ファースト・コンタクト 30



   深い眠りの淵を漂っていた意識が急速に浮上すると、まるで何かのスイッチでも押されたかのように、唐突にティエリアは目を覚ました。
 ベッドサイドの時計を一瞥すると、いつもの時刻を表示している。常に完璧な体調維持を心がけている彼の起床時間は決まっていて、アラームなどかけなくても毎朝必ず同じ時刻に目覚めているのだ。
 ティエリアは予定通りの起床を確認すると、起きぬけの気だるさも見せずにベッドから抜け出し、日課となっているバスルームへと向かった。
 ざっとシャワーを浴びて汗を流し、着替えて部屋へ戻ると、備え付けの端末からヴェーダにリンクして、現時点でヴェーダにもたらされているあらゆる情報の閲覧を始める。
 瞳を金色に煌めかせながら膨大なデータを驚異的なスピードで読み取り、必要な情報のみ頭の中にインプットしてゆくティエリアの貌からは人間らしさというものが一切削げ落ちていて、硬質で精巧なアンドロイドのようだ。
 一通りのデータ収集を終えると、次は朝食をとりに食堂へと向かう。それが今までのティエリアの朝の日課だったが、最近もう一つ増えたことがある。
 端末を閉じたティエリアは、デスクの端に置いた携帯端末に手を伸ばした。黒い画面にメールの着信を報せる小さな赤いランプが点灯している。
「―――またか…」
 それが誰からのものなのか十分すぎるほど見当がついていたティエリアは、軽く嘆息した。
 ティエリアの朝の日課に増えたもの、それは携帯端末のメールチェックだった。ある相手から頻繁にメールを寄越されるようになってから、自然と行うようになっていたのだ。
「まったく。軍人というものはそんなに暇なのか?」
 あきれたように吐き捨ててはいたが、ワインレッドの双眸には和やかな笑みが滲んでいる。ヴェーダにリンクしていたときとはまったく違う、やわらかな表情だ。
 携帯端末を操作してメールボックスを開いたティエリアは、予測と寸分違わぬ相手からのメールを読み始める。
『―――おはよう、ティエリア。昨夜も夢の中にきみが出てきて、相変わらず綺麗な顔で私を手厳しく振ってくれたよ。それでも、たとえ夢の中であっても、きみに逢えて嬉しかった。きみも私の夢を見てくれたなら、この上ない幸せだ。愛してるよ、ティエリア』
「……………」
 プライベート用のメールアドレスを教えて以来、グラハムからは毎日のようにメールがきていた。特段用があるわけではなく単なるご機嫌伺いのようなもので、最後は必ず『愛してるよ、ティエリア』で締めくくっている。大の大人が恥ずかしげもなくと眉を顰めるものの、知らず頬が赤くなってしまうのは、ティエリアとしては気のせいにしておきたいところだ。
 今も自身の意に反して早くなりがちな鼓動を深く息を吐いて静めると、ティエリアは携帯端末を操作して返信した。
『―――生憎夢は見ないので、貴方が登場することはありえません』
 最初のうちは、グラハムが勝手によこすものに返事をするのも業腹だと放っておいたティエリアだったが、まるで返事を催促するかのように連日何度もメールをよこされ、とうとう根負けしてしまった形で、今では数回に一度の割合で短い返信をするようにしている。
 とはいえ、プライベートでメールのやり取りなどしたことのないティエリアの文面は、非常に素っ気ない。用もないのにメールをするという概念が理解できないからだが、それでも一応返事を返すようになったのだから、僅かながらでも成長したと言えるだろう。もっとも、世の恋人達のように、メールの中に甘やかな雰囲気を匂わせる単語や文章を織り交ぜるようになるには、まだまだ相当な時間が必要だろうが。
 取り敢えず返信のメールを打ったことで一仕事終えた気になったティエリアは、携帯端末をデスクの上に戻すと食堂へ向かうべく席を立った。今日はやりたいことがたくさんあるので、いつもより早めに朝食をとろうと思ったのだ。
 ところが、そんなティエリアを呼び止めるかのように携帯端末が鳴った。一体誰だとデスクに戻って携帯端末を開くと、グラハム・エーカーからのメールだった。
 返信してまだ十分と経っていないのに、いくらなんでも早すぎないだろうか。
 低軌道ステーションやコロニーではグリニッジ標準時を使用しており、プトレマイオスもそれに倣っている。グラハムの所属するエムスワッド基地との時差は約5時間。どう考えても向こうは真夜中のはずだった。
