朝起きて電車に揺られ、デスクに向かい作業をする。
時には成功しそれなりに称賛され、時には失敗をし一時的に評価を落とす。
家に帰ればベッドに倒れ込むよう眠り、起きたらバターを塗っただけのトーストを頬張りまた会社へ向かう。
そんな毎日がただ延々と続いていくだけだった。
そんな俺の日常に、そいつは無遠慮に入り込んできたのだ。
「せんぱいっ……高野先輩。昼メシ、良かったら一緒にどうっすか?」
空席になった隣の椅子に腰掛けながら丁寧に包まれた弁当箱を差したのは、奥村知樹という。今年で入社二年目の、俺の部下にあたる男だ。
入社したての頃はどこか学生気分が抜けず危なっかしい所があったが、今は仕事にも慣れたのかスーツ姿も板に付いてきた。しかし、コロコロかわる表情はまだどこか幼さを残している。
赤茶色に染めた髪とすぐに周囲へ視線が移る落ち着かない様子もまた、彼の若さを物語っていた。
「昼飯って……あぁ、もうそんな時間か」
時計を見れば、もう昼休みの時間をゆうに過ぎている。
社食か、外食か……あるいは外で弁当か、皆思い思いに昼食へと出かけたのだろう。すでにフロアには俺と奥村しか残っていなかった。
弁当袋を下げているという事は、今日は自分で弁当を作ってきたのだろう。奥村は、わりとマメに料理をするのか、よくこうして弁当をつめて会社に持ってきていた。
しかし、俺の部署は男所帯だ。
折角弁当をつめてきたはいいが他の面子が皆外へ食べにいってしまったから、一人で寂しく飯を食べるのも何だと思い俺に声をかけてきた。といった所だろうか……。
「あぁ、わかった。だが少し待っていてくれないか。生憎俺は弁当を持ってきてはいないからな……店でパンでも買ってくる」
「ちょちょ、まぁった。待ってくださいよ、せんぱい!」
そう言い、立ち上がろうとする俺を奥村は両手で押さえるように座らせる。
「先輩がいっつもコンビニのパンやおにぎりで生活してるのは知ってます。昼も皆が席を離れた後、ゆっくり買いに行くってのもね……だから、はいこれ」
そこまで一息で告げると奥村は、俺の鼻先に別の弁当を突き出す。
「……何だ、これは」
「何だこれは〜……って、見てわかるでしょ。弁当ですよ、お弁当。先輩の分です。一緒に食べようって誘ったからには先輩の分もないと失礼かなぁって思いましてね。今日は一つ多く作ってきたんですよ。はい、どーぞ」
「い、いや。だが……」
流石に悪いと思う俺が口を開く隙も与えずに、奥村は強引に俺のデスクで弁当を広げる。
「いつもツナマヨおにぎりと焼きそばパンじゃ持ちませんよ? 先輩、身体でっかいんですから……遠慮なんかしなくていいですって、一つ作るのも二つ作るのも一緒なんで。はいはい、どーぞ」
そして勝手に弁当の箱を開けた。
中には思いの外綺麗に握られた俵型のおにぎりだの、少し焦げ目のついた卵焼きだの、楊枝の刺さったミートボールだの、ポテトサラダだのといった、何処か懐かしい気持ちにさせる献立がぎっしりつまっている。
「はいはい、食べないなら無理にでも食べさせちゃいますよ〜。はい、あーんして下さい。あーん」
……どうやら、意地でも俺に弁当を食わせたいらしい。
「わかったわかった、変な真似しないでくれ……頂くよ」
俺は奥村のその押しの強さに負けし、その弁当を有り難く頂戴する事にした。
最も、元より断る理由もなかったので何も言われなかったとしてもそれを貰っていただろうが……。
「はい、ありがとうございます! あ、お礼は出世払いで構いませんからね」
冗談なのか本気なのか、奥村は無邪気な笑顔を向ける。
出世払いが何を払わされるのかは少々不安が残るが、弁当のボリュームは充分だ。奥村の趣味なのか、ウィンナーが全てタコの形になっているのは証書ウキになる所だが。
「どうっすか、お味の程は?」
「ん。そうだな、悪くない……ポテトサラダなんて大振りのイモが入っていて美味い。手作りか?」
「勿論です。ってか、俺、弁当に冷凍食品使わない主義なんで! 全部手作りッスよ。特に、ポテトサラダは昔からすげぇ評判よくて。俺の得意料理の一つなんすよ」
得意料理を誉められたからか、奥村はいつもより能弁に語る。
