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 久しぶりに実家へ顔を出した俺は、帰ってくるなり溜め息混じりで荷物をテーブルへと投げ出した。


 「お帰りなさい先輩、先にご飯にします? それとも、シャワー浴びちゃいます? それとも、お・れ?」


 帰ってくれば、リビングでくつろぐ奥村がまるで新妻のような質問をしてくる。
 今日、俺が実家から戻ってくるのを知って料理を作り待っていてくれたのだろう。

 テーブルにはカリカリに焼かれた鮭のムニエルに、サラダとキュウリの酢の物等が並んでいた。

 最近、奥村は休日ともなれば俺の家に入り浸るようになっている。
 長く独りの生活が続いていた俺にとって、一人の時間が欲しい時は奥村のこの性格が鬱陶しく思う事もあるのだが、奥村が振る舞う手料理の有り難さから強く言えないまま、いつの間にかアイツが家にいるのが当たり前になりつつあった。


 「……そうだな、荷物を片づけたらメシにする」
 「了解ッス、じゃ、俺、みそ汁暖めておきますね!」
 「あぁ、頼む」

 「……一応、お風呂もすぐ沸きますけど。本当にご飯でいいッスか?」
 「メシだ」

 「はいはーい! ……一応、ゴムも準備してありますけど。本当に、ご飯でいいっすか?」
 「メシだと言っただろ、3回も言わすな!」
 「はいはーい!」


 いつもの下らないやりとりを終えると、奥村がキッチンへ向かう。
 俺は、その気配を背中で感じながら、実家から持ち帰った荷物を整理しはじめた。

 俺の実家は都内にあり、日帰りも出来るため荷物はいつも着替え程度にしているのだが、実家にくらす親父が何かと心配症であり、やれ食事はとっているか、野菜を食べろ、睡眠時間は大丈夫かとあれこれ心配した挙げ句、サプリメントなどをごっそり持たせるため、鞄はすっかり重くなっていた。

 ビタミンCにカルシウム……。
 健康食品とはいえ、これだけ摂取すれば逆に身体に悪いのではないだろうか……。

 そんな事を思いながら鞄の奥底へ目を落とせば、そこに一冊のアルバムがねじ込まれている事に気が付いた。

 このアルバムは見覚えがある。
 親父が「会ってみないか」とデートすすめた女性の写真がのったアルバムだ。

 ……まだ結婚する気はないとあれだけ言って断ったのだが、どうやら親父は意地でも俺と彼女を会わせたいらしかった。
 俺は出てきたアルバムをベッドに放り投げると、また一つ大きく溜め息をつく。

 「いつ結婚するつもりだ」「そろそろ身を固めたらどうだ?」「お前ももういい歳なんだから……」
 最近は、実家に戻るたび親父にそんな事を言われている気がする。

 たしかにここ5,6年と女っ気一つなければ親としては心配なのだろうが……さてどうするか。


 「何すか、先輩。その、アルバムみたいなの?」


 キッチンにいるとばかり思っていた奥村が、知らない間にリビングへ戻っていた。
 俺の後ろから興味深げに今出したばかりのアルバムを眺めている。

 別に隠しても仕方ないだろう。
 俺はそう思い、アルバムを手に取るとページを捲りながらアイツの方へと向けた。


 「あぁ、こいつは……まぁ、言ってみりゃ、見合い写真みたいなもんだ」
 「見合い写真!? 先輩、お見合いするんすか?」

 「いや、見合いって言う程堅苦しい奴じゃない。ただ、会って軽く話でもどうか……って親父に勧められてな。俺の知らない間に、勝手にハナシを進めて、相手側にも写真を送ってたらしい……コレがその、相手の写真だ」