 夜間の飛行訓練もあると言っていたからそれかもしれないが、そうすると勤務時間中にメールをよこしたことになる。何か緊急の事態でも発生したのだろうかと気になってメールを開いた途端、ティエリアは盛大に眉を寄せた。
『そんな悲しいことを言わないでくれ!今すぐにでも、きみの元に駆けつけたい気持ちを必死で抑えている私を哀れと思うのなら―――』
「……………」
 何事がおきたのかと思ってみれば。こんなどうでもいいことを即座にメールしてくるグラハムの神経が、ティエリアには理解できなかった。
 本当にユニオン軍は暇なのかもしれない。こんな女々しい男がトップガンだというのだから、エムスワッドのパイロットの資質も高が知れるというものだ。
 心底あきれたように溜息を吐いたティエリアは、短い返事を打つとそのまま携帯端末の電源を切った。
『思いません』
 今後、必要以外のメール――もっとも、グラハムからの場合、不必要以外ないような気がするが――には返事をしないようにしようと心に誓ったティエリアは、本日の予定を全うすべく食堂へ向かった。



 食堂には既にアレルヤ・ハプティズムが来ていて、ティエリアに気付いた彼は穏やかな笑顔で迎え入れた。
「おはよう、ティエリア」
「…おはようございます」
 専用ボックスから朝食のトレーを取り出すと、ティエリアはアレルヤの向かいの席についた。以前は一人離れたところで食事をするのが常だったが、ロックオンに「食事はみんなで一緒にするもんだ」と口煩く言われ続けた結果、今では一緒にとるのが当たり前になってしまっていた。
「昨夜はよく眠れた?」
「別に普段どおりです」
 にこやかに聞いてくるアレルヤに、ティエリアはいつもどおり素っ気なく返答すると食事を始めた。そんなティエリアを優しく目を和ませて見つめていたアレルヤも食事を再開する。
 ガンダムマイスターとなって二年が経つが、ティエリアは最近の自身の変化に正直戸惑いを隠せないでいた。
 同じマイスター同士であっても、常に一線を引いて孤高を保っていたというのに、彼らの前で涙を見せたりそのうえ頼ってみたり、自身の弱さを曝け出してしまっていて、今では馴れ合いに近い状態になっているのだ。
 さらに上げるならば、他人と付き合うことを承諾したことも驚愕すべき事態だった。しかもそれが言わば敵対する相手なのだから、以前の自分が知ったら気がふれているとしか思えないだろう。ヴェーダを裏切るにも等しい万死に値する行為だと、自身を粛清していたかもしれない。
 それでもティエリアは、今の自分が嫌いではなかった。戸惑うことや迷うことが増えてしまったが、その分楽しいと感じることを知ったからだ。いずれもヴェーダにだけ意識を向けていた頃は知りえなかった感情で、少しずつ自身の中に生まれてきたのだ。
 ティエリアにとって「劇的な変化」を促したのは傲慢なまでに自信過剰なあの男だが、それ以前からティエリアの中で僅かながらも変化は起きていたように思う。
 そのきっかけを与えてくれたのは、人嫌いであった自分に根気よく話しかけてきて、他のマイスター達の輪に入らせようとした年長者である彼だ。何度怒っても拒絶しても懲りずにかかわりを持とうとしてきて、その掴み所のない強引さに引きずられるように、今まで知らなかった感情が芽生えてきたのではないか。
 そんなふうにティエリアを変えるそもそものきっかけを作った彼―――ロックオン・ストラトスの様子が、最近少しおかしいようにティエリアは感じていた。どこがどうとはうまく説明ができないが、なんとなく苛ついているような気がする。表面上は平静を装っているものの、時折険しい表情を浮べていて、いつも飄々とした余裕を崩さないロックオンにしては珍しいことだった。
 およそ他人を気にしたことなどなかったのに、こうしてロックオンの様子を気にかけている自分が、ティエリアには新鮮な驚きだった。
 一体ロックオンはどうしたというのか。気になっているのに直接本人には聞けないティエリアは、事情を知っていそうなアレルヤに聞いてみることにする。
「―――アレルヤ」
 食後のコーヒーを飲みながら、ティエリアが食事を終えるまで付き合ってくれているアレルヤに声をかけた。
「何だい?」
 穏やかなシルバーグレイの瞳を向けられて、咄嗟にティエリアは言うべきか否か逡巡した。個人的な問題に踏み込むようなものだし、第一何の確証もないことで、ティエリアの気のせいかもしれないからだ。
「ティエリア? どうしたの?」
 首を傾げて聞き返してくるアレルヤに、意を決したようにティエリアは口を開いた。
「……最近、ロックオンの様子がおかしいように思うのだが、きみはどう思う?」