人の良さそうな顔にさらに愛嬌たっぷりの笑顔が広がった。
「なるほどな……それにしても、美味いな。料理は趣味なのか?」
「趣味って程じゃないんですが……ほら、人間食べなきゃ生きていけないでしょ。料理も生きる為にやらなきゃいけない事の一つなんだから、どうせやるなら楽しまないとね。って思ってるだけっすよ」
「楽しんでるなら立派な趣味だろ。趣味でここまで出来れば大したもんだ」
何故か足が十本あるタコさんウィンナーをつつきながら誉めてやれば、奥村はまんざらでもないといった様子だ。
「へへー、ありがとうございまぁっす。そういう先輩は、無いんすか。趣味とか」
「……趣味? 俺のか?」
「はい。先輩って、いっつもココには一番に来ている癖に、帰るのは一番遅いし。休日出勤ってなっても、文句一つ言わず来るでしょ? ……休日とか、心慰める趣味。もってないのかなぁ、と思って」
趣味。
改めてそれを聞かれ、俺はあわてて休日の過ごし方を顧みる。
たしかにここ数ヶ月……ひょっとしたら一年は、仕事がおわった休日は殆ど家から出る事もなく、寝て起きての生活をしていた気がするが……。
「そうだな……本を読んだり、DVDを見たり……」
「DVD? それって、アレですか。エロい奴?」
「映画だ……大体、映画を見ているか本を読んでるかだな」
「スポーツ観戦とかは好きじゃないんスか? 野球とかー、サッカーとか」
「昔はしていたがな……」
そういえば、子どもの頃は野球少年で球場にも足繁く通ったモノだがここ数年はとんとご無沙汰だ。
応援していた球団の選手もすっかり入れ替わり、新人だと思っていた選手が殆どベテランに。ベテランだと思った選手はコーチや監督になっているから時の流れを感じる。
「へぇー……スポーツに興味なし、休日は映画か読書……って、先輩。映画鑑賞とか読書って、いかにも無趣味の人の定形文って感じなんすけど……ホントに、ちゃんと見てます?」
「何でオマエに疑われなくちゃいけないんだ」
と、口では言ったものの最近は映画館で映画を見る事もなくなった。
しばらくすればすぐにレンタルされるからと興味があっても見送って、そのまま見ていないといった作品も多い。
「……いや、たしかに最近は映画館にも足を運んでないが」
つい漏らすと、奥村は「それ、みた事か」といった様子を露わにした。
「ほらー、やっぱりそれ、無趣味だー」
露わにしただけではなく、口にまで出した。全く、新人とはいえ不躾な奴だ。
「それでも、学生時代は映画研究会に所属しててな……素人映画なんぞ撮ったりもしてたんだぞ、一応な」
からかわれた気がして何処か意地になった俺は、つい勢いで昔の話をもらす。
映画をとっていた……というのは嘘ではないが、実際はハンディカメラでそれっぽい映像をでっち上げたような中途半端な研究会に在籍していただけなのだが、それでも『映画を撮る』という事がさぞ意外だったのだろう。奥村は驚いたように目を見開くと、疑惑半分。尊敬半分といった視線を俺へと注いだ。
「えっ、映画とってたんですか。せんぱい?」
「まぁ、一応な……最も、今見てみれば映画なんて言えないほど映像のぶれた素人作品だったが……」
「それはすっごいじゃないですかぁ〜。それなら立派な趣味っすよ。え、何で映画撮ったりしたんですか?」
「だから言っただろ、映画研究会にいたんだ。学生時代」
最も、自分は映画は専ら鑑賞専門で映画研究会も、映画を見て感想を語るくらいの気持ちで所属してみたら『映画を撮る』といった気概のある連中が偶然いただけなのだが、流石にそうとは言えまい。
「もう、今は撮ってないんですか?」
「そうだな……俺は撮影の機材を運んだり、撮影場所を探したり、専ら裏方だったしな……」
話しながら、自然と思い浮かぶのかあの頃無茶ばかりしていたかつての仲間たちの姿だ。
あの時は映画監督を目指していた同級生も、今は家庭をもちすっかり落ち着いた『パパ』をやっている。
独身で自由を満喫しているのは俺くらいのものか……。
「何だ、つまんないなぁ……その時撮った映画はもう無いんすか?」
