その日も、いつも通りの時間が流れていた。
そう、いつも通り。
いつもと何ら変わらない日だ。
むしろ、納期も終わったばかりなので比較的余裕のある日と言える。
だからこそ、フロアの人間は皆一様にくつろいだ様子で仕事にとりかかっていた。
「おーい、奥村ぁ、ちょっと来いって!」
「あ、はいーッス、今いきまぁっす!」
今年、新入社員が他の部署にまわされた関係で、俺のチームで一番の新人は入社二年目になる奥村になる。
そのせいか、今日も奥村は一日、雑用に近い仕事にばかり追われていた。
いや……追われているばかりではない。
「何だよ、奥村ぁ。まったく、オマエって本当に可愛い所あるよなぁ」
誰かがそんな事を言いながら、奥村の頭を撫でる。
「全く、これじゃ無ぇって言ってるだろ! 何聞いてたんだよぉ、奥村ぁぁ!」
誰かがそんな難癖をつけ、奥村の首を投げるような素振りをしてじゃれる。
「よっしゃー、やったな奥村ぁー!」
誰かが笑いながら、奥村の手を叩く。
……部署内でも何かと可愛がられる奥村は、いつもこうして他の連中に連まれ、可愛がられていた。
いや、奥村が可愛がられているのは以前からだし、それは俺も心得ている。
職場は友達作りの場ではないが、それでも円滑な人間関係が出来ているに越した事はないと、そうとも思っていた。
だが……。
「おい、奥村ぁー」
「奥村、ちょっと頼みたい事が……」
「奥村ぁー、悪い。こっち頼むわー」
……今日のこいつらは、少し奥村に頼りすぎじゃぁないか?
まぁ、殆どが雑務だから奥村にまわってくる理由もわかるのだが……。
「はぁい、わかりました。ちょっとまってて下さいね、先輩!」
そんな中、奥村は変わらず笑顔のままで応対する。
文句一つ言わず、自分でやれよと思う雑務まで……。
「おい、奥村!」
たまらず俺は、やや強い語調で奥村を留めた。
俺は普段、雑務は勿論他のほとんどの仕事も他人には頼まない。
だから俺に呼び止められたのは少々意外だったのだろ、奥村は暫く目を丸くして俺を眺めていた。。
「はい? ……どうしたんですか、高野先輩」
「……次の資料を集めたいんだ、付き合ってもらえるか」
「あ、資料室ですね。了解しました。資料言って貰えれば、俺一人でも大丈夫ですけど……」
「いや、資料の種類が複雑だからな。ついてきてくれ」
「はい、かしこまりましたー!」
奥村は屈託なく笑うと、俺の後をついてきた。
資料室は一階下にある角の部屋で、普段は殆ど誰も入る事はない。
「うわー、俺久しぶりに入りましたよ。ここ……」
俺は、奥村が先に入るのを確認すると、後ろ手で鍵をしめる。
これでひとまずは、二人きりになれるだろう。
それを確認してから、俺は一歩進むとあいつへと切り出した。
「おい、知樹……あんまり一人で仕事をかかえこむと、後で大変になるからな。程々にして、後は適当に断ってもいいんだぞ?」
「えっ? 何言ってるんですか、急に……」
「今日の仕事の事だ。オマエ、朝から皆に頼まれた事をどんどん請け負ってるだろ……ああいう仕事の仕方をしてると、後々に辛くなるから。念のため、な」
咳払いを一つして、最もらしく忠告するが、奥村は気にしてないのだろう。
声を出して笑うと、俺の胸に軽く触れた。
「大丈夫っすよ、これでも引き際は心得てるつもりですし。無理だと思ったら、結構断ったりもしてますから」
「だが……今日は随分、他の奴に絡まれているように見えたぞ?」
「こういう暇な時じゃないと、他の先輩方のお仕事技術。盗めませんからね! ……俺、これでも会社の為にって頑張ってるんスよ?」
「そうか、それならいいんだが……」
それならいいんだと、自分に言い聞かせるよう語るが、俺の中には釈然としないモヤのようなものが渦巻く。
他の連中と笑顔でやりあう奥村。
それはいい、嫌われているよりもずっといいはずだ。奥村の為にも、仕事の為にも。
だが俺はどうしてこんなにも、釈然としないのだろうか……。
「あ……それとも、先輩。ひょっとして……仕事で他の連中と話してる俺を見て、嫉妬とかしてます?」