 俺がアルバムを手渡すより先に、奥村は俺の手からそれを奪い取ると勝手に写真を眺める。

 歳の頃なら二十代後半くらいだろうか。
 長い髪をなびかせながら、不器用に笑う姿が何枚か納められている。

 鋭い視線から、自己にも他者にも厳そうな印象を与えるが、美人といっても差し支えのない容姿だ。


 「へぇ、綺麗な人じゃないですか。ちょっと、クールというか。真面目っぽい感じの人ですけど」


 彼女に抱いたイメージは、奥村も俺と概ね同じようだった。
 そうだな、と俺は生返事をする。


 「それで、幾つくらいの人なんですか? この人」
 「28歳……と言ってたな」

 「じゃぁ先輩と10違いですね。背ぇ高そうですね、お嬢様?」
 「さてな……だが、どうやら一人娘らしい」

 「仕事は何してるんですか? OLさん?」
 「そこまで詳しくは聞いてないが、公務員らしいぞ……警察関係の人間だと聞いているが」

 「じゃ、刑事さんかも知れないですね! へぇ……格好いいなぁ」


 奥村はベッドの上で寝転がると、俺よりじっくりアルバムの写真を眺めている。

 ……俺の見合い(という程堅苦しいものでもないのだが)相手に、そんなに興味があるのだろうか。
 いや、奥村は俺の恋人だから興味が出るのも当然だろうが……。


 「で、先輩。どこでやるんですか、お見合い?」
 「……一応、日取りは再来週の土曜で……場所は、中央公園で待ち合わせにしてあるが……」

 「へぇ、悪くないですね。でも、大丈夫ッスか、あそこ人多いから、見つけられますかね」
 「さぁ……どうだろうな」

 「どうだろうな、って無責任な返事だなぁ。もし行っても相手を見つけられなかったら、失礼ッスよ?」
 「そうだが……断ろうと思ってるからな」


 ……俺は、奥村との関係を家族にはいってない。
 奥村が恋人であるという事を恥に思った事はないのだが……それでもまだ、奥村と一生涯を共にする覚悟は、出来ていないのが俺の本音だった。

 奥村もそんな俺を詰る事もなくただ 「先輩はずっとノンケだったから仕方ないッスよ。それにまだ、つきあい始めたばっかりだし」 等と語り、穏やかに笑うだけ。
 俺はその笑顔に甘え、このぬるま湯のような関係に浸っている……。

 だから何も知らない親父は俺が……弟が先に家庭をもっているにも関わらず、未だ恋人一人もつれてこない俺が身を固めない事に苛立ちを覚えているのだろう。
 こうして何処からか縁談を持ち込んでくるのだが、俺にとって好きなのはやはり奥村である事は変わりない。

 そんな恋人の。
 奥村への気持ちを引きずって会ったとしても、上手くいきっこないのは目に見えている。

 最初から破綻する前提の出会いなどしたら、相手にも失礼だろう……。
 だからこそ、俺は最初からこの話は断る事にしていた。


 「えぇっ、何で断っちゃうんですかぁ!?」


 だが、意外にも奥村は俺がこの縁談を断るのに否定的だった。
 恋人が他の相手とデートをする等と聞いたら、もっと怒ると思っていたのだが……。


 「何だ……俺の恋人は知樹、お前だけだ。それだってのに、今更誰かと会った所で先に進む話しもないだろうし、お前だって俺が誰かと会うのは不愉快だろう?」
 「そりゃ、先輩が浮気するって話になったら不愉快ですけど……でも、いいんじゃないですか? リアルなお見合いじゃなく、ちょっと話しするだけのデートであってホテルに直行するとか、そういう話しじゃないんでしょ?」

 「そんな訳ない! ……と、思う。先方の娘さんも一人娘だし、仮にそうなっても俺が断る」


 20代頭くらいの頃ならまだしも、30も半ばを過ぎれば据え膳食わねば男の恥という勢いはない。
 それより、ビールを飲んでさっさと寝たいと思う日々が増えている位だ。

 奥村は俺の体力など気にせず甘えてくるから、仕方なくそれには応じているが……。


 「だったら、行った方がいいッスよ。先輩、色恋に無縁で枯れた印象だからちゃんと女の子にも興味ありますよー、結婚したいですよー。って素振り、少しは見せないと……いい加減、怪しまれますよ?」
 「……そうか?」
 「俺だって、普段は彼女居る設定で頑張ってるんですからね。ほら……」


 等といいながら、奥村は携帯に映し出された写真を何枚か見せる。
 ボブカットで快活そうな愛らしい笑顔の彼女は、奥村がいま付き合っている事にしている、仮の彼女その写真だ。

