>> 離    れ






 その日。
 普段滅多な事では愚痴を言わない奥村が、珍しく不満ばかりを垂れ流していた。


 「あー、やだやだやだやだ! どうして俺が。俺だけが、こんな事しなくちゃいけないんスかー」。


 今日、何度目とも知れない「嫌だ」を繰り返し、ベッドの上で寝ころんでは、カレンダーを見て溜め息をつく。
 これら一連の流れを今日はもう、10回以上繰り返しているだろう。


 「……そういうな、社内決定だからな」
 「それは、分かってますよ! でも……はぁ、嫌だなぁ……」


 奥村はまたカレンダーを見ると、深い溜め息をつく。
 暦には赤い丸が囲まれ、矢印で二週間の「新人研修」の文字が入っていた。

 ……うちの会社には何かと研修が多い。
 創始者が「モノ作りよりまず、人作り」をモットーに掲げ、人材をきちんと作る事が発展につながると語っていた事もあってか、特に新人3年目までは良く研修が組まれるのだ。

 カレンダーにある二週間は、奥村が行く新人研修の日程だった。


 「いくらなんでも、二週間とか長すぎると思いませんか。はぁ……」


 今日、何度聞いたかわからない溜め息が俺の耳に入る。


 「……長くても何も、社内命令だ。会社人として、行ってくれなきゃ困る。そんな顔するな」
 「それは! わかってるんですけどぉ……でも、二週間も先輩に会えないのとか……いくらなんでもこの時期に、残酷すぎますよ……」


 俺が、奥村と付き合いはじめて一ヶ月半が経とうとしていた。

 付き合って三ヶ月までは最高に楽しい……。
 なんて、飲み会で誰かが楽しげに語っていた記憶もあるが……奥村にとって今、俺と会える時間は、例え仕事であっても楽しい時なのだろう。

 その、当たり前にあった喜びが唐突に断たれてしまったのだ。
 不平の一つも口にしたくなるのは当然だろう。

 それに……俺はもう随分と歳をとってしまったから、二週間なんて時も「たかだか」二週間。
 寝て起きて仕事をしていればあっとうい間に過ぎてしまう時間だが、まだ年若い奥村にとっては長い二週間に感じるのだろう。


 「それに……この研修、俺の待遇も何か非道いらしいんすよ」
 「待遇が非道い? ……どういう事だ?」

 「今回の研修、うちの会社がもってる施設でやるらしいんスけどね……この研修、他の子会社とかから来た新人に、地域別で部屋割りとかしてるみたいなんですけど! ……なんか、今回、こっち方面の新人って俺だけらしくて……俺、一人で泊まらなきゃいけないんスかね」


 奥村はそう言いながら、いじいじと布団を握り手遊びなどをして愚痴りはじめた。
 奥村はどちらかというと賑やかな中に居る方が好きなタイプ……社交的で愛想がいいムードメーカー的な存在だ。

 一人でいるより、常に誰かにいて欲しいタイプでもある。
 それを示すかのように、俺と付き合い初めてからは週末ともなれば必ず、俺のマンションへ戻ってくるようになっていた。


 「……仕方ないだろう。今回の研修は、お前の同期たちは先にすでに受けていた研修だったんだ」
 「何で俺だけその研修、受けるの遅れてたんですかー?」

 「……研修期間に、お前だけ俺のプロジェクトに組み込まれていたからだ」
 「だったら先輩のせいじゃないッスか、責任とってくださいよー!」


 奥村はベッドの上で両手、両足を投げ出すとバタバタ暴れて見せた。
 ……子供か、こいつは。


 「責任とれっていわれてもな……」


 俺はベッドの上に座ると、寝ころぶあいつの胸元をシャツの上からなぞってやる。


 「……俺にどう、責任をとってほしいんだ? 生憎、俺は知っての通り。お前を喜ばせる方法なんざ、ほとんど知らない男だぞ」


 ぎしり。
 俺が手をついただけで、安物のベッドは大きく傾く。
 奥村の目は驚いたように見開いて、その頬は見る見るうちに赤く染まっていった。


 「ちょっ! な、何言ってるんですか先輩! べ、べつに高野先輩がそんな、責任の取り方なんてしなくてもいいッスよ!」


 奥村は急に飛び起きると、大げさに手をばたつかせる。
 普段は俺の事をからかうような素振りを見せるから、たまには俺から仕掛けてみたが……案外、可愛い反応をするんだな。

