>> 火℃






 微睡みの中、まな板の上で軽快に踊る包丁のリズムが聞こえる。
 鍋にはみそ汁が作り途中なのだろう、炒り粉だしの香りが鼻を擽り、否応なく食欲を沸き立たせる。

 ……奥村と付き合い初めてから、三ヶ月が過ぎようとしていた。

 その間、休日ともなれば奥村は俺の家に転がり込み、時に何をするでもなくただ延々と語り合い、時に何かを確かめるように肌を重ねあわせる……。

 そうして眠りについた朝。
 奥村は、休日だからといつもより遅く起きる俺より30分ほど早く起きて、こうして朝食を作り俺が目覚めるのを待っていた。


 「あ、正義さん。おはようございまーっス」


 寝ぼけ眼のままキッチンを覗けば、自前のエプロンを揺らしながら朝食作りに励む奥村の姿がある。
 テーブルの上には、すでに出来上がった出汁巻き卵とほうれん草のお浸しが並んでいた。


 「いつもは俺より早いのに、休日になると本当にお寝坊さんですよねぇ、先輩は」


 時計を見ると、時刻はもう9時を過ぎようとしていた。
 平日、仕事の時は気負って早起きをする俺だが、その反動か休日ともなればいつもよりダラダラと布団に居る事が多い。

 奥村がこうして朝食の準備をしてくれるようになったから、それでも9時頃には起きれるようになったのだが……。
 奥村と付き合う以前は、昼過ぎまで寝ている事も多かった。

 最も、あの頃の俺は今ほどする事も無かったから幾ら寝ていても誰も文句はいわなかったのだが……。


 「はい、これおみそ汁。せんぱい、なめこ大丈夫ですよね? なめこ」


 俺が椅子に座るのと同時に、湯気の舞うみそ汁が俺の前に差し出された。

 まな板に包丁、鍋にシンク……。
 奥村が来るまでは、レンジくらいしか使わなかったキッチンだが、今はどれもぴかぴかに磨き上げられている。

 それまで、チューハイ缶とつまみのピクルス瓶くらいしか入ってなかった俺の冷蔵庫にも、ほうれん草やらトマトにカボチャといった、旬の野菜が詰め込まれるようになってきた。

 主を得たキッチンに、ただ汚れた皿が堆く積み上げられていた頃の面影はない。


 「はい、正義さん。ご飯炊けましたよーっと、いっぱい召し上がれ!」


 キッチンに立つ奥村の姿を眺めていれば程なくして白いご飯が山盛りで出てくる。
 茶碗に溢れんばかりの米の量だ……。


 「おいおい、こんなに喰えるか。俺は牛や馬じゃないんだぞ……」


 苦笑いになる俺の隣に腰掛けると、奥村は無邪気に笑う。


 「いいじゃないっすか、だったら二人で食べましょうよ」


 そうして、山盛りになった飯を一口分だけ取り分けると。


 「はい、正義さん。あーんしてください、ほら。あーん」


 そんな事をしてみせる。
 全く、こんな事をするなんて奥村は本当に子供っぽいと思う。

 時々そんな奥村の行動が、長く一人でいた俺には疎ましく思う事もある。事もあるが……。


 「次、次は俺に食べさせてくださいよ。正義さん! ね、ねっ……いいでしょ、はい。あーん」


 腕に絡まる奥村の体温は温かく、その笑顔は少年をそのまま大人にしたように無邪気で屈託ない。

 ぴかぴかに磨かれたキッチンと、甘えるような奥村の笑顔。
 それはいつの間にか俺の部屋に当たり前にある風景に、なりはじめていたから。


 「仕方ない奴だな……まったく」


 やれやれ、そう呟き頭を掻きながらも、奥村が望む通りにしてやる。


 「ありがとうございまっす、正義さん!」


 隣でそわそわとこちらの様子ばかり伺う奥村を、輝く笑顔にかえてやる為に。





 そんな休日が、当然のように続いていたからだろう。


 「ん……もう、朝か」


 その日。
 カーテンから漏れるあかりに急かされて目を開けた時、珍しく隣ではまだ微睡みの中にいる奥村が静かに寝息を立てていた。


 「知樹? おい、知樹……」


 時刻はもう10時を過ぎようとしている。
 奥村は、平日は俺よりゆっくり眠り俺の後のろのろと出社してくるのが常だが、休日ともなれば俺より早起きだ。

 本人曰く。
 『俺は規則正しい生活を送っているんスよ!』
 との事だが、その言葉通りとでもいうのか。奥村が起きる時刻は毎朝7時30分とほぼ決まっていた。

 そんな奥村が珍しく、今日は3時間以上の寝坊である。


 「おい、起きろよ知樹。おい、おい……」


 そう言いながら肩に触れ、軽く身体を揺すってみるが。


 「んぅ……ぁ、ふぅ……ん、もーちょっとだけぇ……ふぅ」


 奥村は体格に似合わない可愛らしい声をあげ、薄手のタオルケットに抱きつくとまた微睡みの世界へと引きずり込まれていった。

 奥村がこんなに寝坊するなんて、珍しい事もある。
 いや、昨晩はほとんど朝方までお互い寝ていないのだから、いくら奥村が規則正しい生活をするタイプだからといっても、流石にいつもの時間には起きられなかったのだろう。

