を止めてきちんと椎名の脇に正座で控える。
キラキラと輝く瞳。
ふわふわと揺れるフリル。
普段と違う空間が、そこには広がっていた。
――食べづらい。
椎名の、素直な感想であった。
「……食べないんですか、ご主人様?」
いつまでの食事に手をつけない椎名の顔を、従兄は心配そうにのぞき込む。
食べづらい空気だが、何か口にしないと許してくれそうもない。
やむを得ず椎名は、空腹にブラックコーヒーを流し込もうとした、その時。
「まさかご主人様……ご飯より先に、俺を召し上がりたいとか!」
「………ぶはッ!」
従兄の思わぬ言葉に、流しこみかけたコーヒーを吹き出していた。
「ばぁっ、お前何を言って……」
滅多な事に狼狽えない事を自負している椎名であったが、流石に動揺が表に出る。
だが従兄は、少し顔を赤くしながら笑うと、ペタンと床の上に座りこんでスカートをたくし上げた。
「もぅっ……ご主人様ってば、エロエロなんスから……でも、そんなエロスなご主人様もォ……俺、全然嫌いじゃないっすよ! ささ、どーぞご主人様。俺もッ、あっつあつのうちに……ほーら、召し上がれッ」
少し、少し。
黒衣に隠された肌が露わになる……。
「……っ、ちょっと待て澪!」
その秘められた肌、全てが椎名の眼前に露出するより先に、彼は従兄のその手を止めた。
「なぁ、なにするんだよ、ご主人様ー」
「ごしゅじんさまー。じゃないっ、澪……貴様、さては……はいてないな!」
椎名にそう追求され、七瀬は照れたように笑う。
「いや、はいてなくはないよ、淳兄ぃ。こんなカッコして、パンツはいてなかったら、ただの変態っしょ!」
「だが……」
今のアレは……明らかに……だったのだが……。
「ちゃんとパンツはいてるよ、ただこれ……大事な所に穴が開いてるデザインのやつだけどね!」
「……それは、はいてないの同義語だ!」
椎名は軽い目眩を覚えた。
今朝。
従兄がメイド服を着だした時から、すっかり七瀬のペースだとは思っていたが、このままだと完全に飲まれてしまう。
「とにかくっ……お前がその、へんてこな女装を辞めない限り、俺は飯には手をつけない!」
「え、え、何で何でッ、ご主人様ってばイケナイ人っ」
「どっちがイケナイ人だッ! とにかく……着替えてこいっ、着替えてこなければ、お前とは口をきいてやらん!」
フリーダムな生き様に定評のある七瀬でも、流石にそこまで言われたら引き下がる他はなかったのだろう。
「はーい、ごしゅじんさまー」
彼は頬を膨らますと、すごすごと部屋から出ていった……。
従兄が部屋から出た後、残された椎名は湯気のたつ朝食を少しずつ口に入れる。
着替えてこないと、食べない。
そう言ったが、空腹には勝てない。
それに、従兄も着替えると言ったのだ。
今、出ている朝食を食べるのは問題ないだろう。
「……相変わらず、気味が悪いくらいに旨いな」
焼きたてのクロワッサンは塩加減も程良く、スクランブルエッグは半熟具合が実に椎名の好みと適合している。
長い付き合いである従兄は大概の料理を上手に作るが、特に椎名の好みは熟知していた。
「それにしても……」
朝食もあらかた平らげ、ちらりと部屋の出入り口を見る。
メイド服から着替えてこい。
そうは言ったが、ただ着替えてくるだけにしては随分と遅い気がする。
「何をしてるんだ、アイツは?」
意外とメイド服を脱ぐのに手間取っているのだろうか。
そう思ったが、着物を着込んでいる訳でもあるまい、時間がかかるとは思えないが……。
「本当に、心底どうしようもない従兄様だな……」
椎名は食べ終わった食器をキッチンへ運ぶ、そのついでに従兄の部屋へ様子を見に行く事にした。
七瀬澪の部屋はキッチン脇にある、本来は押し入れにでもと物置用にある部屋だ。
もっと広い部屋を宛う事も出来たが、七瀬自身が居候である身分だからと遠慮した事。
また、共有スペースが広い方が後々お互いに楽だろうという事から、一番狭いその部屋に居る。
「澪……何してんだ、居るのか。入るぞ?」
二度、三度。
ノックをすると中から、もぞもぞと人の居る気配はするが、返事はない。
「いいか、入るぞ?」
返事がないなら構わないだろう。
そう思い、部屋に入った椎名淳平の目に飛び込んできたのは。
「ちょ、やめっ……か、勝手に開けんなよっ、ばかー!」
肌を露わにしそう叫ぶ、従兄の姿だった。
着替え途中に入ってしまったか、まだ裸だったか。