「…え?」
 驚いたように目を瞠ったアレルヤに、ティエリアはやはり言うべきではなかったと後悔した。きっと自分の思い違いだったのだ。
 恥ずかしさに顔を伏せてしまったティエリアに、アレルヤは静かに聞いてきた。
「ティエリアもそう思うの?」
 その言葉にはっとしたティエリアは顔を上げた。ということは、ティエリアの気のせいではないということだ。
「きみもそう思うのか?」
 思わず身を乗りだすようにしてティエリアが訊ねると、アレルヤは苦笑を浮かべた。
「本人は何でもないように装っているけど、長い付き合いだからわかるよ。原因は…まあ、なんとなく想像がつくけれどね。こればかりは、自分で解決するしかないよ」
「そう…なのか?」
 人を気遣うアレルヤにしては珍しく突き放すような言葉に、ティエリアは僅かに首を傾げた。
「うん。でも、ティエリアが気にしてくれて、ロックオンも嬉しいと思うよ」
「…そうだろうか?」
 アレルヤはそう言うが、自分になど気にされてもロックオンは別に嬉しくもなんともないと思う。
 疑うように眉を寄せてしまったティエリアに、アレルヤは内心やれやれと肩を竦めた。
「当たり前だよ。気にかけてもらって、悪い気分になるわけがない」
 それがティエリアならば、尚更ね。
 言外に言葉を飲み込みつつ、アレルヤが微笑みながら告げると、ティエリアは一応納得してみせる。
「ならいいが…」
「だから、ティエリアもロックオンを見守ってあげてくれないか? それだけできっとロックオンの力になれると思うよ」
 ロックオンの力に…?
 アレルヤの言葉はティエリアの心にすっと入り込んだ。
 このところ、ロックオンに迷惑をかけてばかりだった。当のロックオンは気にするなと言ってくれたが、負担をかけてしまった自覚のあるティエリアにしてみれば、気にならないわけがない。罪滅ぼしというわけではないが、少しでもロックオンの力になれるのなら、どんな些細なことでもやってみたいと思ったティエリアは、ワインレッドの瞳に決意を滲ませながらアレルヤを見返した。
「…承知した。だが、本当に見守るだけでいいのか?」
「さっきも言ったけれど、これはロックオンが自分で解決するしかないことだから。表立っての行動はロックオンのためにならないよ」
「そういうものか?」
「そういうものだよ」
 再び首を傾げつつも、気遣いの塊のようなアレルヤが言うのだから間違いないだろうとティエリアは思った。
「心配しなくても大丈夫。ロックオンなら、すぐに元の彼にもどるよ」
 ティエリアを安心させるかのように穏やかな笑みを浮かべてみせるアレルヤに、ティエリアは小さく頷いた。
「そうだな」





「―――ってことがあったんですが」
 突然人の部屋にやってきたかと思うと、ティエリアとの遣り取りを事細かに説明したアレルヤに、ロックオンは頭を抱えた。
「………アレルヤ。おまえ、ティエリアになんてこと言うんだよ!」
 恨めしそうに睨みつけると、シルバーグレイの瞳にあっさりと切って捨てられる。
「あのティエリアもにわかるくらいに苛々してるロックオンが悪いんでしょう? 実際、端から見てもひどいものでしたよ。あれで隠しているつもりなんですから、存外ロックオンも可愛いものですね」
 図星を指されてぐうの音も出ないロックオンは、言い返す気力もなく盛大に溜息を吐いた。
「勘弁してくれよ。これからどうやってティエリアと顔を合わせればいいんだ……」
「別に、今までどおりでいいんじゃないんですか?」
「そんな訳いくかよ! 変に意識しちまうじゃねえか!」
 「タワー」での一件以来、思うように感情をセーブできない自分にロックオンも気付いていた。平静を保ってはいても、ふとした弾みで忌々しい男のことを思い出し、苛々してしまうのだ。
 洞察力の鋭いミス・スメラギやアレルヤ、カンのいい刹那に気付かれていることは薄々わかってはいたが、まさかティエリアにまで気付かれていたとは! 情けない自分に、ロックオンは地の底まで落ち込みたくなる。
「大体、いつまでも変に余裕ぶっているからこんなことになるんですよ。さっさと行動を起こしていればよかったのに、手をこまねいてこんな事態を招いたのは、ロックオンが不甲斐ないせいですからね!」
「―――おまえ。本当にアレルヤか?」
 常にない辛辣な口調の彼に、思わず第二人格のハレルヤの存在を疑ってしまったロックオンだったが、冷ややかなシルバーグレイの瞳を向けられて息を飲んだ。