 昨晩は少しばかり、しつこく攻めすぎた……。

 俺は奥村を起こさぬようこっそりとベッドから出ると、キッチンに入って一つ大きく背伸びをした。
 普段なら暖かな料理が出迎えるのだが、今日はテーブルの上に何もない。

 電気コンロの上には、綺麗に磨かれた鍋が並んでいた。

 奥村はまだ、起きる気配はない。
 冷蔵庫の中を覗けば、卵に豆腐、ジャガイモ、玉葱……朝食を作るのには充分すぎる量の食材が詰め込まれていた。

 ……たまには俺が朝食を作ってやるか。
 ふとそんな事を思い立ったのは、いつも奥村が手際よくこなす姿を眺めていたからだろう。

 奥村がまだ起きないのを確認すると、俺はとりあえず鍋いっぱいに湯を沸かし、ジャガイモやらニンジンやら、自分が調理できそうな食材を吟味しはじめた。

 仕事の忙しさにかまけて、外食やコンビニ弁当が多い俺だが……。
 普段は料理などしないだけ、出来ない訳ではない。
 奥村が目を覚ます前に、普段あいつがするように暖かな朝食で出迎えてやろう。

 そう思ったのだが……。


 「あっ、しまった……湯が早く沸きすぎたか。おっと、この味噌は出汁がないのか、先に炒り粉出汁をいれないと……分量はどれくらいだ。二人だから……いや、その前に米を炊かないとな、えーと、水の分量は……」


 料理というのは、作業工程が思いの外多い。
 奥村は普段から当たり前のように、みそ汁を作りながら卵焼きを焼く……等、二つ同時に行動をしたりするのだが、俺にはどうもそういった器用な真似は出来そうになかった。

 それに、包丁の使い方というのも久しくつかってなければ曖昧になる。
 俺は、慣れない手つきでニンジンを刻むが。


 「あっ!」


 丸みを帯びたニンジンは、まるで切られるのを嫌がるように俺の手から逃れ、シンクの中をコロコロ転がっていくのだった。
 慌ててそれを取り上げれば、隣ではゆだった鍋がボコボコ泡立ち、蒸気をあげていた。

 みそ汁は、沸騰させてはいけなかったはずだが……全く、我ながら手際の悪い事この上ない。


 「……何やってるんスか、正義さん?」


 そう思っていた矢先、キッチンの出入り口から寝ぼけ眼で俺を見る奥村の姿が現れる。
 起きる前に何とか仕上げようと思ったのだが、あまりに俺がキッチンで悪戦苦闘していたからだろう、賑やかすぎて起こしてしまったようだ。


 「あ、何だ知樹。起きたのか?」
 「台所でガチャガチャ音がするし、正義さんもいないから何だろうなって起きたんですよ……何やってるんですか、先輩?」

 「いや……たまには俺が、朝食でも作ろうと思ってな」
 「朝食!? 先輩が? ……何をつくるつもりだったんですか?」

 「そうだな、えーっと……みそ汁とそれと、みそ汁と……みそ汁以外、まだ決めてなかったんだが……」


 しどろもどろになる俺の返答に、奥村は呆れ半分喜び半分の笑顔を浮かべる。


 「何やってるんですか正義さん、慣れない事しちゃって……ほら、包丁の持ち方だって違う、危なっかしいなぁ……こういうのは、俺がやりますから、先輩は見ていてください」
 「だが……それだと、いつもオマエにやってもらって悪いだろ? だから……」

 「先輩そんな事気にしなくていいんですってば! 俺、嫌いじゃないからやってるだけですし。イヤだったら最初からやってませんから、ほら、早く包丁貸して」
 「だがな、知樹」

 「大体、正義さんほとんど台所立った事ないじゃないッスか。料理なんて、ホントは出来ないんでしょ?」
 「そんな事ないぞ、俺だって料理くらいな……!」


 奥村の言い回しに意地になる俺を、はいはいと諫めながらアイツは隣に立つ。


 「じゃ、俺手伝いますから……料理の続きやりましょう。二人なら、ちょっと早く終わりますから、ね?」
 「あ、あぁ……」


 俺から包丁を借り受けると、奥村は手際よくニンジンを刻む。
 それは、さっき俺の手から逃れたものと同じニンジンだとは思えない程だ。


 「今日はニンジンとジャガイモ入ったオムレツにしますから……先に野菜を炒めておこうかな。正義さん、ベーコンは卵の中にいれちゃっていいですよ」
 「あ、あぁ」

 「みそ汁は大根とおあげさんの入った味噌尻にしようかな……先輩、大根と油揚げの入ってるみそ汁食べられますよね?」
 「あぁ、俺は好き嫌いはないが……」
 「それだったら、今俺が刻んだ大根を鍋の中にいれておいてくださいね」


 包丁を握られれば、ほとんど台所は奥村の領域だった。
 俺はただ奥村に言われるまま、指示通りに動くだけの傀儡に成り下がる。

 ……せめてもう少し普段から料理をしていれば、もっとまともな手伝いが出来るのだろうが。
 年ばかり重ねたが、こういう時に我ながら日常生活のズボラさが悔やまれる……。