「どうだろうな……俺の手元にはないと思うし……あってもビデオだ。今は見れないだろうな」
「そっかー、残念。あ、でも映画か。いいなぁ、映画……俺も久しぶりに、映画見に行こうかなぁ……」
奥村は伸びながら、独り言のように呟く。
古びた椅子の背もたれは、ぎしぎしと音をたてて軋んでいた。
「あ、そうだ。先輩、映画が好きなら最近の映画も詳しいですよね。どうですか、最近、これは面白そうだな。って映画ありますかね?」
「面白そうな映画、か」
すっかり映画館へ行くのが億劫になった身とはいえ、映画が好きだったのは本当だ。今でも上映中の映画で、興味があるモノのチェックは欠かしてはいなかった。
とはいえ俺の好きな映画といえば、低予算でも脚本がきっちりまとめられたモノや、一つの部屋だけで物語が完結する舞台劇のような作品だ。
派手なアクションや豪華なCG映像の作品にはあまり興味がない。
奥村のような若い奴と果たして話が会うだろうか……。
「今見たいのはコレだな……警戒区域内で訓練中だった戦艦が……」
「あぁ、俺それ見に行きましたよ。途中のアクションがちょっとダレちゃってましたけど、結構面白かったですよ」
「何だ、そうなのか。後はそうだな……月で作業をしていた男の話なんだが……」
「あ、それ見てないです。でも、先週見た友達が結構良かったって言ってましたよ。地味映画だけど、密室系の話が好きな人は好きだって聞いたから、俺も行こうかと思ってた所なんですよ。俺、そういう地味映画結構好きなんで」
だが俺の心配とは裏腹に、奥村の映画の趣味は俺の好みと一致しているようだった。
「そうか、じゃぁ俺もきっと好きな話だろうな」
「あ、先輩も密室劇とか好きな人ですか?」
「そうだな。そういった話になると、脚本や演出、役者の演技でみせてくれるだろう。派手な演出よりは、そういった話しが昔から好きではある」
「だったらきっと好きな話だと思いますよ……何なら、今度の日曜日。俺と行きますか?」
「……なに?」
「だから、映画。先輩の事ですから、行きたい行きたいって思ってても、誘われでもしなきゃ行かないんじゃないッスかね? どうです。図星でしょ」
たしかに奥村の言う通りだ。
最近は映画に誘われる事もなければ、誰かを誘う事もなくなっていた。
この映画も興味はあったが、奥村が誘わなければまたきっとレンタルで見る事になるんだろう。あるいは見たかった記憶も忙しさで忘却し、そのまま見ないで終わるのかもしれない。
「今週はもう忙しくないですし……今度の土曜日とかどうですかね。俺、最近休日暇してるし、映画キライじゃないんで。よかったらお付き合いしますよ?」
「そうだな……だが」
俺でいいのか、というのが俺の本当の気持ちだった。
奥村と俺は同じ部署で働く上司と部下の関係で、年齢は一回り以上は離れている。
今こうして話してみて、映画の好みが似てるのは解ったが一回りも年齢が違えば流行や話題も違うだろう。
それに、休日に上司と連むのは気を使わせるのではないだろうか……。
「そのかわり、先輩。この前チラっといってた、雰囲気のいいバー、教えて欲しいんですけど。いいッスよね?」
そうと思った俺の心配を、その一言がうち消す。
どうやら奥村の目的は映画ではなく、新規店の開発らしい。
……相手にも目的があるのなら、こちらもそれほど気を使わず案内してやってもいいだろう。
「わかった、わかった。次の土曜でいいか。待ち合わせはどうする?」
「西口の一つだけ赤い柱あるでしょ、あそこでどうですか。映画館近いし……夕方からのほうがいいですよね。待ち合わせは……17時でどうですか」
奥村は手帳を取り出すと、まるで最初から決まっていたかのように流暢に指定をする。
やけに誘い慣れているが、普段から友人たちとそうやって連んでいるのだろう。
「わかった、開けておこう」
「へへ……絶対忘れないでくださいね。先輩」
奥村はそう言うと、愛嬌のある笑顔を浮かべ空になった俺の弁当箱を回収する。
その時はただ、無邪気に映画を期待する笑顔だと疑ってはいなかったのだが……。
俺はまだその時、知らないでいた。
奥村の笑顔その本当の意味を。
