鉛のように重くなった体を、ゆっくりと起こす。
昨日まで、身体の節々が痛かったが……たっぷり眠っていたからだろう。怠さはもうすっかり抜けていた。
「……何とか熱もひいたみたいだな」
額にはった熱さまし用のシートも、端がすっかり乾いていた。
ベッド脇には、スポーツドリンクに風邪薬の空が転がっている。
……熱が出たのは10年ぶり。
いや、もっと久しぶりかもしれない。
ここ最近は、奥村に付き合う事もあり、休日も深夜まで無理することが多かった。
奥村は、俺と違って若い。夜遅くになっても、体力が有り余っているのだろう。
だが俺は生憎、奥村ほど若くもなければ見た目ほど体力もない。
奥村と話していればそれは俺だって楽しいし、奥村といると、つい自分もアイツと同年代くらいの若いつもりになっていたが、知らない間に、身体は悲鳴をあげていたのかもしれないな……。
ともかく、熱は下がった。
病院にいって、点滴まで打ったのが効いたのだろう。
これなら明日にはまた出社できそうだ。
今日はもう一度眠って、治しきってしまわなければ……これ以上、仕事に穴を開ける訳にはいかない。
そう思っていた俺の耳元で、携帯電話の着信音が鳴り響く。
電話の相手は……奥村知樹になっていた。
「……知樹か、どうした?」
電話の向こうでは、車の排気音が聞こえる。どうやら、外から電話をかけているらしい。
外から電話をかけてくるなんて、仕事はどうしたんだ……と、思うが壁にかけた時計はもう20時を過ぎている。
業務が終わり、早速電話をかけてきたといった所だろう。
「どうしたも、こうしたも無いっすよ、先輩! 先輩こそどうしちゃったんですか、熱が出て二日も休むなんて……」
「どうしたと言われてもな……風邪をひいたとしか言えんよ」
「風邪? ……本当に風邪ですよね。もっと凄い病気とか、俺に隠してませんよね?」
「……もっと凄い病気って。オマエは俺がどんな病気を持っていると思ってるんだ?」
逆にそう聞かれ、奥村は少し「う〜ん」と唸り考える素振りを見せると。
「ボッキ不全……とか」
等と宣い出した。
言うに事欠いてそれか……。俺は軽い目眩を覚える。
「そりゃ、オマエのようにいかないが……不能に見えたか、俺が?」
「いやいやいやいや! そんな訳ないじゃ無いッスか、冗談っすよ、冗談!」
電話の向こうで笑いながら語る奥村の声はいつもの、悪戯っぽい声だ。
何かと動きがオーバーな奥村だ、この調子だと電話の向こうで手を振ったりして否定しているに違いない。
「ともかく、心配するな。オマエが思う程非道い風邪ではないさ、薬が効いてきたんだろうな。もう熱も下がっている」
俺は現状の報告をしながら、今日医者からもらった薬を眺めている。
総合漢方薬に、抗生物質、それと咳止め。
風邪の時に出る定番の薬が、5日分も並んでいた。
「……まさか、先輩。熱が下がったから、明日にでも仕事復帰しようとか思ってませんか?」
「ん? ……あぁ、当然だろう。明日には動けるようになりそうだから、すぐに出社するつもりだ」
「駄目ッスよ! 何考えてるんですか先輩は!」
何時になく強い語調が、俺の耳に響く。
「向坂先輩に聞いたんですけど、正義さん、39度も熱が出たんでしょ? それだってのに、昨日今日でもう治ったとか……そんな、無理しないで。今は安静にして、風邪治してくださいって」
「……そういうがな、知樹」
仕事のスケジュールは差し迫っていた。
別に今の業務全てを自分が動かしていると、そう思う程自惚れてはいないが、それでも俺がいない穴は小さくもないだろう。
これ以上休む事で、他の仲間たちに迷惑はかけたくないのだが……。
「そういうがな。って、それは言い訳ですよ先輩。とにかく、身体が治るまで今は休んでいてください!」
「しかし、もう熱もな……」
「でも、まだ声おかしいですよ……無理して出勤して風邪が悪化したら、かえって業務に穴があいちゃうんじゃないッスか?」
「それは、そうだが」
「それに! まだ風邪っぴきの菌がある内に仕事に出て、他のメンバーにうつったらどうするつもりッスか。先輩以外の面子も風邪でへろへろになったら、そっちの方が手に負えませんよ」
……奥村の言う事は、残念ながら正論だ。
俺の体調も、まだ万全じゃない。それも事実だ。
それに奥村のこの態度はまるで、俺が病気の身体を押して出ようものなら許さないといった語気も感じる。
全く、何が奥村の怒りに触れているのかわからないが、こうなった奥村には素直に折れるしかないのを俺はよく心得ていた。
「わかったわかった、無理はしない……明日も熱があるようだったら、素直に休むとする……」
明日も熱があったら、と言ったのは勿論、熱がすっかり下がっていたら出勤するつもりだったからだ。
だが奥村は俺のそんな予防線には全く気付かず、安堵の息をついた。
「そうッスか! いや、良かった……先輩まで失ったら俺、もう……」
「ん……?」
先輩「まで」失ったら。
奥村はたしかに「まで」と言った。
……どういう事だ?
