>> 結ぶ




 アイツは、学生時代から何かと目立つ奴だった。

 顔は……。
 美形と言うには少々癖がある一重瞼の無表情だが見苦しくない程度の容姿は備えており、細身だが背も高い。

 スポーツこそあまり得意じゃないものの、学業優秀品行方正。
 口は……。


 「いいから僕の言う通りにしてくれないか?」
 「説明した所で理解出来るとは到底思えないからな」
 「お前は面倒な奴だから、言われた事だけやってろ」


 終始そんな感じであり、あまり良い方ではないが、それでもアイツが腕のいい大病院の外科医であるのは間違いない。
 (外科医としての腕は、俺自身命を救ってもらっているので、ある意味で俺が一番実感しているとも言えよう)

 頭はいい、顔もいい、おまけに仕事は大病院の外科医。
 祖父の代から続く医者でお坊ちゃん育ちという、まさに非の打ち所がない人生を歩んできたアイツにも、一つだけ弱点があった。

 それは……。


 「……ほら、これ」


 今日も俺の前にネクタイを差し出して、アイツは仏頂面を向ける。


 「何だよ、これは?」


 アイツの頼みたい事はわかるが、あえて鈍感に振る舞えばアイツは露骨に苛立ちを見せた。


 「見れば分かるだろう、ネクタイだ。ネクタイ……ネクタイを結んでくれないか?」


 差し出されたネクタイはいつもの縞模様だ。
 この通常のネクタイを使う以前には、首に引っかけるだけの簡易ネクタイを愛用していたらしい。

 とある大病院の敏腕外科医で、品行方正成績優秀。
 若い頃から女性に困る事もなかったまさに完璧なこの男がもつ唯一の弱点、それがこれ。

 ネクタイを結ぶのが非道く苦手だという事実だった。


 「……全く、仕方ねぇな、お前は。顔、こっちに向けろよ」


 俺がアイツの家に居候する事になってから、もうすぐ1年になるが、出勤前はいつもこうだ。

 俺が顔をよこせといえば、普段尊大なあいつもこの時ばかりは素直に傍らへとやってくる。
 俺も決して背が低い方ではないが、アイツの方が少し背が高いからだろう。

 自然と視線が上になり、足下から金属の軋む、鈍い音がする。

 ……今日はいつもより調子がよくないらしい。
 足に非道い違和感を覚えた。

 だが、大丈夫だろう。
 俺の足は、起き抜けはいつも調子が悪いのだから、さして気にする事もない……。

 そう思い、少し背伸びをしようとしたその時。
 それまでアイツの首筋を凝視していた俺の視線が、不意に大きく傾いた。


 「しまっ……」


 鈍い金属の音をたてた足が、大きくバランスを崩す。
 世界がおおきく揺らぎ傾いたその時。


 「危なっ……!」


 あいつの細い腕が、俺の身体を抱き留めていた。


 「ふぅ……大丈夫だったか?」


 俺の身体が傾いたのを、いち早く察知してくれたのだろう。
 倒れそうな身体を支えるアイツの視線の先には、まだ俺の足にも馴染んでない仮初めの脚が傾いていた。


 「悪ぃ、まだこの足……出来たばっかりでよ。慣れてないから、バランス崩した……」
 「そうか……不具合がありそうか? それなら、調整を……」

 「いや、違う……てか、お前が無理させるからだろーが、俺よりデケェ癖にネクタイ締めろとか……ネクタイくらい自分で結べるようになれ!」
 「リハビリだと思って僕のネクタイくらい結べるようになれ。立っていられないなら、歩くのも難儀になるぞ?」

 「それくらい、俺だってわかってる! ……くそっ……ホント、口では勝てないよお前には……」


 いや、今はもう俺も自由がきく身体ではない。
 以前はケンカなら負ける事はなかったが、もう腕っ節でも敵わないのだろうな。

 俺は自分の足だが、自分の一部ではない仮初めの足を軽く叩くと、再びネクタイを手にした。

 初めてアイツから「ネクタイを結んでくれ」と頼まれたのは、あの事故から程なくして、あいつの家に居候をするハメになってからだった。

 勿論、最初「ネクタイを結べ」と頼まれた時は困惑した。
 俺自身、元々は会社勤めもしていたからネクタイを結べぬ訳ではないが、自分で結ぶのと他人に結んでやるのとでは随分勝手が違うからだ。

