>> しじまのやみ、かさなるかげ。






 その日。
 永遠に続くような闇の中、私は一人空を見た。


 「……何、言ってるんだろ、私」


 誰もが押しつぶされそうな不安の中、精一杯強がっているのが解っている癖に。
 皆、無理して強がって大丈夫なフリをしているのが、解っている癖に。

 私は、そこから逃げようとした。

 非常な現実から逃げ出したくて。
 封鎖の外にあるはずの、平穏な日常にただ戻りたくて。

 全ての責任から、ただ、逃げたくて。
 宵闇のように暗く、鉛のように重い現実を見据えるのがただ怖かったから。

 だから彼に助けを求めた。
 あの手に、あの笑顔に、あの温もりに、縋り付いてしまったのだ。

 ……そんな事しても彼が、頷いてくれるはずもないのに。
 ただ彼を、困らせてしまうだけなのに――。


 「ばかみたい、私」


 封鎖から6日たった東京の夜は、混乱とは裏腹に驚く程静かだった。
 都心だというのに真の闇が世界を包み込み、暗闇を見据えれば自然と彼の顔が思い浮かぶ。

 私が泣きそうになって彼の手を握りしめて、逃げようなんて無茶な事を口走しり、彼の助けを求めた時。
 彼は私の予想通り困ったように俯くと、それでも私を心配させまいと、優しい顔で笑ってくれた。


 『大丈夫だよ。ユズが心配しなくても、明日は俺が何とかするから。ユズは。みんなは……俺が、守るから』


 そして震える私の頭を、優しく撫でてくれたのだ。

 あんなにみんなを不安にさせて。
 あんなに取り乱してしまった私でも、優しく包み込むように。

 私の鼓動を大きくさせる、あの大きなてのひらで。


 「――みんなががんばっているのに、私だけあんな風にして、また彼を困らせて。本当に――馬鹿みたい」


 考えてみれば私は、ずっとそうだった。

 この6日間。
 東京が封鎖されてからずっと、逃げる事ばっかり考えていた。

 皆が怖いのを無理して頑張っている時、私だけ怯えて震えてばかりいた。
 彼はそんな私も責める事な、詰る事もなく、いつも笑顔で支えていてくれたけど――。

 嫌われちゃっただろうな、わたし。
 一人でベンチに座る私の目から、知らない間に涙がこぼれていた。


 「嫌だっ、もう……泣いたって、どうにもならないじゃない。馬鹿、馬鹿、馬鹿ねぇ」


 でも私は、何で泣いているんだろう。

 この封鎖で、心細いから?
 明日には死んでしまうかもしれないのが、怖いから?
 自分だけ怯えて震える姿を晒すのが、情けないから?

 それとも……彼に、嫌われてしまったから?