 奥村は友人の間では自分の性嗜好をカミングアウトしているが、社内などあまり事実を公にしたくない場所では、協力者である友人の姿を借りて偽の彼女をでっち上げている。
 携帯の中にいる美人も、奥村の事を思い協力してくれている友人の一人との事だ。

 正直、フェイクで付き合っていると言うにしては美人すぎるくらいの女性だし、俺も一度会った事があるが、明るく礼儀正しい良い娘さんだ。
 ……奥村と付き合っている演技をする姿を見るだけで、この歳で嫉妬する程に。

 そう、俺が彼女に会うつもりがないと決めたのは、奥村がフェイクとして付き合っている姿を見て、少なからず嫉妬している自分がいたからだった。


 「先輩も、女性に興味あるけど相手されないんだよ〜……って仕草くらい見せないと、会社の人に変な顔されますよ? それじゃなくても、ネットワーク開発部の高野主任は顔もルックスもいいのに女の影がないって事、社内の七不思議に数えられている位なんすから」


 どうやら俺の知らない所で、俺は学校の怪談的なモノのように扱われていたらしい。
 まさか自分が、走る二宮金次郎像やら目の光るベートーヴェンの肖像と同列に扱われていたとは。

 だが、奥村が嫉妬しないというのなら……親の体裁もある、受けてても構わないか。


 「そうか……お前までそう言うなら、会うだけ会ってくるとするか」
 「はい、先輩。いってらっしゃい! へまして、お持ち帰りされないよう注意してくださいね?」
 「はいはい……」


 かくして俺は二週間ほど後。
 気乗りのしないまま、親の決めた相手と顔を合わせる事に相成ったのである。




 二週間。
 およそ半月という時間は長いようで短く、気付いたらあっという間その時を迎えていた。


 「……見合いじゃないっていってもトレーナーみたいな気を抜いた服は駄目ッスよ! ほら、コレきてコレ! 靴下もそんな安いのじゃ、オッサンだと思われますから! あと、香水もつけてって下さいね!」


 時間前からたたき起こされ、奥村にアレでもない。コレでもないと。
 家にある服を引っかき回され着させられたジャケットと香水とで無理矢理お洒落させられたまま時間前に待ち合わせ場所へと到達すれば、驚いた事に先方はすでに到着していた。

 今まで付き合った相手のほとんどが、待ち合わせにはギリギリか。
 やや遅れてくるのが普通だった為、多少は遅れてくるのではないかと思ったが……どうやら外見の印象通り、生真面目な娘さんのようだ。


 「わ、悪い。遅くなって……滝さんですね?」
 「あ……」


 彼女は一瞬、まるで不審者でも睨め付けるような鋭い視線で顔をあげるが、俺が待ち合わせの相手だという事に気付いたのだろう。
 すぐに不器用に笑うと、その長い髪を揺らしながら小さな頭を下げた。


 「いや……待ち合わせ時刻はまだ早い。貴方が、高野……さん、だな」
 「あぁ……」


 ……やはり相手も、親に言われ無理矢理引っ張り出されてきたのだろう。
 会話は続かず、何をはなしても何処かぎこちない。


 「……とりあえず、行きますか? ここで立ち話しするのも何だし」


 彼女の趣味やら人となりを知るには、この公園は広くまた人目も多すぎた。
 そう思った俺は、ひとまず彼女を事前に調べておいた喫茶店……奥村が「ここがいいっすよ!」と強く推し、下見にいった場所へ案内した。

 カツ、コツ。カツ、コツ。
 乾いたヒールの音が、舗装された道を軽快に刻む。

 洗練された動きをする女性だな、と俺は素直に思った。
 奥村が居なければ、かなり強い好感を抱いていただろうとも思う。

 美人といっても差し支えのない顔立ちをしていたし、その所作も機敏である。
 ただ少し堅苦しいとでもいうのか。

 まるで警護中のSPを思わす歩き方をしており、並んで歩くとデートというより要人警護をされている気分になるのが気になる所だったが……。


 「ここです、どうぞ……」


 案内したのは、アンティークの家具に包まれた落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。
 バーのマスターは物静かにサイフォンを眺め、レコードからは静かなクラシックが流れる、まるで時間から隔絶されたような幻想的な喫茶店は、何処か固い印象の彼女の心も幾分か解きほぐしたのだろう。


