「何てことしてくれたんだ、オマエは!」
激しい声が、フロア全体に響き渡る。
声の主はこの俺。叱責を受けているのは、目の前にいる男……奥村知樹だ。
「で、でも。せんぱい。俺は、ただ……その……」
「うるさい!」
激しい語調の勢いと同じくして、俺は机を叩く。
フロア全体は静まりかえり、誰かの視線が時々、鬼や蛇でも見るような色でむけられていた。
……無理もないだろう。
俺は、普段からあまり声を上げて怒るような事はない。
声をあげ、感情を露わにして明らかな怒号をあげたのも、若い時分以来だろう。
『奥村のやつ、何かしでかしたな……』
周囲の連中は、そんな目で、項垂れる奥村を見据えている……。
「とにかく、今から修正しろ。そうしないと、間に合わないからな……わかったな?」
「は、はい……でも……」
時計を見れば、もう終業時刻が迫っていた。
帰り時間を気にしているのだろう。だが。
「……残業してでも、今日中にこの失敗は取り戻せ。いいな?」
「うぁ……は、はい。で、で、でも、俺一人じゃこれ……」
「オマエだけじゃ無理なのは分かっている! ……心配するな、今日は俺がサポートに入る。いいな?」
「は。はい……」
「……ボサっとつっ立ってないでとっとと席について仕事をはじめろ! いいな? 今日中に修正するんだぞ!」
語気を強め促せば、奥村は肩を落としながらデスクに向かう。
席についた直後、隣にいた同僚が小声で励ましたが、それさえ受け入れる余裕もないのか。
奥村はただ、力ない笑顔で頷いてみせるだけだった……。
……この険悪なムードに気付いたのだろう。
終業時刻になると、仕事が終わった連中は早々と退社の仕度を勧め、いつもならダラダラと居残って仕事をする輩のいるこのフロアも、一時間たたないうちに誰もいなくなっていた。
カタカタカタカタ……。
……カタカタカタカタ。
キーボードを叩く音のみが、室内に響く。
すっかり日が落ちた社内では、モニタの画面だけがやたらとテラテラ輝いている風に見えた。
「……っ」
そんな時間がどれだけ過ぎた頃だろうか。
「ふぁっ。あははははは、あはっ、あはははははは!」
静寂に包まれたフロア内で、とうとう奥村は耐えかねたように吹き出して笑い始めた。
「……おい、知樹。そんなに笑うんじゃない。俺だって必死だったんだ」
笑われるんだろうな。
そうは思っていたが、ここまで大げさに吹き出す事もないだろう。
俺は少し腹をたてながらそう言えば、奥村は「すいません」と小声で謝りながら、だがそれでもさもおかしいといった様子で腹を抱えていた。
「でも、先輩っっ……今日のアレは、いくらなんでもやりすぎッスよ。いつも温厚な先輩が急にあそこまでブチ切れてたら、かえって不自然じゃないですか!」
「そう言うがな……俺だって、普段あんまり声などあげたりせんから、さじ加減がよくわからなかったんだ」
「いえいえ、でも……迫真の演技でしたよ先輩! おかげさまで、二人っきりになれたみたいです!」
……そう、全て演技だ。
奥村がミスをしたのも、俺が普段より激しい語調で叱責してみせたのも、全て二人で会社に留まる為に準備した茶番なのである。
「……しかし、オマエもよくやるよ。今日、居残る為にわざわざミスったデータを作ってくるなんてな」
「当然! ……それで先輩と二人っきりになれるんなら、俺、ミスデータの一つや二つ余裕で作ってきますって!」
奥村はそう言いながら、仮のデータを機動する。
途中から仕様が大幅に書き変わっているこのミスデータも、今回の仕込みの為に予め準備してきたもので、正しいデータは奥村が持っているのだ。
人前で、あえてミスを動かして置いて、俺に叱られ……。
周囲の人間に居残りさせない空気をつくり、二人で社内に残る。というのがアイツの立てた筋書だった。
「うちの会社、何かいつも誰かがダラダラ残ってますから。こうでもしないと、先輩と二人っきりになれませんもんねー」
奥村は笑いながら、俺の前にある机へと腰掛ける。
「おい、そこは俺のデスクだぞ……机になんざ腰掛けるな、オマエは……」
「いいじゃないッスか、誰もいないんだから。それに……」
と、そこで奥村は近づいた俺のネクタイを引き寄せると、俺の鼻先に唇を近づけた。
「……もう誰も居ないんだから、そろそろ。しましょうよ。ね? 俺……この為に頑張ったんですから、ほら」
「まったく……」
仕方ない奴だな、とは思う。
だが、そんな仕方ない奴の遊びに付き合う俺も同罪か……。
あいつに促されるまま、その身体に覆い被さるよう唇を重ねて抱きしめる。
その唇を、首筋へ。胸元へ……。
「あっ、あっ! せ、せんぱい……早すぎますよぉ、もぅ……」
それに、と。
そこで奥村は身体を器用にくねらせると、俺の腕から逃れ、空を抱く形になり戸惑う俺を机に座らすと、気付いた時には俺の膝へと座っていた。
「……先輩、いつから俺をリードするようになったんすか? ……まだ許しませんよ。そういうの、俺結構気にするんで」
挑発的な笑顔を浮かべ、俺の胸元へ手をかける。
全く、本当にワガママで仕方ない奴だと思う。
だが……。
「……仕方ないな。好きにしろ」