業務に追われていれば、時間というのは驚く程に早く過ぎ去っていく。
約束した土曜の休みもまた、驚く程早く訪れた。
「先輩、こっち。こっちですよー」
待ち合わせ場所に赴けば、俺より先に奥村は到着していた。
仕事の時とは違い大きめのシャツにカーゴパンツを崩した着こなしはだらしなくも見えるが、元々スーツをどこか崩して着る男だ。
奥村は職場での印象とは大差ないく、しばらくスマフォを弄っていたようだが、俺に気付くとすぐに笑顔になり、人目をはばからず手を振っていた。
「……そんなに手を振らなくても見れば分かる、あんまり目立つ事はするな」
「あれ、そうッスか? ……俺は、先輩わからなかったけどなぁ」
「そうか?」
「だって、先輩普段のスーツが結構くたびれていて地味なんだけど……私服だと結構格好いいってか、スタイルいいんですね。背ぇ高いし、足長いし」
「ははっ、そうやって誉められたら今日のメシ代を奢ってやらなきゃならないな。 ……見ての通り、俺は図体がデカイからな。着られる服を選んだら、こういう服しかないんだよ」
等と言いながら俺は服の裾を軽く叩く。
……もう少し背が低ければもっとマシなデザインの服が安価で手に入るのだろうが、俺は人より頭一つは大柄な上やたらと肩幅が大きい為、着れるサイズの服を探すのが難しいのだ。
故に、必然的に地味なジーンズや大きめのニットシャツ、ワイシャツなどばかり着る事になる。
だがそのラフさが、逆に奥村には新鮮だったのだろう。
「いや、でも先輩ホント格好いいですよ! ……大体、高野先輩って普段から仕事も服も地味にしてるけど、顔も悪くないしスタイルもいいし……何でもっと男前アピールしないんですか」
映画館に行く道でも延々と、美女のご機嫌でもとるかのように俺の事を褒め続けていた。まったく、30すぎた中年オヤジを誉めて何になるのだか……。
「男前アピールしてどうするんだ、あの職場で」
俺の職場は技術職である為か、部署の殆どは男ばかりだ。
時々顔を出す女性も既婚者かつバリバリの仕事人間が多く、色恋とは無縁な奴ばかりだ。
俺にとっては数年の付き合いがある連中だから気心は知れている。
そんな同僚たちの前だから、今更自分を良く見せようなんていう気は俺にはなくなっていた。
「え、でも。高野先輩が男前だったら、俺、嬉しいっすよ」
「何でオマエが喜ばなきゃいけないんだ……」
「何でって……何ででもいいじゃないですか」
奥村はそう語ると俺の手を握り、引っ張るように映画館へと進む。
「お、おい! 引っ張るな、奥村! オマエ……おい!」
「いいから、黙ってついてきてくださいよ。声出してる方が恥ずかしいですよ〜」
握った手は温かく、こうして誰かに手を握られるなんて久しくない感覚だったものだからつい気恥ずかしくなり声が出る。だが、奥村は俺の声など聞こえないといった様子のまま、握った手を放さずに奥へと進んで行くのだった。
話題の大作という訳ではなかったその映画は休日だというのに驚く程人が少なく、快適に見る事が出来た。
映画の長さも二時間に至らず、脚本の上手さがあってか終始退屈する事もなかった。
とりわけ、主演の役者がほとんど一人で多彩な演技を見せたのは驚いた。
殆ど登場人物のいない映画で、これだけの見せ方をして、監督はまだ新人なのだから驚きである。
「俺もそう思いますよ! あと、ラストの方なんですけど。あの光を見ている主人公のシーンが……」
最初に話した時から奥村とは映画の趣味があいそうだと、漠然とは思っていたが、実際話してみると俺が思っていた以上に俺の好みに合致していた。
本人曰く、普段はアクション映画しか見ていないとの事だったが、それでもシナリオやその裏に潜んでいるメッセージの解釈は独特で、俺でも思わなかった切り口から映画を見ている事も多い。語り口も軽妙で、俺も久しぶりに熱を込めて話をしていた。
こうして熱く映画似ついて話せる相手とは一対一で飲むのは、一体何年ぶりだろう。
思わず会話が長引いて、行きつけのバー……奥村に教えて欲しいとせがまれたバーでは思いの外長く飲み続けてしまった。
気付いた頃には終電はなく。