奥村は以前も誰か、失っているというのか。
奥村の態度からは、そんな様子は全く感じられない。明朗な普通の青年に思えたが……。
いや、考えてみれば俺は、奥村の事をあまり知らない。
あれから良く、奥村とは話すようになって……料理好きで、水族館が好き……そういった事は知っているのだが……。
どこで生まれ、育ったのか。
家族は、友達は……そういった、当たり前の事を聞いてなかったのだ。
最も、奥村はそういった事をあまり語りたがらなかったから、俺もあえて触れなかったのだが……。
「とにかく、俺今から行きますよ。先輩の家。いいでしょ?」
俺の思考は、奥村のその突然の提案で中断するハメになった。
「おい、今から来るって……俺はまだ風邪が治ってないんだぞ?」
「そんな事言ってベッドから出られず、どうせろくなモン食べてないんでしょ? ……いいッスよ、俺何かつくりに行きますから。」
「……風邪がうつるかもしれんだろう?」
「もう、出社考える程度には治ってるんでしょ、大丈夫ッスよ。それに、俺は元々そんな戦力じゃ無ぇんで、仮に俺が倒れても仕事的には無傷ッスから!」
そんなに声高らかに「無傷」宣言をする位なら、もっと真面目に仕事をして欲しいものだが……。
それに、奥村は言う程無能でもない。
他のメンバーより若く経験が少ない為手が遅いのは事実だが、それでも立派な戦力だ。
……少なくても、俺はそう思っていた。
最も、いつも出社時刻ギリギリに来るのだけは頂けなかったが。
「そんな事ないだろう。とにかくオマエに風邪をうつすといけないから……」
「とにかく、今から行きますんで! 先輩は、安静にしてて下さいよ。それじゃ、また!」
帰らせようとする俺の思いとは裏腹に、奥村は早口でまくし立てると一方的に電話をきってしまった。
……本当にアイツは、押しが強いというか、強すぎるというか、とにかく強引な奴だ。
最も俺も、アイツの言う通り。ほとんど食事もとれず寝ているだけだったので、手料理が食えるのならそれはそれで有り難いのだが。
「しかし、知樹がくるなら……もう少し、部屋と。このカッコを何とかしないとな……」
俺はベッドから起き上がると、部屋の惨状を見る。
テーブルには、レトルトの粥や雑炊のパッケージがゴミ箱に行く訳でもなく、堆くつまれている。
ベッド回りにはゴミ箱から零れたティッシュの残骸が。枕元には薬の空が散らばっている。
俺の格好も、古びたスウェット上下といった見窄らしいモノだ。
まる二日、寝込んでいたせいで汗ばんでもいる。
奥村が来る前に着替えくらいしておかないと……。
「じゃじゃーん! 奥村知樹ただいま参上ー!」
等と思っているうちに、不意に部屋のドアが開きビニール袋片手の奥村が俺の前へと姿を現した。
「なぁっ!? ……奥村?」
「そうですよ、貴方の奥村知樹でぇっす」
「い、今電話してたばっかりだろ? 職場から来たんじゃないのか?」
俺の家から仕事場まで、通勤時間はたっぷり30分はある。
まだ来るまで時間がかかると思っていたのだが……。
「いや、実は俺、先輩のマンション前で電話かけてたんですよ。エレベーターで上がるだけでしたから、すぐ来れたって訳です」
「俺の家の前に? ……何でそんな事を」
「サプライズですよサプライズ! 病気の時は面白い事ないですから、ちょっとはサプライズが必要かなーと思って」
かなり余計なサプライズだ。
と思ったが、口に出した所で何にもならないと思い、俺は黙っている事にした。
「それに、先輩だったら絶対断らないって思ってましたしね」
奥村はそう言いながら、テーブルの上に買い物袋を置く。
散らばったレトルトの袋は、手際よく分別してゴミ袋に入れていた。
このマメな性格には本当に頭が下がる。
「そういうが、断られたら、どうするつもりだったんだ……」
実際、俺は断るつもりだったんだが……。
「その時は、断られる前に『今からいきます!』って言い捨てて、電話切るだけですよ!」
……そうだった、俺は今その手をつかわれて、コイツを家にあげているんだったか。
いや、どっちにしても部屋の鍵はもう奥村に渡してある。
仮に来るなと言った所で、奥村は自由に俺の家に入れるのだ。最初から無駄な制止、という奴か……。
「それにしても、先輩。随分くたびれた格好してますねぇ……」
一通り部屋の片づけを終えると、奥村は俺の服を見て言う。
……たしかに今の俺は、パジャマ代わりのスウェット上下。
それも思いっきり使い古した服だ。
普段だって別に自分の事を男前だとは思ってないが、さぞや無様に見えた事だろう……。