その我が儘な素振りさえも、今はただ愛おしかったから、俺はアイツの全てを飲み込む。
「……正義さん……もぅ、好きですよ。虐めたくなるくらいには、ね?」
アイツは今日も悪戯っぽく笑うと、情熱的な唇を求めるように重ねた。
静かな社内で、俺たちはただ重なり絡まりあっていた。
すっかり暗くなった社内で、キーボードの音だけが鳴り響く。
「終わったぁぁ! せんぱい、終わりました!」
「そうか、こっちも終わりだ。出力も問題ない……何とかなったようだな」
時計はすでに午前二時をまわろうとしていた。
勿論、終電はない。
……仕事にミスはつきものだとは思っている。
だが……。
「す、す、すいませんでした先輩! ……まさか、正しく作ってたと思ったデータにこんな、大ポカやらかしてたなんて……いやぁ、我ながら恥ずかしいです」
奥村は「意図的なミス」をつくった。
今日俺と、残業する為にだ。
勿論、そのミスをすぐリカバリー出来るように、正しく作ったデータもアイツは準備していた。
……そのデータを立ち上げたみたところ、すぐに致命的なミスを見つける事となり……嘘だったはずの残業を、結局本気でする事となったのだ。
幸い、このミスは以前俺自身が、若い頃に経験したモノだったのでやるべき事はわかっていた。
2,3度うまく行かない部分もあったが、何とか修正も終わり、仕事も一段落したようだ……。
「先輩も、お付き合いありがとうございます! いや、一人だと確実に泊まっても終わりませんでした。助かりました!」
「……まぁ、仕方ないな」
「ホント、先輩は頼りになりますよ〜……仕事ではね」
「軽口はいい、そろそろ帰らないと、明日に響くぞ……今日は流石にタクシーだな、今連絡を入れた。10分ほどで到着するそうだ」
「そうですね……あ、せんぱい。今日は、俺の家に泊まっていきませんか? ……俺の家の方が、先輩の家より近いですから。少しゆっくり寝てられますよ」
たしかに奥村の言う通りだ。
時間的には15分程度の短縮にしかならないが、朝の15分となると大きい。
……それにしても、俺より15分近い場所に住んでいながら、コイツは俺よりいつも15分遅れて来るのだよな。
一瞬そんな事が脳裏に過ぎったが、深く考えない事にした。
「そうだな。オマエさえよければ……邪魔させてもらうかな」
「何いってるんですか、俺の部屋の鍵もってるでしょ? ……先輩ならいつでも歓迎ですよ!」
奥村はそう言うと、俺に腕をからめてそっと耳元で囁いた。
「……むしろ、たまには夜這いにでも来てくださいって。だから鍵渡してるんすよ?」
そして、悪戯めかして笑うのだった。
タクシーで奥村の家についた時は、もう3時になろうとしていた。
「ふぁー、つかれたー。やっと寝られる!」
奥村は部屋に戻るなり衣服を脱ぎ捨てると、ベッドの上へと飛び込む。
「おい、シャワーくらい浴びてから寝ろよ」
「……んー、正義さん、先に浴びていいですよ」
家主より先に浴びるのは悪いと、その時は思ったが、身体は汗ですっかりベタついている。
「じゃぁ、先に入るぞ」
「はぁ〜い……あ、せんぱいのパジャマ、いつもの所ですからね」
「わかった」
言われた通り、いつもの場所を探し、シャワーをあびて出てみれば、そこにはすでに夢うつつとなった奥村の姿があった。
「おい、奥村……シャワー浴びたぞ。入れ」
「んぅ〜……無理ッス。おれもう、眠いから……明日朝イチではいりまぁす……」
「起きれるのか?」
「……おきまぁす」
頼りない返事で身動ぎするが、もう寝ている所も起こす訳にはいくまい。
俺は自分用の布団を隣に敷くと、ベッドで寝息をたてはじめるアイツの顔をのぞき込んだ。
全く、ワガママで奔放な奴だが……まさかこんなにもその奔放さが、愛しく思えるとはな……。
「おやすみ、知樹……」
耳元で静かに囁きながら、俺はアイツにキスをする。
キスといってもただ、額に触れるだけのおやすみのキスだが……。
と、そこで不意に奥村は、俺の手をつかむと半ば強引にベッドへと引き入れる。
「もう、先輩……」
「こ、こら。何するんだ知樹! はなせ!」
「いやですよ……何で寝ている時でも、デコにしかチューしないんですか。奥ゆかしいというか、奥手すぎるというか……」
「……何だ、起きてたのか?」
「……ウトウトしてただけですよ。先輩、ホントに……」
「何だ? ……そうだ、俺はオマエに手を出す事も出来ないこんな臆病な男だ。幻滅したか?」
「まさか……可愛いですよ。だから、俺……」
大好きですから……傍にいてください……。
奥村はそう囁くと、静かに俺を唇を重ねた。そして……。
「知樹?」
力無くなった身体を見て、俺はやっとアイツが寝た事を知る。
奥村のベッドは狭い。特に俺のような、身体がデカイ男だと余計に小さく感じる。
アイツが寝たのなら、俺も自分のベッドに戻ろう。
そう思ったが……。
「正義さぁ……ん」
かすかな声が、耳に絡む。
求めるようなか細い声は、ただ傍にいるよう望んでいる気がしたから。
「全く、仕方ねぇなぁ……付き合ってやるとするか」
俺はアイツを抱きしめるよう、寄り添うように寝てやった。
夜はゆっくり更ける中、微睡みは優しく俺たちを包み込もうとしていた。