「ふぁぁ……高野せん、ぱぁ……ぁぁぁ……」
思わず飲ませすぎたのか、奥村の足はすっかり千鳥足で呂律もまわらなくなっていた。
甘口のカクテルばかり飲んでいたが、奥村の頼んでたものはアルコール度数の高い酒ばかりだ。甘さに惑わされぐいぐい飲んでいたが……相当きいていたのだろう。
「おいおい、大丈夫か。奥村……オマエ、家、どこだ?」
「しぇぇぶしぇんしぇんのー、ろろくら駅れぇーす!」
「何言ってるかわかんねぇな……まぁいい、今日は俺の家に泊まっていけ。タクシーで帰るとする……いいな?」
「しぇんぱいの家ぇ……はい! 不束者ですがー、よろしくおなしやぁす!」
どうやら、すっかり出来上がってしまったらしい。
普段の飲み会だとあまり無理に酒を飲ませないようにしているのだが、今日は思いがけず長居をして自然と酒が進んだから、奥村のキャパを越えていたのかもしれない。
結局、殆ど動けない奥村を引きずる形で俺は自宅マンションの扉を開け、泥酔した奥村をベッドへ運び込んだ。
「んぅ……せんぱぁ、すいません……」
多少酒が抜けてきたのか、頬の紅い奥村の潤んだ目は、申し訳なさそうに俺を捉える。
「気にするな、飲ませすぎた俺の方が悪いんだからな」
すっかり出来上がっている奥村に変わり、俺はアイツのジャケットやベストに時計、靴下なんかを脱がしベルトをゆるめ楽にしてやる。
「すいませぇ……ん、せんぱぁ……ありがとーございまぁっす……」
「いいんだ、水でも飲むか?」
「はぁい〜」
振り子のように頭を揺らしながらも奥村は何とか身体をおこすと、俺が渡した水を一気に飲み干す。
「どうだ、水。もう一杯飲むか?」
「いえ、いりません。せんぱい……すいません、俺……なんか思ったより酔っぱらってた? かも?」
「謝るな、こっちだって飲ませすぎたみたいだしな……他に欲しいものは、あるか?」
「欲しいモノはないんですけど……せんぱい。顔、もっと傍で見せてくれませんか?」
「……顔?」
「さっきから気になったんですけど、せんぱいの顔。何かついている気がするんすよね……」
「本当か?」
俺はあわてて右へ、左へ手をあてその「何か」を探り当てようとするが、指先に触れるものは何もない。
「そっちじゃないッスよ。だから、ほら……ちょっと来てくださいって。とってあげますから」
言われるがままに跪き、奥村の前へ顔を差し出す形になる。
「ほら、ここ。ここ……」
奥村は俺の頬を包むように触れる。
吐息が鼻先をくすぐる程に近づき、こそばゆいような心持ちになる。
「おい、奥村……」
近いな、と思ったのと奥村の手に「ぐい」と力が入り、唇を重なったのは殆ど同時だったろう。
「奥むっ、んぅっ……」
酒のにおいが舌に絡み、口の中で激しく暴れる。
唇が重なっている……その認識が遅れたのは「まさか」という思いが強かったからだろう。どうしていいのか解らずただ困惑する俺を、奥村はそのままベッドに引きずり込むよう押し倒した。
「……先輩、駄目ですよすげぇ無防備じゃないですか」
「なっ……何を言ってるんだ、おい奥村」
「知樹って呼んでくださいよ。俺、先輩の事……」
奥村は、その細腕からは想像出来ない程の力で俺を押さえつけると、無理矢理ボタンを外そうとする。
「ばっ、馬鹿な事はやめろ。おい、奥村っ……!」
俺の声が届かないような虚ろな目のまま、奥村は幾度も唇を重ねる。まるで俺の言葉を封じるように。俺の思いを押さえつけるように……。
重なる手が、嫌に熱い。
相手が馬乗りになっているとはいえ俺の方が大柄だ。
本気で殴りかかればあるいは、逃れる事も出来るのだろうが……。
「……正義さん」
奥村は、俺の名前を呼んだ。
泣き出しそうな目をしながら、絞り出すような声で。
「正義さぁん、正義さん、正義さ、俺っ……俺、アンタの事。アンタの事がさぁ……」
言葉は最後まで紡がれず、思いは曖昧のまま唇が。肌が重なる。
悲しい程に痛々しい瞳に囚われた俺は、朦朧とする意識の中。
「知樹……」
名前を呼び、その手を。俺と比べれば華奢に思える男と、手を重ねていた。
「いいんだ」
そんな目を、そんな顔をする程、俺はオマエを追いつめていたのか?