一目でそう認識した椎名であったが、七瀬の姿を確認するに従いその認識が間違いであった事を悟る。
七瀬の頭からは、黒いウサギの耳を模したカチューシャがつけられ。
その足には艶めかしい網タイツが。
身体には黒いレオタードが、装備されていた。
「……ふむ、状況は認識した」
両腕を押さえ、必死で肌の露出を隠そうとする従兄を前にしてもなお椎名が冷静だったのは慣れもあるだろう。
「それで、澪。その格好、一体何のつもりだ?」
椎名の冷静な追求を前に、七瀬は少し顔を赤らめるとそれでも笑いながら。
「こんにちは、出張バニーボーイの、ラビアン君です!」
あたかも、自分は熟練のバニーボーイですといった顔で、そう言ってのけた。
「ふむ……お前の言い分は理解した。だが……俺は別に、そんないかがわしいモノを頼んだ覚えはない」
「ウサ!」
「それなのに、何でそんな格好をしているんだ?」
「うぅ、ウサウサ!」
七瀬は部屋の真ん中でちょこんと体育座りすると、もじもじ指遊びをしながらこたえた。
「えと、メイド服がダメなら、淳兄ぃはバニーさん萌えなのかな、と思って、それで思い切ってバニーにしてみたんだけど……」
何を根拠に自分の事をバニー萌えだと思ったのだか解らないが、とんだ誤解であるのは事実のようだ。
「でも、バニー服ってお胸の所がほら、がばがばでさ、男の俺がきるのは無理があるみたいで……」
それは、着る前に気付いて欲しいモノである。
椎名は、心底そう思った。
「で、着ているうちに、淳兄ぃが見にきちゃったから……もー、ダメだよ淳兄ぃ、まだ見にきちゃ!」
七瀬はそう言いながら、椎名の胸元に縋り付きポカポカとその胸を軽く叩く。
その都度、レオタードにつけられたウサギの尻尾がふわ、ふわと左右に揺れた。
良く見れば、何処からもってきたのか、部屋にはあちこちに、似たような類のコスプレ衣装が広げられている。
「これは一体どうしたんだ……?」
三畳しかない従兄の部屋には限界がある程に置かれた衣装だ。
従兄は……余計な金を持たせるとろくな事に使わないので、一度に渡す金額は子供の小遣い程度にしている。
こんな衣装、買う金はないはずだが……。
「えーと、カズ君……ほら、知ってるだろ、高校の同級生の桐生。あいつの妹さんが、似合いそうだからって貸してくれたンだ!」
余計な事を。
椎名は心の底から、そう思った。
衣装棚には他に、ナースやレースクイーン、バドガールにスチュワーデス、アンミラという定番モノや。
プラグスーツや桜ヶ丘高校女子制服など、知る人ぞ知るモノなどがある。
「良くもまぁ、こんなに……」
殆どは女性の衣装であるが、よくよく見れば、ただの半ズボンにワイシャツ、サスペンダーを合わせたモノや。
執事の着るようなタキシード風……ギャルソン服というのか、そういった普通っぽい衣装もある。
コレもコスプレなのだろうか……。
そう考え、椎名は脳内で半ズボンにワイシャツ、サスペンダーと蝶ネクタイに革靴を着用した従兄の姿を思い描く。
靴下は濃紺、いや、白……ハイソックスか。
そう思い、シミュレーションした従兄の姿は……。
「……っ。不覚、この俺とした事が……」
椎名淳平の想定していた状況より、遙かに高い攻撃性を秘めていた。
「あ、淳兄ぃ、もしこの中に俺に着て欲しい衣装あったら言ってよね。せっかく借りたんだし、着ないと勿体ないだろうから」
何が勿体ないのだろうか。
そう思いつつ、椎名は今手の中にあるサスペンダーをこっそり奥の方へしまった。
コレを着用された暁には、自分の理性が保てる自信がない。
「ないな、断じてない、あってたまるか!」
三度言うのは、大事な決意を示すためである。
「そーう? いいんだよ淳兄ぃ、別に何でもさ……俺、淳兄ぃだったら別に恥ずかしくねーし」
見ているこっちが恥ずかしいのだが、その点は考慮してくれないのが七瀬澪という男である。
「しかし……制服やメイド服というのは桐生の妹……若葉君がもっていても不思議ではないが」
椎名はそう言いながら、今し方まで従兄が着ていたバニースーツに手を伸ばす。
「これは、彼女が着るには少し過激に思えるな……」
激しい食い込みのあるレオタードに、網タイツは特にコスプレに対して萌えを抱かない椎名から見ても充分に艶めかしい。
その椎名の脇から、七瀬が顔を出す。
バニーを脱いだ七瀬の服は、何時の間に持ち出したのか。