 「なるほど……良い店だな」


 それまで警戒の色ばかり見せていた顔に、初めて穏やかな笑顔が浮かんだ。

 公園で出会った時は、何ら自分の事など語らなそうな女性だなと思ったが……。
 喫茶店の雰囲気が良かったからだろう、これなら思ったより楽しい会話が出来そうだ。

 俺は内心、この喫茶店を見つけてきた奥村へ感謝をしていた。

 それにしても、女性をエスコートするなんて何年ぶりだろうな。
 向かい合った彼女も、暫くは何を語ればいいのか分からない、といったような様子で、幾度も幾度も店内のメニューにばかり目をやっていた。

 だが、とりあえずと思って出した趣味の話題になった時、事態は一変した。


 「実は、趣味と言えるのは映画くらいでな」
 「……映画か! ……どんなのを見る?」

 「何でも見るが……脚本が練られたものが好きだな。そういう意味で、一部屋で限られた登場人物の作品は好きだな……演出と意外性が重要にもなってくるから」
 「そうか、私も実は……」


 映画好きである。
 俺のその言葉を皮切りに、とたんに彼女は能弁になった。

 ……実は彼女も、小さい頃親につれていってもらった映画館で映画を見てからそのスクリーンに圧倒されて以後、大の映画好きであり、学生時代は映画好きが高じて演劇部をやっていたというのだ。


 「なるほど……やはり女優だったのかい? その、演劇部では」
 「まさか! 私のような地味な顔で女優など……脚本や、演出などを主に担当していた。楽しかったな、あの頃は……」


 地味な顔だと彼女は言ったが、どう見てもそんな風には見えない。
 背筋が通った、美しい女性である。

 ……俺もよく、自分の事をそんなに良い男ではないからと卑下し、それを「先輩がイケメンじゃなかったら全国の普通のオッサンに失礼すぎますよ!」と奥村から怒られるのだが、彼女もどうやら自分の容姿に必要以上に劣等感を抱いているようだった。

 そう、どうやら彼女は俺とタイプが近い女性らしい。
 もし、奥村より先に出会っていたらあるいは……。


 「……随分長話をしてしまったな、少し失礼する」


 注文した珈琲も、気付いたら空になっていた。
 話は思いの外盛り上がり、小一時間ほどたっていた。

 何処に行くんだと思ったが、ハンカチを手に取る彼女をみてそれは野暮な質問だと察し、静かに頷き彼女が戻るのを待つ。
 その時、不意にそれまで彼女が座っていた席に、誰か別の男が腰掛けた。

 ……店内はお世辞にも広くはないが、それでも席はまだ充分空いている。
 相席をする必要はないし、何よりそこはさっきまで彼女が座っていた席なのだが。


 「悪いが、この席はツレが……」


 と、そこまで言いかけて、俺はやっと現れた人影の正体に気付いた。
 サングラスにマスク。普段の服のセンスからは考えられない程地味なトレーナーというあやしい風体だが、その下にある目は間違いなく奥村の目だ。


 「……知樹? 知樹か」


 確認のため問いかければ、奥村はマスクとサングラスを外しながら見慣れた顔を俺の前へとさらす。
 その表情は明らかに不機嫌に歪んでいた。


 「……何だ、知樹。何時の間にここへきたんだ? いや、それ以前にどうしてここに居る?」


 俺の質問に、奥村は暫く頬を膨らますだけで答えようとしなかったが、すぐに自分にはあまり時間がない事……ほどなくすれば、彼女が戻ってくる事を思い出したのだろう。
 しぶしぶ、といった様子になるとサングラスを弄りながらぽつり、ぽつり語り始めた。


 「……おれ、正義さんが見合いするとか……どうせ先輩だから、ガッチガチになって上手くいかないんだろうなぁとか思って……遠くから見て、後でからかってやろうなんて。そんな風に思って……どうせこの喫茶店に入るだろうと思っていたから、先にここに来て待ってたんですよ。コーヒー頼んで」