いつも笑っているだけのオマエを、俺みたいな男が……。
「正義さん……」
「……いいんだ、知樹。おまえが欲しいなら……好きにしろ」
無意識に漏れた言葉は、愛か。同情か。
それは今でも分からない。
ただ……。
俺たちはその夜、ちぐはぐな心を、身体を、思いを、関係を。ただ無理矢理繋げようと必死に足掻いていた。
カーテンの隙間から射す日の光に促され目を覚ました時、隣で寝ていたはずの奥村の姿はもうなかった。
「知樹……」
名前を呼ぶが、返事はない。
部屋を見れば、奥村の鞄も服も綺麗に消えている。
……昨晩の事は、全て夢だったのだろうか。
映画館に出かけた事も……一緒に酒を飲んだ事も、この部屋でした事も。
全て今日見た長い夢だったのでは……。
その思いを、俺の身体が否定する。
身体には悦に浸った後にあるまとわりつくような疲労感が残り、俺の肌にはまるで子供が自分の所有物を示すかのような愛撫の痕が幾つか残っていたからだ。
(……夢じゃ、無かったんだな)
内心で呟き、暫くベッドの上で昨晩の経験を反芻していたが、そのうちふと、腹が減っているのに気づき俺はようやく起き上がった。
念のため部屋を探すが、奥村の姿はない。
ドアを見れば、鍵が開いている……俺が寝ているうちに帰ったのだろう。
一声かけてくれればいいものを……。
と思うが、俺が寝ているうちに奥村が「帰りますよ」と一声かけた記憶は漠然とだが残っている。
あの時は疲労が先立って起きられなかったのだが……。
俺はドアの鍵を閉めると、キッチンの方を見る。
殆どがコンビニ弁当の空箱置き場になっていたテーブルの上には、ラップで包まれたサンドウィッチと。『良かったら食べてください。 奥村』そう書かれたメモだけが残っていた。
……やっぱり、あいつはこの部屋に居たのだ。
この部屋にいて……俺と……。
「夢じゃなかったんだよな、夢じゃ……」
それまで心でしか呟かなかった言葉が、今度は声に出る。
疼くような痛みを持て余す俺の前には、綺麗に作られた玉子サンドがきっちりと並べられていた。
翌日。
出社した俺を出迎えたのは、いつもと変わらぬ奥村の笑顔だった。
「あ、高野先輩。おはようございまっす!」
出社時間10分前にやってきた奥村は、席につくなりジュースを飲んでパソコンを起動させる。
「何だよ、また遅刻ギリギリかぁ、遅ぇじゃねーかよ、奥村ぁ!」
「来てすぐお菓子食うなよ、奥村ー」
奥村はすぐに同僚に囲まれながらも、愛想笑いを振りまきつつ「欲しいんなら言ってくださいよ、先輩一同」等と、軽口を叩いてやり過ごすのだった。
……勿論、俺と仕事をする態度もかわらない。
だから俺も、普段と変わらぬ態度で接する事にした。
あの話題を出さないのならきっと、奥村も……酔った勢いの過ちくらいに思っているのだろう。
ならばお互い、さっさと忘れちまうのがいい。
そう、思っていたのだが……。
その危うい平穏がうち破られたのは、仕事が差し迫りはじめた金曜の昼だった。
「せんぱい。高野先輩っ、俺、弁当作ってきたんですけど。一緒にどうっすか?」
また、俺が気付かぬうちに昼休みに入っていた。
フロアには、俺と奥村しかいない。
あの日とおなじような状況で、また奥村は俺に弁当を差し出したのだった。
「……どういうつもりだ、奥村?」
忘れるつもりなのだろうと、そう思っていた。
だからこそ俺も、触れないようにしてきた。
だが奥村はいとも簡単にその傷をこじ開け、塩まで塗り込もうとしている。
少なくてもそう思えたから、俺の語調は自然と厳しくなっていた。
「えっ? どういうつもりって……俺、ただ昼休みだから先輩と弁当食べようって思っただけっすけど……」
「先週、オマエは同じ事をして、俺に何をした?」
「あ……何って、あの。俺は……高野先輩……」
「……オマエが何も言わなかったから、俺もただ何も言わなかった……アレは、間違いだったと。そう思っていたからな。だが……」
重ねた手を思い出す。
『正義さん……』
許しを乞うよう、何度も何度も謝るように俺の名を呼ぶアイツの声がまだ、耳に残る。