 内心微笑む俺の様子には気付いてないのか。
 奥村はベッドの上であぐらをかくと、独り言のように続けた。


 「あーあ、せめて同室に誰か居てくれればなぁ……二人部屋なんでしょ、研修の宿泊施設」
 「……あぁ」

 「誰か一緒にいれば、友達とか出来るかもしれないのに。一人だけだったらつまんないなぁ……仲良くなった奴の部屋とか、潜り込んじゃ駄目ッスかね?」
 「ベッドしかない狭い部屋だ、お前が潜り込んだらすぐ追い出されるだろうな」
 「えー、マジっすか。あー、ホントやだー。俺、一人って駄目なんすよー」


 奥村は頬を膨らませながら、落ち着きなく身体を揺らす。
 賑やかな場所が好きな奴だとは思っていたが、ここまで一人で居る事を嫌がるとは思っていなかった。

 ……何か、一人になる事にトラウマでもあるのだろうか。
 考えてみれば俺は、奥村のそういう事……過去や家族について、学生時代について等はほとんど知らない。

 俺自身、今の奥村が好きな訳だし必要ならあいつから語るだろうと、そう思っているから触れないでいたが、一度くらい、聞いてみてもいいのかもしれないな……。


 「……ところで、先輩。その、研修施設に……出ないですよね、アレ」
 「アレ? ……ゴキブリか? うん、古い施設でちょっと陰気な雰囲気はあるが、鉄筋だからか、周囲が森の中にある割には虫は出ないぞ。何度か行ってるが、ゴキブリやら百足やら蜘蛛やら、足の多い連中はお目にかかった事ないからな」

 「いやいや、そういうのじゃなくて! その、アレっすよ……ヒュー、ドロドロドロドロ。なんて、BGMがよく似合う、うらめしや〜って言う奴」


 何だ、お化けの事か。
 急に奥村に問いかけられ、俺は以前同僚の向坂から聞いた話を思い出した。


 「そうだな……俺は見た事ないが、何でもあの施設は以前共同墓地だたという噂でな。夜になれば何処からか女の泣き声が……」


 聞かれたから答えたのだが、隣に座る奥村の顔がどんどん青ざめてくる。
 かと思うと。


 「ちょ! まったまったまった! 先輩、何いきなり怖いハナシはじめちゃってるんスか! 俺、そんな心の準備とか出来てないんすけど? てか、聞いちゃった! 聞いちゃったよぉどうしよう、怖い怖い!」


 半ば泣き顔になり、俺の言葉を留める。


 「何だ、自分から聞いた癖に……」
 「聞いたけど! ……いきなり話すのとか無しッスよ。俺、そういうハナシ、マジで凄い苦手なんすから……」


 そうだったのか、それは初耳だ。
 何せこいつはよく、俺とグロテスクなスプラッタ映画などを見ては笑っていたからだ。

 ホラーで怖がらせてやろうと見せていたのだが、全く怖がらないのでてっきり大丈夫なのだと思っていたが……。


 「でも、見てたよな、ホラー映画」
 「……だって、ホラー映画は怖いの一瞬だけの、ジェットコースターみたいなもんじゃないッスか。その、怖いハナシってのはいかにも背後で誰か見てそうで苦手なんすよ。俺、ジャパンホラーってんですか? 幽霊とか呪いとか、そういうハナシ苦手ですから……」


 そうだったのか。
 俺は何となく、奥村に対して苦手なものはないといったイメージを勝手に抱いていたから、少しだけ以外な気がした。


 「あー、もうやだ! もう怖い! もう行きたくないッ! ……月曜なんか来なきゃいいのになァ」


 休みがあけた月曜になれば、いよいよ研修が始まる。
 暫くは研修の為、研修施設という見知らぬ場所での寝食が始まるのだから、気分も憂鬱になるのだろう。


 「そう言うな、たった二週間だ」
 「二週間も、ですよぉ……先輩とも会えなくなるし、幽霊出るし最悪ッス……もう俺、怖くて眠れないッスよ!
 「本当に、仕方ない奴だな……」