嫉妬。
そう言われ、俺は胸に抱いた思いの理由に納得する。
「ば、馬鹿な事を言うな。どうして俺が、オマエになんざ……」
納得するが認めるのがいやだった俺は、素直になれずそう零していた。
「もう、そんな嫉妬とかしなくても……大丈夫ッスよ。俺は、とりあえず先輩一筋ッスから!」
「とりあえず、ってのは何だ? とりあえずっていうのは」
「未来の事はわからないけど、今は。て事です」
「……シビアな事言うな、オマエは」
「現代っ子なもんで」
だけど。と、そこで奥村は唇を湿らすと、スーツの上から俺の胸元を甘く撫でた。
「正義さん、アンタに本気なのは、嘘じゃないですよ? 俺、今まで好きになった人では、間違いなく貴方が一番っすから……」
甘く撫でている、と思った指先がスーツのボタンにかかる。
「お、おいっ。知樹……」
「いいじゃないですか、今日ヒマなんですから少しだけ……俺、職場でってちょっと試してみたかったし!」
「ばっか、仕事場は……する為の場所じゃ無ぇんだぞ! ……オマエ、少し場所をわきまえるとか……」
「しちゃいけない場所だから、したくなるんじゃないッスか……大体、先輩さっき部屋の鍵閉めてたでしょ? 俺見てたんですからね……鍵かけるとか、先輩だってそういうつもりなんじゃないッスか?」
「それは……な」
「鍵かかってるなら大丈夫ですって、ちょっとだけ。ちょっとだけですから……」
奥村は俺を、壁に押しつけると少し背伸びをして甘いキスをする。
「んぅ……ぁっ……はぁっ……」
……職場で何をするんだ、と言いつつも俺の身体は正直なもんだった。
僅かに絡んだ舌だけで、すっかり熱を帯びてくるのが分かる。
「……すっげ、先輩もうビクビク言ってるじゃないですか? ……わかりますよもう、服の上から触れてますから」
「ばっ、バカ言うな。おまえ……」
「大丈夫ッスよ! 今ちゃ、ちゃ、っと楽にしますから……」
かちゃり、かちゃり。
鈍い金属の音が響き、跪く奥村の指先が、チャックにかかる。
ホコリっぽい室内に、男のニオイが漂いはじめたその時。
「……何だよ、立て付け悪いなこの扉」
ばぁんと鈍い音をたてて、不意にドアが開かれた。
その音に反応して、俺たちはすぐ物陰へとしゃがみ込む。
……どうやら、古いドアだから鍵の立て付けが悪くなっていたらしい。
鍵はかけたのだが、強くドアノブを握ると簡単に外れてしまうのだろう……。
元より、資料室は出入りを制限する必要がない部屋だ。
鍵が壊れても誰もなおそうとは思わなかったらしい。
ラックの物陰に息を潜め、入ってきた男の顔を確認する。
どうやらこちらの様子には気付いてないようだが……。
「せんぱっ、せんぱい。もっと頭下げて! あたまあたま!」
「あ、あぁ。すまん」
「もー、先輩人より頭ひとつでっかいんだから、小さくならないとっ! あと、チャック閉めてください!」
奥村はそう言いながら、俺の頭を押し込める。
……こう、喋っている方が見つかりそうな気がするのだが。
だが運良く、男はこちらに気付かないまま資料室を出ていった。
「あー、焦ったぁぁ。どうなるかと思ったよー」
奥村はその場に座り込むと、一つ安堵の溜め息をつく。
「あぁ……あいつの探している資料が、近場にあってよかったな」
「ホントですよ……もう、何だよあの鍵。壊れてるのかな……よし、これでよし!」
奥村は再度、ドアの前に立つと、鍵をかけなおし、今度はきっちりロックされているのを確認してから振り返る。
「それじゃ、せんぱい! 続き、いってみよー!」
「いってみよー! って……オマエ、まだやる気なのか? また誰かが来たら……」
「その時はその時ッスよ! さ、さ、早く早く!」
座り込んだままの俺に飛びつくと、奥村はすり寄り甘えた声を出す。
かび臭く、誇りっぽく、その上薄暗い陰気な部屋だ。
だが……アイツが傍に居るだけで、こうも刺激的にかわるものなのだな。
ズルズルと引っ張られ、悪い事をしている自覚もあるが……それでも俺はこの幸福に一時身を寄せる事にした。
あいつと幸せを、共有するために。