「あー、もう! 格好いい先輩のイメージとこのスウェットも何か違うし。メシ食ったら、着替えてくださいね?」
「ん……わかった」
「返事は、はい! ですよ?」
「はいはい」
「ハイは、一回!」
「……はいよ」
奥村の激しい剣幕に押されはしたものの、俺はなんとなく着替えるのが億劫なまま、ただぼんやりと奥村の姿を眺めていた。
キッチンに立ち料理をする奥村の姿は、手際よく見る見るうちに作業を終わらせていく。
まだ若いのに対したもんだ。
基本的に、お湯を沸かす以上の事はしない俺からすると、あぁして台所で料理をつくる姿というのは一種の魔法のように思える。
と、そんな風に眺めているうちに料理は出来上がっていた。
「……定番ですけど、お粥ですよ。って、まだ着替えてない! せぇんぱぁい……!」
「はは、スマンすまん。どうも、飯もくってないから身体が思うように動かなくてなぁ……食ったら着替えるよ」
「もう、着替えの他にちゃんとシャワーもあびてくださいよ。 先輩、汗くさいッス」
「わかったわかった」
とはいったものの、食事が終わる前に奥村から。
「そういえば、先輩。仕事で教えて欲しい事があるんですけど」
等と、不意に仕事の話しをされた俺は、結局着替えもシャワーも後回しにして、その相談に乗る事となっていた。
「それはな、知樹。たしか……」
「……でも、そうするとコレがおかしくありません? コレ」
「いや、大丈夫だ。ここを……こう、するとな……」
「あぁ、そっか。でも……」
アレコレ教えているうちに、時間はすっかり過ぎており……。
気付いた時、奥村は俺の隣にちゃっかり腰を下ろしていた。
時計はもうすぐ23時になろうとしている。
「……あぁ、アレコレ話し込んでたらすっかり遅くなったな。今日は泊まっていくか?」
まだ電車も出ている時間だが、わざわざ見舞ってくれた相手をそのまま帰すのも気が引ける。
奥村は男だから心配ないとは思っているが、夜歩きさせたくないというのも本音だ。
「……あ、はい」
俺のその提案に、アイツは生返事をするだけだった。
……いや、この提案に限った事じゃない。
思えば、仕事の話しに関しても後半は分かっているのかわかっていないのか。
生返事ばかり増えていた気がするが……疲れているのだろうか。
「とにかく、そろそろ寝ろ。俺も少し休む……」
そうして、布団を出そうとした俺の手を、奥村は半ば強引に握る。
「正義さん……」
そして甘えた声を出し、やや赤みが増した頬を俺の方へとむけた。
……奥村がこの目をした時、何が欲しいのか俺はもうよく心得ていた。
だが……俺はまだ、病み上がりなのだが……。
「……何考えてるんだ、知樹?」
わざと鈍感なふりをしてやり過ごそうとするが、奥村の身体はどんどん俺へともたれてきて、その指先は俺の膝へ。太股へ、ゆっくりと滑る。
……相変わらずコイツは、俺の意見が聞こえないらしい。
「知樹、オマエなぁ……」
「だって……」
奥村はすっかり顔を赤くして、俺の身体を服の上から熱心になぞる。
その指先は、俺をその気にさせるツボをよく心得ていた。
「だって、先輩……そんなボロいイモみたいな服着てるくせに……身体のラインとか、すっげぇはっきり分かるし……俺に教えてる時、手とか触れるとやっぱり先輩の手ぇあったかいし……服から、すっげぇ先輩の濃いニオイがして、俺。俺は……」
言葉を最後まで語る事もなく、奥村は俺と唇を重ねる。
……全く、風邪をひいたばかりだと言っているのに、本気で俺の風邪をもらって帰るつもりなのだろうか。
呆れる思いはあったが、それでも……。
求められれば、幸福に思える。
望まれたら、答えたくなる。
俺はもうすでに、奥村知樹という男に支配されていた。
「……シャワー、浴びてくるか?」
風邪のせいで、二日、ほとんど風呂にも入ってない。
流石に身体のベタ付きも気になるだろう。
そう思い、俺を見下ろす奥村の頬に触れて問いかければ、奥村は黙って首を左右に振った。
「いいっす、俺この先輩のニオイ、もっと感じていたいから……だから、このままでいいっす! 俺、先輩のニオイが好きだから……」
そう言うが早いか、まるで俺の身体を確かめるかのように無邪気に舌を走らせる。
相変わらずコイツの身体は自由で奔放で、少し強引で。
だから俺はその押しの強さに困惑する事が多いが、ただその思いだけは。
俺を喜ばせたい気持ちだけは、本物だろうから。
「あぁ……わかった、好きに、しろ……」
俺はそのまま身を預ける。
今はただこの、一途で無邪気な侵略者に侵される時間を、楽しんでいたかった。