 俺はベッドの上で膨れる奥村を、後ろから抱きしめるとその耳に、首筋になるべく優しく唇を滑らせた。


 「……今日は、俺が傍で。一緒に寝てやる。それで、いいだろ」


 奥村はくすぐったそうに身を捩らすが、俺の唇を拒絶するつもりは無いのだろう。
 顔を俺の方に向けると、嬉しそうに笑ってから傍にいる俺と軽く、口付けをかわした。


 「……だーめ。それだけじゃ嫌っすよ、正義さん。俺、二週間も貴方に会えないんすから……二週間分、たっぷり愛してもらいますからね?」
 「二週間分って……おい、勘弁してくれ、俺、幾つだと思ってるんだ?」
 「大丈夫ッスよ、正義さんのペースにあわせて……明日の休み、たっぷり一日愛してくれればいいッスから!」


 その要求のどこに俺が大丈夫の要素があるんだ……。
 それに、二週間会えない……か。

 そういえば、まだコイツはあの事を知らないのだ。
 だが、それならそれでいい、別に言う必要もないだろうし……。


 「……はいはい、ご期待に添えられるよう頑張らせて頂きますよ、王子様」


 俺は苦笑いになりつつ、あいつの手をとり指先に口付けをした。
 一人になるのを怖がる、寂しがりな奥村を少しでも喜ばせる為に。




 ……歓喜の時は瞬く間に過ぎ、すぐに新しい日が昇る。
 研修当日。

 電車とバスにゆられ、会場へと到着した奥村はきっと、会場には思いの外多くの新入社員たちが集まっているので面食らっているのだろう。

 うちの会社は、規模が大きい。
 新入社員の人数は、子会社も含めてかなりの数になる。

 各地から集まる新人研修には、100には至らないまでもそれに近い人数が集まっていた。
 今頃、研修会場の雰囲気に飲まれ落ち着きなく周囲を見渡している頃だろうか……。

 あれこれ想像しながら、窓の外を見る。
 俺の手元には分厚い資料が置かれていた。


 「高野さん、高野さん!」


 誰かのよそよそしい声が、俺の耳元で響く。
 時計をみれば、予定時間5分前……そろそろ仕度をはじめてもいい頃だろう。


 「分かってる。こっちは準備万端だ、プロジェクターの準備は?」
 「はい、いつも通りです……いつもすいません、高野さん」

 「何、別段かまわないさ……これだって俺たちの立派な仕事だ」
 「ですが、本来は専門外でしょう。こういう事は……本来なら外部の講師を招くべきなのでしょうが、社内の事ですからあまり外部には委託出来ず、結局はいつも貴方たちにお願いする事になり、こちらとしては申し訳なく……」

 「いや、そう気にするな。こっちも、その予定でスケジュールを組んでもらっているし、ただ働きだって訳ではないし」
 「でも、高野さんこういう事、あまり好きじゃないでしょう?」


 たしかに、専門外の仕事をねじ込まれるのはあまり好きではない。
 特に俺は元々、アドリブ的な行動は苦手なのだ。

 だが……。


 「いつもは、な。だが……今回はそう、嫌いでもないな」


 俺は少し笑うと、俺の言葉その意味を計りかねる男を前に目の前にある扉を開けた。


 「では、最初の紹介だけは頼む。後は段取り通り、基礎についての説明から入るからな」


 小声で指示すれば、男は頷いてからマイクをとる。


 「それでは、本日の研修……ネットワーク通信の基礎と概要について、講師はネットワーク開発部第七班研究主任、高野正義さんです」


 まばらな拍手とともに、俺は会場へと入る。
 ……うちの会社では、新人研修として講師を招く場合もあるが、圧倒的に社内の人間を使う場合が多い。

 例えば接客やマナーなら営業部から。
 運輸、物流に関しては経理部の主任職が講師となるのが普通になっていた。

 主任職から、というのはこれは、将来は課長職、部長職の候補生たちに新人を育てさせる事でより強固なチームワークを作る為というのが一つ。
 沢山の人間を前にしても冷静でいられるような、一種の精神修行としての意味合いが一つだという。


 「先ほど紹介にあがった、高野正義です。今回は……」


 勿論、俺をはじめほとんどの人間が、講師なんて事は専門外の仕事だ。
 だから、この新人研修の講師役は大概皆嫌がってやらず、押し付け合いになる事が多い。

 ……今回の俺のように、進んでやる奇特な人間は滅多に出ないのだろう。
 だが……。

 俺は目敏く会場を見渡し、あいつの姿を……奥村の姿を探す。
 これだけ人数がいれば見つからないかもしれないと、そう思ったが、細身だがどこかあか抜けた印象の奥村は何処でもやはり目立った存在だった。