 コーヒー一杯で俺たちより先に来ていて、俺たちの話しに耳をそばだてていたとは……。
 店からすると随分見入りのない客もあったものだが、今の論点はそこではない。


 「何言ってるんだ、お前……だったら遠くで俺がガッチガチになってる俺を見てればいいだろう? さっさと自分の席に戻れ」


 女性の小用は往々にして長いとはいえ、ここで奥村と言い合いをする程、のんびりともしていないだろう。

 彼女が戻ってきたら、何というか……。
 俺と奥村の関係を伏せて話したとしても、デートを覗き見されたのだと知れば、快くは思うはずもない。

 だが奥村は頬を膨らますばかりで、席を立とうとしなかった。


 「知樹! ……お前のワガママなら後で聞く。だから今は席を立て!」


 俺はらしくない程強い語調になると、それでも動かないアイツの手を取り無理矢理でも立たせようとする。
 その手の先で、奥村は……普段から明朗なあの奥村がうつむきながら、力無い声を漏らしていた。

 「……最初、やっぱりガッチガチの正義さん見てて、あー、やっぱりなーって笑ってたんです、俺。でも、でも……正義さん、何か段々うち解けてきてるというか。話が盛り上がってる様子で、楽しそうに笑っていて……相手の人も、何ていうんだろうな。正義さんにちょっと似た印象で、遠くから見て。あ、理想のカップルってこういうのだろうな、って思ってたら、何つーか。俺、俺……」


 奥村はそこで言葉を切ると、ただ黙って拳を握るだけだった。
 だが、先の言葉は紡がれないからこそ分かる。

 俺が誰と会おうと大丈夫だ……。
 奥村はそう言ったが、実際は大丈夫でも何でもなかったのだろう。


 「……何だ、大丈夫だって言った癖に嫉妬とは……ガキだな、お前は」
 「どうせ俺は、先輩から見りゃ子供ですよ」


 ぶぅ。と鼻を鳴らしながら、奥村はそっぽむく。
 奔放な今風の若者だと勝手に思っていたのだが……どうやら奥村は、俺が思ったより、独占欲が強いらしい。


 「……心配しなくても、別に彼女をどうこうしようって腹づもりはないさ」
 「でも! 正義さん、すっごく楽しそうだったし! 俺……」

 「たしかに彼女は魅力的だ。美人だしスタイルもいい、映画だってお前なんかよりずっと詳しいから、俺とも趣味があうだろう。お前と会う前なら、結婚を前提に考えていただろうな」
 「やっぱり! どうこうしようって魂胆なんじゃないッスか、正義さ……」

 「……だが、今はお前と出会った後だ。この心に、どうしたらお前以外の誰かが入る?」
 「ちょ、正義さん何いって……何いってるんすか!」


 ばか。と小声で呟いて俺の腕を軽く叩く奥村の頬は、明らかに赤くなっている。
 普段は俺を翻弄して、からかってばかりのアイツが随分と初な反応を見せる……これなら、嫉妬されるのもたまには悪くない、か。


 「とにかく……今は戻れ。お前のワガママや嫉妬や恨み言は、後でたっぷり聞いてやるからな?」


 俺は少し、強く奥村の腕を引くと、誰にも見られぬよう手早く唇を重ねる。
 普段の奥村なら、ただ触れるだけの何も求めないキスをする俺を「子供じゃないんだから」と笑うだろうが、その日はまるで奥村が初めてキスをした学生のように耳まで真っ赤にしてみせると、「も、もう。何してるんスか? ……見られちゃいますよ?」等と小声で呟き、恥ずかしそうに俯いた。

 その時、小用を終えたのだろう。
 今日のデート相手がその長い黒髪をなびかせながら戻ろうとする姿が見える。


 「さぁ、行け知樹、いいな?」
 「……はい」


 彼女がこちらに視線を向ける前に、奥村は荷物をまとめ早々に店から出ていった。


 「待たせたな、高野さん。今のは、誰だ?」


 見られないうちに、と思ったがしっかり見られていたらしい。


 「会社の同僚さ。この喫茶店を教えてくれた奴でな……今日、たまたま来てたらしく、俺を見かけて話しかけてきたって訳さ」
 「同僚か……高野さん、貴方の同僚とやらは花粉症か?」