 そんな他の事ばかり考えていたのが災いしたのだろう。
 大根を入れようとゆだった鍋の端に、俺の肘が引っかかる。


 「あっ、しまった……」


 そう思うより先に、鍋が大きく揺れて傾いた。
 すっかり熱くなった湯が揺れ、俺の身体に襲いかかる……。


 「あ、正義さん。危ないっ!」


 とっさに反応したのは、奥村の方だった。
 避けようと後ろにひいた俺にかわり、揺れる鍋の取っ手を掴む。

 波打つ湯は容赦なく、奥村の右手に降り注いでいたが。


 「大丈夫ですか、正義さん? 怪我、ありませんか!?」


 奥村は自分の腕に湯がかかる事など気にしてないと言わんばかりに、俺の方を振り返った。


 「お、俺は大丈夫だ。だが……」


 揺れた鍋は倒れる事もなくコンロの上に収まるが、傾きかけて零れた湯は容赦なく奥村の手に降り注ぐ。


 「オマエこそ、大丈夫なのか。知樹、腕……湯が……」
 「えっ、俺ですか。俺は……」


 と、そこで奥村はようやく腕にかかった湯に気付いたようだった。


 「うぁっ、熱っちぃぃぃぃ! 正義さんっ、水ぅ。水っ……!」


 慌てて水道水に腕を流し、俺は冷えた氷を差し出す……。
 奥村の火傷もあり、料理どころではなくなってしまった。

 赤く腫れた腕を水や氷で冷やし、痛みが治まったら軟膏を塗り……ひとまず包帯を巻いてやる。


 「これで、良し……と」


 水ぶくれが出来た右腕を、奥村は憎々しげに見つめていた。
 これでは、暫く手を動かす事も出来ないだろう……。


 「すいません、正義さん……俺、慌てちゃって。格好悪いッスよね」


 奥村は珍しいくらいしおらしい表情を見せると、ペコリと小さく頭を下げた。
 そんな奥村が愛らしくいじらしくて、俺はコツリと額を重ねる。


 「そんな顔するな、知樹」
 「正義さ……」

 「謝るのは俺の方だ……全く、慣れない事なんざするからオマエにかえって迷惑かけて、怪我までさせて……面目ない……」
 「正義さん……」


 奥村は静かに目を閉じ、俺はそれに誘われるようアイツと唇を重ねる。
 互いの心に出来た蟠りのような傷は、触れあい絡み合ううちに自然と溶けていく感じがした。


 「……もう、これでどっちが悪いとか。駄目だったとか、そういうの無しですよ。正義さん」
 「あぁ……悪い、知樹」

 「だから、悪かったとか面目ないとか、そーいうのも無しですってば……さて、料理途中だから、仕上げちゃいましょうか、正義さん。俺の言う通りにしてくれますか? 俺、生憎利き腕がコレだから……」
 「あぁ、わかった……」

 「……コレじゃぁ、暫く正義さんにいいコトしてあげられませんね?」
 「なぁに、俺がすればいいだけのハナシだろ? ……じゃ、何から始める?」


 そう言いながら髪に触れれば、奥村は嬉しそうに俺の隣に並ぶ。


 「まず、俺から料理してもらおうかな……どうですか、先輩」
 「腹が減ってるからなぁ……メシが先の方がいい」

 「何だ、つまんねぇの……じゃ、お野菜炒めた後……オムレツは先輩には難しいかな。それ、スクランブルエッグにしましょう。みそ汁はそのまま、出汁入れて、おみそ溶いて……」
 「あぁ……」


 テキパキと指示を出す奥村の姿は流石、料理好きなだけある。
 だがそれだけ、右手に巻かれた包帯が痛々しかった。

 思いの外大きな水泡も出来ていた……この休日だけでは治らないだろう。
 暫く包帯つきで出社するコトになりそうだ、業務に支障がでなければいいが……。


 「悪い、知樹……業務に支障が出たら、その分はフォローするからな」
 「な、何言ってるんですか先輩。大丈夫ッスよ、普段キーボード叩くのが仕事みたいなモンじゃないですか、俺たち。指が動けば問題ないですってば」

 「そうだろうが……」
 「それに、俺ホント怪我したの恨んだりしてませんってば……包帯見るたび、今日、正義さんが俺のために料理作ろうとしてくれたコト。正義さんが、俺の為に心配そうな顔してくれたコト。正義さんが、俺の為にキスしてくれたコト……全部思い出せて、くすぐったいけど嬉しいくらいですよ」


 奥村はそう言うと、何も不安はないと言うように穏やかな笑顔を見せた。
 その笑顔は相変わらず優しくて、温かくて……何かとネガティブに捉えがちな俺の心も自然と前向きにしてくれるから。


 「……わかった、今日は俺がオマエの手になろう。さぁ、何でもいってくれ」
 「はい!」


 俺たちの距離は自然と、近くなっていく。
 全てはある、晴れた日の休日のコトだった。






 <さっきのページに戻るお>