 「……っ、もう。泣いていたって、仕方ないじゃないって。わかって、る、のにっ」


 止め処なく溢れる涙を、賢明に拭う。
 その時。


 「ユズ」


 不意に聞こえたのは彼。
 クラスメイトで、腐れ縁で、ナオヤさんの従兄弟で……この世界の命運を握る運命を背負わされた、私の幼なじみだった。


 「あっ。ど、ど、どうしたの。急にっ」


 私は慌てて涙を拭い、泣いてないふりをする。
 これ以上かっこわるい姿を、彼に晒していたく無かったからだ。

 だけど急に涙を拭いても、赤くなった目は誤魔化せない。
 彼は私の頬に残る涙のすじを拭うと、辛そうに唇を噛みしめた。


 「ユズ、泣いてたの?」


 そんな事聞かないで欲しい、言わないで欲しい。
 泣いていた自分がますます、情けなく思えるから。


 「そ、そんな事無い。泣いてなんかないよ。私は、大丈夫だから……」
 「ごめん」


 慌てて繕い笑いをする私に、彼はまた辛そうな顔をする。

 そんな顔、しないで欲しいのに。
 私はただ、彼の笑顔が見たいだけなのに……。

 ……思えば今までも、ずっとそうだったよね。

 休みの日。
 アツロウと遊びに行くっていった貴方を無理矢理ショッピングに連れて行って、沢山の荷物を持たせたりした。

 あの時、貴方と一緒に居たかったから。
 だから無理矢理連れ出して、本当は手を繋ぎたかったけど恥ずかしい思いを隠すように荷物を持たせたりした。

 あんまり好きじゃないって行ってた恋愛映画に、無理矢理付き合わせちゃった事もあったっけ。
 好きな人と、恋愛映画を見る夢。

 子供の頃からあった子供っぽい夢を叶えたい一心で、貴方を散々連れ回した。

 私はいつも、貴方を困らせる事ばかりしていたよね。
 ずっと……嫌な子、だったよね。


 「謝るのは私の方だよ」


 私はぐいっと涙を拭うと、わざと強がって笑って見せた。


 「今までずっと、ワガママばっかり言う子で……ごめんね。わたし、いっつも、貴方を……困らせる事ばっかり、してた……」


 私の言葉を、彼は何時もみたいに困った顔をして聞いている。
 そう、いつもそう。

 私の言葉を彼はこうやって、困ったように聞いているんだ。

 私はそれにも気付かないで。
 幼なじみだから、良く知っているから、それに甘えて縛っていたんだ。

 まるで、彼が私の、恋人みたいに思いこんで。


 「昔からそうだったもんね、私。貴方がアツロウと約束があるって時にも無理矢理連れだしたし、苦手な恋愛映画を見せたりもしたし」


 温かい思い出が溢れるように駆けめぐる。


 「小さい頃、貴方の玩具を強引に取り上げて使った事もあったし、大事にしてたクレヨン、折っちゃった事もあった」


 何故だろう。
 嫌な思い出ばっかりなのに、思い出される彼の顔は何時も優しく温かいから。


 「それに、今日なんてさ。笑っちゃうよね、私。皆が一生懸命明日の事、頑張って考えているのに。一人だけあんな事言って、貴方の事困らせちゃってさ。私、本当……馬鹿みたい」


 私の目からはまた、自然と涙がこぼれていた。


 「……ごめん、ごめん。本当に、ごめんね」


 謝らなくちゃいけないと、思った。
 謝れるのは今しかないと思った。

 そして、思った。
 彼は、私だけの人ではないんだ、と。

 もう彼の幼なじみってだけで、彼の事……縛り付けちゃ、いけないんだと。


 「だからもう、私の事なんか気にしないでいいよ。貴方は、貴方が好きなように……ね」


 私、貴方が選んだ事なら。
 どんな事でも、応援するから、もう……貴方の傍に居ようなんて、思わないから。

 強がって笑う。
 私の隣に、彼は黙って腰掛けた。

 それから暫く静寂の後。


 「俺は……」


 彼はゆっくりと、口を開いた。


 「俺は、本当に馬鹿だな。救世主とか、魔王とか、そんなのに望まれている癖に……一番大切な人を、笑わせる事さえ出来ないなんて」
 「えっ」


 聞き間違え。
 あるいは、冗談。

 そんな風に思ったから、突然触れた唇の柔らかさがすぐに何であるのか、私には解らなかった。


 「……あっ」


 何をされているのか。
 それが解った時、唇はより深く繋がり身体の中が暖かに満たされていく。

 その指先が。
 唇が。

 永遠とも思える暗がりの中、たった一人で歩けないでいる私の心を暖かに照らしていった。
 そんな、一時の温もりの後。

 彼は何時ものように少し困ったような顔をしてから笑うと。


 「ごめん」


 と、小さく頭を下げた。


 「俺、今はユズの望む事、してやれないけど」


 彼の大きな手が、私の手と重なる。


 「でも、これ以上ユズが悲しむような事はしないから」


 重ねた手から、鼓動が伝わる。


 「人も、世界も、もう誰も壊さないから。きっと、また何時も通り。みんなが笑って過ごせるような世界に……戻して、みせるから」


 絡めた指先が微かに震えている事で、昔。
 お化け屋敷で震える手を隠しながら、私の手を引き先を歩いてくれた日の事が鮮明に思い出される。

 本当は怖くて不安で押しつぶされそうで。
 自分だって、泣き出しそうな位怯えている癖に、それでも私が怖がらないよう、精一杯強がってくれているのだ。

 他でもない、私の為に。

 だったら、私は笑わないと。
 あの時みたいに、精一杯笑って彼と一緒に居ないと。


 「うん、約束よ。全部、元に戻ったらまた……一緒に、買い物に行こうね」
 「あぁ」

 「映画も見よう、私ずっと見たい映画があったんだ。お砂糖にシロップをかけたような、甘い恋愛映画だから覚悟してね」
 「はは、覚悟しとく」

 「遊園地も行こう。二人で、観覧車に乗るの。 それからっ、それから……」


 私は、笑う。
 何時も通りの笑顔を、思い出しながら。


 「それから、ずっと貴方の傍に居るんだから。勝手に、一人で何処かに行っちゃったり、しないでよね。私……」


 知らない間に、彼の手を握る力が強くなる。


 「わたし、貴方としたいことがまだいーっぱいあるんだからね」


 彼はそんな私の手を、強く握り返して笑った。


 「あぁ……約束する。ずっと……」
 「うん、ずっと……一緒に居てね、約束よ」


 互いの影が、自然と近くになる。


 決戦の日を前に。
 永遠とも思える静寂を孕んだ闇の中、それでも私たちの影は温かく寄り添っていた。





 <ユズさんはネガティブ可愛い>