 「いや、そうとは聞いてないが。それがどうした?」
 「サングラスにマスクだなんて、まるで変装のような格好で外を出歩いていたのでな。気になっただけだ」


 よく観察している女性だな、まるで刑事のようだ……俺は内心そう思い、苦笑いになっていた。


 「……さて、これからどうする。少し街を歩いてみるか。それとも」


 彼女と映画について語らうのは楽しかった。それは事実だ。
 だが、奥村があんな風に膨れているのを知って、放置しておくのも可哀想だろう。

 それに、彼女だって最初からその気がない男に、貴重な時間を使うのは本意ではないだろう。


 「悪い、滝さん。実は、俺はな……恋人が、いるんだ」


 何より、これ以上黙っているのは俺の気持ちが収まらない。
 その思いから、俺はこの茶番を終える為の言葉を告げた。


 「そうか……なるほどな」


 恋人がいるなら、どうして見合いの真似事などを。
 当然聞かれると思っていたのだが、彼女は冷静なまま俺を見ていた。

 そして、次に少し笑うとその長い髪をかき上げて。


 「実は……私もなんだ。親にはまだ言ってないのだがな……」


 俺と同じ告白をした。
 ……どうやらこの見合いごっこは、お互い最初から気乗りしない、親の面子だけをたてる行事だったようだ。


 「何だ、そうだったのか! いや……アンタにその気があるなら悪いと思ってたのだが……そりゃ、良かった」
 「私もだ。まだ親に紹介出来る段階ではないからと距離を測っているうちに、母が勝手に縁談だとまとめはじめて困惑していたのだが……貴方を傷つけなくて、安心した」


 と、そこで彼女は不器用ながらも優しい笑顔を見せる。


 「同じ趣味をもつ人間に、悪い印象を与えたくはないからな」


 それは俺も同じだった。
 映画好きとはいえ、映画の好みまで重なるという事はあまりない。

 彼女と話した映画談議は、久しぶりに有意義な一時だった。


 「……さて、お互い恋人が居る事もわかった所で何なんだが、高野さん。これからも私の映画語りに付き合ってくれる、友人になってはもらえないか?」
 「友人か……悪くないが、いいのか? キミの恋人は、男と話してたら嫉妬するんじゃないかな?」

 「さぁな。鈍感だからたまには嫉妬の一つでもしてほしいもんだが……何せ私の恋人はどうも映画の趣味が合わないのだ。趣味のある友人は、大切にしたいんだが……駄目か?」
 「いや、別に駄目じゃないが……」


 奥村は何というだろうか。
 ふくれっ面をみせるあいつの表情が、脳裏に浮かぶ。


 「……貴方の恋人が、嫉妬するというのなら私も無理は言わないがな」


 そんな俺の心を読んだように、彼女はそうとも告げた。
 ……会うのは怒るかもしれないが……メールでやりとりする位なら、アイツでも許してくれるだろう。

 それでも嫉妬するようなら、奥村もつれていけばいい。
 恋人と紹介できなくても……友人としてつれていけば、彼女も疑わないだろう。


 「別にかまわないさ……メールアドレスを、教えてもらえるか?」


 慣れない赤外線受信をし、メールアドレスを交換すればもう、この茶番は充分な役目を終えただろう。
 俺はのろのろと立ち上がると、「そろそろ行くか」と告げながら出口へと向かう。

 「じゃぁ、またな。滝さん……」
 「あぁ、こちらこそ。いい映画情報があったらいつでもメールしてくれ、楽しみにしてるからな。それと……」


 と、そこで彼女は一歩俺の傍に近づくと、背伸びをしながら小声で告げた。


 「……恋人、随分年下みたいだな? 振り回されるだろうが、せいぜい甘やかしてやれ。あぁいうタイプは、甘やかしてやった方が喜ぶだろうからな」
 「はぁっ!?」

 「お似合いだと思うぞ……では。ご機嫌よう、高野さん」


 そして悪戯っぽく笑うと、ひらひらと手を振りながら人混みの中を颯爽と歩いていった。

 ……何で気付いたんだ?
 いや、俺たちが知らない間にすでに見られていたのか……。


 「はは……」


 俺は力無く笑うと、雑踏へ背を向けた。
 帰るべき場所に戻る為に。

 恐らくは俺の帰りを怒りと不安が入り交じった状態で、そわそわと待ち続けているあいつの隣に戻る為に。






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