 それでも1年、結び続ければ自然と手も慣れてくる。
 今日はしくじってしまったが……。


 「よし、出来た」


 きちんと立ってさえいられれば、ものの1分もかからない。
 今まで、自分で結んでいた頃は一種類しか出来なかった結び方も、すっかりレパートリーが増え今は片手できかない程に様々な結び方を覚えていた。


 「ふん、まずまずだな」


 口ではまずまず、なんて言うがアイツも俺のネクタイには満足しているのだろう。
 嬉しそうに微笑むと俺の頭に手を伸ばし、まるで子供を誉めるようにくしゃくしゃと頭を撫でた。


 「……でもさ、お前本当、ネクタイくらい結べるようになった方がいいぜ」


 携帯電話に定期に財布。
 必要なものをつめた鞄を手渡しながら、俺はつい小言をいう。


 「家には俺がいるから、そりゃ、頼まれれば結んでやるけどさ……外でネクタイほどいた時に、自分で締められないと困るだろう?」


 他にも、急な不幸やパーティなどでネクタイを変える場面だってあるだろう。
 老婆心から出た言葉に、アイツはただ不思議そうに首を傾げる。


 「大丈夫だ、お前が居るから困らんよ」
 「そう言うが、急にパーティに行く事にでもなったらどうする? 葬式だって……何時はいるか分からないだろ?」

 「そうしたら、タクシー代は僕がはらうからお前に来て貰えばいいだろう?」
 「おいおい、ネクタイの為にタクシーか! というか、俺の都合はどうなるそれ、どれだけ俺様なんだ、おまえは!」

 「僕は、お前にネクタイを結んでほしいんだ」


 普段甘えた事など言わないアイツが、突然漏らしたその言葉に、俺の胸に喜びとそれ以上の苦い感情がこみ上げる。

 聞けば惚気ともとれる言葉。
 だが俺にはあいつの、贖罪から絞り出された言葉にしか、思えなかったのだ。


 「……それってさ、お前。責任、感じてるのか?」
 「何いってんだ、僕は……」

 「………………俺の足は、事故だ。お前の手術は正しかった。だから……お前のせいじゃ、無ぇよ。おまえが、俺の運命まで背負う必要は……」


 1年前のあの日。
 意識のないまま担ぎ込まれた俺を手術台で待っていたのが、偶然にもアイツだった。

 名医の噂は伊達じゃなく、アイツは評判通りの腕で俺の命を救ってくれた。
 ……ただ一つ、俺の片足を代償にして。

 そう、救ってくれたのはアイツだ。
 俺は、足を諦めなければ生きている事も難しい状態だったのだ。

 俺はそれを納得して、理解して……今は受け入れて、生きている。
 だがもしそれでアイツが今も、俺に対して罪悪感を抱いていたならば……。

 自由にしてやるべきだと、思った。
 もう1年もこうして、償ってくれたのだから。


 「僕は……」


 あいつは暫く、困惑したような表情を向ける。
 だがすぐに俺へ向き直ると、意を決したように語り始めた。


 「僕は、夢だったんだ。お前が」
 「俺が?」

 「……サッカーを続けていて、プロを目指して。到底なれっこない程度の腕前だったお前が、でもそうやって直向きにスポーツを続けていて。そういう生き方が、夢だった」


 その言葉で、ふと学生時代を思い出す。
 俺はただ勉強よりサッカーに夢中で、小さい頃から続けてきたサッカーを辞める事もなく馬鹿の一つ覚えみたいに続けていた。

 一方のあいつは、途中でサッカーを辞め医学の勉強とやらをはじめた。
 元より、医者の息子だったアイツだから、跡取りになる為に当然の選択だったのだろうが……。


 「……だから手術台でキミの身体と向き合った時。僕は別にキミに同情して云々じゃなくてな。ただ、僕はそう……僕は、僕自身の夢を自分の手で刈り取った、 そんな風に思ってな……僕は、この世界の何処かで。きっとキミがサッカーを続けて笑っているのが……夢だった、だから……」