 ブランドもののソフトスーツをゆるく着こなしたアイツは、俺を見て目を白黒させている。
 ……まさかこの壇上に、俺が立っている事なんて夢にも思っていなかったのだろう。

 研修で、さぼるつもりはなかったのだろう。
 前から3番目の席、それも真ん中に近い場所に座っているのは立派だ。

 ……だが、その目はただ呆然と俺を追いかけているだけ。
 アレだときっと、俺の話は半分も入ってないだろうな。

 俺は一度溜め息をつくと、スクリーンに映し出された画像を指し示しながら淡々と研修内容の説明を続けていた。
 時々、唖然とした表情で固まる奥村の顔を遠目で確認しながら。





 「どういう事ですか、先輩ッ!」


 研修も、初日が終了した。
 それまで講師として、別室に籠もっていた俺だったが、17時を過ぎれば一応は終了時間。

 各々、休憩と相成ったら流石に逃げ切る事は出来なかった。
 廊下を歩いている所、半ば強引に腕を引かれると物陰につれこまれた俺は、驚きより怒りの勝った奥村を前に内心笑いが止まらなかった。

 こんな顔をしている奥村を見るのは何時ぐらいぶりだろう。
 ひょっとしたら、初めてかもしれないな……。


 「どういう事と言われてもな……ここの研修は、主任職によく回ってくるんだ。知らなかったか?」
 「知りませんでしたよッ! てか、どうして言ってくれないんですか!」

 「……聞かれなかったからな」
 「聞く訳ないでしょ、先輩新人じゃないんだから、今度の新人研修に先輩行きますか? なんて……」

 「はは、悪かったな。だが、たまにはいいだろ? サプライズだ。……いつもはお前に仕掛けられてばかりだから、たまには俺からな」
 「たまには俺から、って……先輩のサプライズは、サプライズ越えてもうドッキリですよ! もー、何すか、俺本当に驚いたんですから……」

 「謝ってるだろう? それとも……俺が来てたら、都合が悪かったか?」
 「そんな事、無いッスけど……」


 と、そこで賑やかに声をあげながら、二人の男が通りかかる。
 恐らく、同室になる予定の新人たちだろう。「あっちだ、いや。こっちかな」等と語りながら、彼らは慣れない廊下を進んでいた。


 「それじゃ、あの。先輩……もしかして、今日、俺と同室なのも……先輩っすか?」
 「そうだな……本来、講師は別室なんだが……」

 「え! じゃぁ、先輩とは別々ッスか……」
 「……事前に、注文つけておいた。俺と、お前はチームも同じだし、部屋を増やせばそれだけ手間もかかるだろうからとな……俺も今回は新人側の部屋を使わせてもらう事になっている」

 「……えっ? じゃ、それじゃぁ」
 「二週間、ヨロシク頼むぞ。知樹」


 奥村は感情が顔に出やすい男だが、この時ほど分かりやすい日も無かっただろう。
 不安に歪んでいた顔には、見る見るうちに赤味がさし、頬はすっかりゆるみ白い歯が覗いている。


 「そっか、先輩と一緒なんだ。良かったぁ……俺、ここ来た時は辛気くさい建物だし、知り合いもいないし、幽霊も出るっていうし、どうしようかと思ったけど……」


 そこで、俺の身体が柔らかいものに包まれる。
 それが、奥村の腕だというのを認識するのにラグがあったのは、まだ廊下にちらほら人が見える中、こうしてアイツが抱きついてきた事など今までなかったからだろう。


 「正義さん一緒なら、二週間くらい……いや、もうずっとここに居てもいいや」


 ずっと居られても、困るのだが……。
 等と思っているうちに、アイツの手が絡み、少し背伸びした顔が間近に迫ってくる。

 全く、こんな所でキスを強請るとか……段々大胆になっていくと思う。
 だが、そこがまた奥村の魅力でもある。

 俺は、無言で望まれた唇に唇で答えを返すと、名残惜しそうに腕を絡める奥村の指先を握ってやった。


 「……続きは、部屋に戻ってからだ」
 「えっ?」

 「今日の研修の復習をして、それからだぞ。いいな?」
 「……はいっ、高野せんぱい!」


 人目離れた影から抜け出ると、俺たちは並んで長廊下を歩き始める。
 隣にいる奥村は、もう溜め息もつかなければ「嫌だ」と口にする事もなく、ただ楽しそうな笑顔を傍らに咲かせていた。






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