椎名が先ほどまで見ていた、ギャルソン服……執事を思わす黒服へと、変貌していた。
男にしては小柄、かつ女性的な顔をした七瀬にその衣服は若干大きく。
本来男が着るように誂えている為か肩幅などはダボついた印象があるが、それが妙に愛らしい。
……結局の所、女性的とはいえ美形の七瀬だ。
何を着ても大概、似合ってしまうのだろう。
「あ、バニーさんの服は、若葉ちゃんのじゃないよ!」
「……何だって?」
「それは、神崎せんぱいが、罰ゲームで女の人に着せようとしてたら拒まれた衣装だってさ」
……何故、女性でも拒む衣装を従兄は着ようと思ったのだろうか。
少し考えても愚行だと思うだろうに。
その疑問は、従兄の次の言葉で解消された。
「これさえ着れば悩殺間違いなし、普段真面目な淳兄ぃの心に癒し効果抜群だよ! ……って、神崎せんぱいから言われたから、思い切って着てみたんだけど……どう、どう、淳兄ぃ、癒し効果抜群だった!?」
神崎高志。
今度あったら、とにかく殴るか、殴ると同等の精神的ダメージを与えてやろう。
椎名は心に、強くそう誓っていた。
「とにかく、興味のある服はないな、いつも通りの服に着替えてくれ」
「えー、せっかく借りてきたのにー」
椎名の言葉に、従兄は不満そうに唇をとがらせる。
別に借りてこいと頼んだ覚えはないし、勿体ないの意味も分からないのだが……。
「別に借りてこいと頼んだ覚えはない、それにどうして、こんなコスプレまがいの事をしだしたんだ!?」
頭の中で留めておこうと思った言葉であったが、つい口から零れていた。
「え、だって最近淳兄ぃ……仕事大変そうで、疲れているみたいだし……少しでも俺が何か、癒してあげられないかな、と思って……」
癒し効果でメイド女装が繋がってしまった、その理論がわからないが、七瀬は昔から行動が目的と繋がらない事がある。
追求しても仕方ないだろう。
「それに、最近淳兄ぃ、忙しくて俺にもあんまり構ってくれないし……」
それは、事実だった。
職業柄、忙しい時期には朝から夜まで、ならぬ朝から朝までの勤務さえ当たり前になる職業だ。
家に帰る事もままならず、寂しい思いをさせる事もあるだろう。
だが、休日はその過剰勤務のせいで身体は思うように動かない。
普段より、自分に頼りっきりで生活をしている七瀬が寂しがるのも無理はないのだろう
構ってくれない、と拗ねるのであればそれも当然だと椎名は感じた。
「それに、それにさぁ……」
そこで七瀬は俯くと、今まで着ていた服を脱ぎ椎名の前にその肌を露出する。
その身体には……。
見るのも痛々しい程の傷痕が、深く刻まれていた。
蝋のように白くなめらかな肌には不釣り合いな、深く大きな傷。
その時の記憶は思い出したがらない七瀬だが、彼の語る事が全て事実だとするのならばそれは、殆どが鋭利なナイフでえぐられたモノである。
数えるのも億劫になる程の裂傷と、痣とが消える事は恐らくもう、ないのだろう。
「……こんな汚ぇ身体を、何も言わずに見てくれるのさ。もぅ、淳兄ぃだけなんだよ……だから……」
七瀬は徐に立ち上がると、その指先で椎名の頬に触れる。
「ねぇ、淳平……俺を見て、ほら……俺、淳平しか居ないんだよ、もう、俺には淳平しか……」
椎名は自然と、その指を握りしめていた。
「バカだな、お前は……」
指先から僅かに震えを感じる。
「俺に見ていて欲しいから、仮装の真似事なんかを始めたか?」
責めるような語調の椎名に、従兄は恐れるような表情で頷いてみせる。
「そんな真似しなくても……」
椎名は、頬にある手を強引に引き寄せ自分の腕に従兄の身体を抱いた。
華奢で小柄な従兄の身体は、強く抱きしめれば折れてしまいそうな程にか弱いが、暖かい。
「俺は、そのままの澪がいいんだ」
こういう気持ちは、何と表現すべきなのだろう。
自分の知っている単語を幾つか並べ、吟味したが、上手い言葉が見つからない。
これ程大切である事。
誰より傍にありたいと思う事。
一度に伝える言葉が見つからなかったから。
「澪……」
一番大切なその名を呼び、彼と唇を重ねた。
それは、瞬きする程度の間。
ただ触れるだけのものだったがそれでも……。
「じゅんぺっ……淳平……ありがとっ、ありがと……俺……」
全てが、伝わる。
大粒の涙を零し、喜びの涙を見せる従兄を椎名は、ただ黙って抱きしめてやる。
その日。
椎名の遅い朝は、穏やかな時が流れていた。