肌にある痕跡だってまだ消えてない。
それなのに……。
「……忘れようとしてたのに、どうしてまた蒸し返すんだ。オマエは。オマエは……俺を、どうしたいんだ……」
喉からは自分でも思いがけない程に、苦渋に満ちた声が出ていた。
腕は自然と胸へ……奥村の残した痕跡へ触れている。
やり場のない思いを吐露する俺を前に、奥村は、いつも笑って、年相応の軽口を叩いて、おどけて振る舞うあいつの顔は、見た事もないような悲しい目をして俺を見据えていた。
「……俺だって。俺だって、よくわかんないんですよ!」
かと思えば、急に激昂したかのような声をあげると、早口でまくし立てた。
「先輩の事は、その……前から、好きでした。でも、好きっていっても遠くで見てるだけで良かったんですよ俺は。手に入れようと思わなかった。触れちゃいけないって思っていた。こんな思い初めてだったから、俺だってどうしていいかわからなかった。だけど……」
爪をたて、乱暴に頭を掻く奥村の姿は普段の穏やかさ、明朗さは欠片も伺えない。
ただ、深い後悔に苛まれる姿ばかりがのぞいていた。
「大体、先輩だってどうして俺と……あんな事したんですかッ。先輩、俺よりずっとガタイいいじゃないですか? あの時は、俺の方が酔ってじゃないですか? それなのに、どうして……殴って拒んで薄汚い奴だって罵って、俺の事叩き出さなかったんですか? 俺だって、あんな事するつもりなかったのに……」
普段から飄々とした奥村の声は震えている。
ここで俺が攻められる筋合いはないと思うのだが……だがそんな言葉も出ない程、奥村の姿は痛々しくみえた。
「触れちゃいけないんだって、最初から分かってたんですよ。でも、先輩は俺に親身になってくれた。俺に笑ってくれた。俺と話してくれた。だから俺はそれだけで満足できなくなって。それで。それで……」
奥村はそこで言葉を切ると、怯えるような表情を捨て、再び笑顔の仮面をつけた。
いつも見せる顔。作ったような笑顔。だが……。
「……何で俺、こんな優しい人好きになっちゃったんだろうな。バカみてぇ」
そう言い残して振り返り、逃げるようにフロアを出ていく。
その目には確かに、涙が浮かんでいた。
「おい、待て奥村! ……奥村ッ!」
呼び止めようと立ち上がった時にはすでに、奥村は部屋から出た後だった。
フロアには俺と、あいつの作った弁当だけが残されていた。
……何があっても、仕事をする上では顔をあわせる。
顔をあわせる限りは、ビジネスとしての付き合いはしなければならない。
俺も、奥村もそういう意味では社会人であり、会社人だ。
昼にあれだけ言い合ったとしても、そんな事はおくびにも出さず仕事に没頭する術は心得ていた。
いや、仕事が差し迫りはじめていたからこそ、没頭出来たとも言えるが。
だが……。
休日になるとやはり、考えずにはいられなかった。
『俺だって、よくわかんないんですよ!』
……奥村はそう言った。
あれだけ俺を翻弄していたと、そう思っていたのだがあいつもまだ、迷っているのだろうか。
部屋にはあの日、奥村が置いていった弁当箱が置いてある。
中身は胃袋に納めたが、弁当箱は何となく返せないまま家に持ってきてしまったものだ。
「よくわからない、か……」
奥村は、俺の事が好きだとうち明けてくれた。
だが俺とどうやって過ごして行きたいのか……それはよく、わかっていないらしい。
俺の方はどうだろう。俺は奥村の事をどう思っているのか……奥村と、どうして行きたいのか。
長期を見据えて結論をと細かく考えてしまえばそうだ、難題はいくつもあるだろう。
だが自分の気持ちに立ち返り見つめなおしてみたのなら……答えは案外、簡単なのかもしれない。
俺は弁当箱を取り出すと、殆ど使ってないキッチンへと置いて街に出た。
俺のしたい事を、する為に。
休日はあっという間に過ぎ、世間はまた仕事が始まる。
「あれ、珍しいですね高野さん。今日、随分出社が遅いじゃないですか?」
いつもより15分ほど遅れて出社してきた俺を、同僚が珍しそうに言う。