 草原でシュートの練習を続けていた俺を、他の連中が笑ってみている中、いつも傍らに腰掛けて呆れたように見ていたアイツの横顔が思い出される。


 『いいなァ、お前はさ』


 あの頃、進学校にいながらサッカーばかり熱をあげる俺を多くの友人たちは何処か嘲笑うような視線を向けていた中、あいつの目は呆れが入り交じりながら光が灯っていた。

 今思えば、あれが憧れだったのだろう。

 責任を感じて。
 あるいは同情で優しくしているのだとばかり、思っていたのだが……。

 あの頃からきっとあいつは、俺の事を見ていてくれたのだ。
 ……俺は鈍感だから気付かなかったけれども。


 「僕は、自分で夢をつみ取ったあの日……もう、僕には望むべき夢が無くなってしまったような気がしたよ。その中で考えたんだ、僕の出来る事。僕の夢を……そして……」


 惑う手が、自然と触れる。
 普段冷淡なあいつの口調が、今日は妙に熱っぽく響いた。


 「……今まではキミが何処かで誰かと笑って過ごしていればいいと、そう思っていた。けど……今は傍らで笑っていてほしいと、思うようになったんだ。だから……これからも僕のネクタイを結ぶ役を、続けてくれやしないか?」


 表情を滅多に顔に出さないあいつが、珍しく唇を振るわせている。
 よほど恥ずかしいのか、その頬はうっすらと赤く色づいていた。


 「……お前がそれを望まないなら、無理強いはしない、けど。な」


 躊躇いがちに紡がれる言葉は、惑う気持ちがなければ到底出ないものだ。

 俺は……。
 あの日、殆ど全てを失った俺に同情して。あるいは俺の足を奪った罪悪感からただアイツが、共にいるのだと思っていた。

 俺はただその思いにつけ込んで心も体も、望むままに求めていたのだと思っていた。

 罪悪感があるからこそ、俺の全てを聞き入れているのだ。
 そんな風に勝手に思いこんでいたが……。

 全て俺の勝手な思い違いだったのだ。
 1年も傍にいて、それさえ気付かないなんて俺は……。


 「はは……はは、いや、俺は……」
 「何を笑ってるんだお前は?」

 「いやぁ、俺ってホントさ……鈍感だなって、思ってよ……」


 思い違いで1年も、目の前にあるモノに気付かなかったのだから我ながら呆れる。


 「鈍感? 鈍感で天然で無粋の間違いだろ、鈍感だなんて簡単な言葉だけでキミのような粗野な男を表現きしれると思わないでくれ」
 「何だよ……無表情の冷血マシーンに言われたくねぇって……」
 「いいだろう? それより……こたえ」

 「ん?」
 「聞かせてくれないのか、僕のネクタイを……結んで、くれないのか?」

 「あぁ、ネクタイ。ネクタイね……」


 と、俺はそこでアイツのネクタイを半ば強引に引き寄せると、驚き僅かに開いた間抜けな唇に強引に舌をねじ込んでやる。
 アイツは僅かな抵抗を見せるが、従順に馴らした舌は少し慰めてやるだけで大人しくなり、すぐに俺とのキスに恍惚の表情を浮かべた。


 「……はい、返事」


 悪戯っぽく笑いながら、今締めたばかりのネクタイをほどく。


 「返事って、言葉じゃないだろう……」
 「言葉だけが返答じゃねーだろ。てか、言葉で言うのとどっちが良かった?」

 「そ、それは……まぁ、今の方が嬉しい。けどなぁ……」
 「嫌いな相手にキス出来る程剛胆じゃねぇからそれは安心しろって、そう言ってもまだ不安か?」
 「不安はないが……」


 アイツの視線は今、俺がほどいたネクタイの方にある。
 自分でネクタイを締められないアイツは、その目で俺に再度結ぶように訴えていた。

 だが。


 「やっぱり、お前自分でネクタイ結べるようになれよ」
 「……何だ、僕のネクタイを結ぶのは、イヤなのか?」

 「イヤじゃねーけど……俺みたいないい男を、ネクタイ結ぶだけに使うの、もったいないだろ?」
 「お前……」

 「………………お前の夢を、俺の夢にもしたい。だから……俺の恋人になってください」
 「あ……」


 アイツは返事より先に、俺の手を取る。
 1年、随分と遠回りをしてきた気がするが……。

 今ようやく俺は、無くしていたものをこの腕の中に得た気がした。





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