「間違いなく僕ですよ。それとも、ハレルヤの方がいいですか? 何ならリクエストにお答えして、呼び出しても構わないですが」
 先程からの容赦ないアレルヤの口撃のせいで心理的なダメージが大きいのに、これで他人を完膚なきまでに叩きのめすハレルヤにまで出てこられては、本当に再起不能になりかねない。ロックオンは慌てて首を振った。
「……いや。謹んで辞退させてもらう。っていうか、アレルヤ。おまえ、ひょっとして…怒ってるのか?」
「ええ、当たり前じゃないですか。よりによってティエリアをあんな男に取られたんですよ? これが怒らずにいられるわけないじゃないですか!」
 穏やかさを信条とするアレルヤにしては珍しく激昂している様子に、ロックオンは彼が本気で怒っていることを悟った。
「……やっぱり、おまえもそう思うか?」
「あのティエリアの変わりようを間近で見て、何もなかったと思えるようなボンクラは、即刻ガンダムマイスターを辞めるべきですね」
 不機嫌そうにきっぱり言い切るアレルヤに、ロックオンは険しい表情を浮かべた。
「思い過ごしであってほしかったんだがな……」
 あの日、「タワー」でティエリアは間違いなくあの男と会ったのだ。二人の間で何があったのか、直接聞くことはできなくても、その後のティエリアの変化を見れば嫌でもわかる。
 まず、表情がやわらかくなった。今まで数えるほどしか見れなかった笑みを、自然に浮かべるようになったのだ。取り付く島もなかった雰囲気も和らいできて、自然とみんなに打ち解けはじめている。
 止めがクリスティナ・シエラの一言だ。
『ティエリア、最近すっごく綺麗になったよねー。恋でもしてるのかな?』
 その言葉に、顔を真っ赤に染めながら否定して見せたティエリア。
 普段の彼ならば、何をくだらないことをと、冷淡に一瞥して終わっただろう。
 それだけでもう、わかってしまった。ティエリアの心が、あの男に奪われてしまったことに―――。
「僕達三人がガードしていて、あんな男にあっさりティエリアをさらわれるなんて、悔しくて仕方がありませんよ!」
「俺だって悔しいさ。あのキザ野郎にみすみすティエリアを奪われるなんて冗談じゃねえ。それに……」
「それに?」
「……初めから終わりの見えた悲しい恋なんか、ティエリアにはさせたくない」
 ソレスタルビーイングのガンダム・マイスターである以上、世界を敵に回している状態だ。そんなティエリアの初めて恋した相手がよりによってユニオンの軍人だなんて、一体なんの皮肉だろう。
 人の恋路に口を挟むなんて野暮なことは、本来であればしたくはない。
 だが、どう足掻いても不幸な結末しか予測できない、みすみす泣くとわかっているような恋をはじめたティエリアを、ロックオンは放っておくことなどできなかった。
 もしこれが他の人間ならば、不承不承ながらも応援したかもしれない。
 だが、あの男だけはダメだ。絶対に。
「だから、期待してますよ、ロックオン。ティエリアは様子のおかしい貴方を気にしていますからね。それが同僚を気遣う類のものであっても、気を引く材料にはなるはずです」
 シルバーグレイの瞳の意図を正確に読み取ったロックオンは眉を顰めた。
 ティエリアをあの男から取り戻せと、そう言っているのだ。
「――アレルヤ。おまえな…」
「自信がないのなら、僕が立候補しても構いませんよ? 僕だってティエリアのことは好きですし」
「アレルヤ」
 あからさまに挑発してくるアレルヤに、ロックオンはターコイズブルーの双眸を細めた。冗談にしても聞き流せない言葉だった。
 剣呑な空気が二人の間に漂う。
 一触即発めいた緊張を破ったのは、アレルヤだった。
「―――どうやら腑抜けてはいないようですね。安心しました」
 苦笑を滲ませながら紡ぎ出したアレルヤの言葉に、ロックオンは脱力する。
「……言うに事欠いてそれかよ!」
「貴方の本心が知りたかったんですよ。いつも飄々とかわしてしまっていて、なかなか見せてくれませんからね」
 にっこり笑うアレルヤに、ロックオンは彼の手管に嵌められたことを悟った。
「…ったく。とんだ策士だな」
「半分くらいは本気でしたよ。残り半分は、貴方を焚き付ける演技でしたが」
 さらりと言ってのけたアレルヤに、それ以上の追求をロックオンは控えた。代わりに口元に不敵な笑みを浮かべる。
「本腰入れて口説けってことか?」
「協力は惜しみませんよ」
 すべてはティエリアのために。
 詭弁だと言われても、つらい恋などさせたくはないから。
 もう、ティエリアの涙は見たくはないから。
 二人は互いに共犯者の笑みを浮かべあった。