そんな俺よりさらに15分ほど遅れて、奥村もやってきた。
「先輩、おはようございます!」
……その笑顔に、いつもと変わった様子は見受けられない。
俺は奥村に変わった様子がないのを確認すると、なるべく平常を心がけ昼休みを待つ事にした。
「おい、奥村!」
昼休み直前に、「急な仕事」という名目のどうでもいい仕事を滑り込ませたせいだろう。
フロアにいた他の連中がいつも通り外へメシを食いにいった頃、奥村だけは苛立たしげにキーボードを叩いていた。
「何すか、先輩? もー、やめてくださいよ昼休み直前に急な仕事とか……何すかこれ? 嫌がらせ? 後輩いじめ? 駄目っすよ、イジメ格好悪い!」
無責任に見えて仕事ぶりは真面目なのが奥村という男だ。
俺に「至急だ」と言われたらキッチリ仕事をこなさないといけないと、そう思ったのだろう。
「あぁ、悪い。その仕事、もういいんだ。切り上げてくれ」
「はぁっ!?」
「別に急ぎじゃないからな、それ」
「……ちょ、何いってるんすか先輩? 先輩が急ぎって言ったんスよ? ……先輩、そういう冗談する人じゃないじゃないですか?」
「いいじゃないか、気にするな。それより……」
と、そこで俺は鞄から弁当を取り出す。
金曜日、奥村が俺に渡したまま忘れていた弁当箱だ。
「一緒に、昼飯でもどうだ?」
「はぁっ? 先輩、何いって……」
「……作ってみたんだ。とはいえ、オマエの手料理と違って俺のは冷凍食品だらけの弁当だがな。ただ弁当箱を返すだけじゃ、つまらんと思ってな。いいだろう?」
「ちょ、せんぱい。あの……俺……」
「いいな?」
差し出された弁当を、奥村は暫く訝しげに見つめる。
俺の真意を推し量っている、といった所だろう。だが。
「……オマエが、俺の事をどうしていいのか分からないのなら。俺がオマエの使い方を選んでやる」
「えっ? 先輩、何いって……」
「二人の時は、正義でいい。俺も、出来れば知樹と呼びたい……いいか?」
「えっ、えっ?」
「……いいだろう。俺の居場所くらい、俺に選ばせろ」
こんな事を自分から言うのは、一体どれくらいぶりだろうか。
少しばかり言い回しが、回りくどかったのだろう。
奥村は暫く目を丸くし、考え込んでいたようだが……少しずつ、言葉の意味を理解したのだろう。
赤らんだ頬は、耳まで熱くした。
「え、あ…………マジですか。先輩?」
「オマエの知っている俺という男は、そういう冗談を言う男に見えたのか?」
「い、い、いいえ! で、でも……俺……」
奥村の目から、自然と涙が零れる。
だがその顔は、作られた笑顔ではない。安堵と歓喜が入り交じった本当の笑顔に満ちあふれていた。
「……やばっ、俺……どうしよ。マジ嬉しい……せんぱい! じゃないかな。正義さん!」
……二人の時は呼んでいいとそう許可したのは俺だが、いきなり呼んでくるとはどれだけ馴れ馴れしいんだコイツは。等と思う間もないまま、アイツは俺を椅子へと押し倒すよう座らすと、その膝に腰掛ける。
「お、おい。ちょっと待て! ここは、会社だ……誰かに見られたらどうす……」
「いいじゃないッスか、説明が省けて楽ッスよ……」
奥村の、男にしてはやや細く長い指先が俺のネクタイに触れ、緩く引かれた直後に暖かな唇が触れる。
……全く、職場で。
それも、扉が開いたらすぐにフロアが見渡せるような席で何をするんだとは思う。
言ったらすぐに行動する、その単純さに呆れる事もある。
これはきっと、相当振り回される覚悟が必要だろうとも思う。
だが……。
「知樹……」
俺の手は自然とその身体を抱きしめていた。
「正義さん」
耳元で、絡む奥村の声は、涙がまだ残っている風に聞こえる。かと思うと。
「……この前は、先輩そういうの駄目かと思ってちょっと優しくしましたけど、オッケーなら次はもうちょっと、凄ぇ事しましょうね? 俺、バンバン覚えてきますから!」
冗談か本気か、そんな事を言い出した。
「あ、う。うん、そうか……」
苦笑いをしながら、そんな空気も心地よい。
暖かな昼下がりには、ゆっくりと時が流れていた。