ファースト・コンタクト 15



 翌朝。滞在先のホテルへ戻ったティエリアがドアをノックした途端、ものすごい勢いで内側から開かれた。
「ティエリア!」
 そこに現れたのは、焦燥と安堵が綯い交ぜになった表情のロックオンだった。年長者らしくいつも鷹揚に構えている彼の初めて見る憔悴しきった様子に、ティエリアは目を瞠った。
「心配させやがて…っ。この、馬鹿っ!」
 言うが早いか、ロックオンはティエリアの腕を掴んで引きよせるとその華奢な身体を抱きしめた。突然の彼の行動に驚いたティエリアは、抵抗するのも忘れてなされるがままだ。
「おかえり、ティエリア」
 ロックオンの背後からゆっくり近付いてきたアレルヤが笑顔で迎えてくれる。抱きしめられたままで気恥ずかしいティエリアは、そっと目を逸らしながら謝罪の言葉を口にする。
「……昨日はすまなかった」
「でもまあ、無事に帰ってきてよかったよ。ロックオンなんか、一晩寝ないで待ってたんだから」
「え…?」
「アレルヤ!」
 ティエリアが首を反らして顔を覗き込んでみると、ロックオンは咎めるようなまなざしでアレルヤを睨み付けていた。
「そうなのですか?」
「俺が勝手にしたことなんだから、お前が気にすることはないさ。それより…」
 視線を落としたロックオンが急に言葉を途切らせた。はっとしたように目を瞠った後、厳しいまなざしをティエリアの首筋へと注ぐ。そのまま険しい表情で黙り込んでしまったロックオンに、ティエリアは怪訝そうに声をかけた。
「……ロックオン?」
「―――ティエリア、お前……」
 固い表情で重々しく口を開きかけるターコイズブルーのまなざしの奥に潜む葛藤に気づいたティエリアは、そっと眉を顰めて首を傾げた。
「どうかしましたか? ロックオン」
 澄んだワインレッドの瞳に見つめられ、ロックオンは視線を逸らして逡巡する様子をみせた。そして、何事かを堪えるように固く瞳を閉じると、ゆっくり首を振った。
「……なんでもない。それより、メシにしようぜ。まだなんだろ?」
 そう言って何事もなかったかのように明るく振る舞ったロックオンは、ティエリアの身体からゆっくり身を離すと華奢な肩をポンと叩いた。
「ええ」
「じゃあ行くか」
 そのまま部屋の外へと向かいかけたその時、後ろの方から興味津々の声が聞こえた。
「――――で。本当にあのグラハムって野郎に何もされなかったかよ、ティエリア?」
 弾かれたように二人が振り返ると、そこにはアレルヤが立っていた。―――否。誰もが聞きたくて聞けないことをずけずけと聞いてくるのはハレルヤしかいない。
 金色の瞳に変わったもう一人のアレルヤは、人の悪そうな笑みを浮かべつつ近づいてくると、興味津々の様子でティエリアの顔を覗き込んだ。
「……………」
 ティエリアは咄嗟のことで答えられなかった。されたといえばされたといえるだろうが、かといって他人にべらべらと話す類のものではない。残りの二人――いや、この場合アレルヤも含めて三人か――も密かに聞き耳を立てていることに気付いたティエリアはきっぱりと言った。
「……答える義務を感じない」
「ティエリアっ!?」
 焦ったようにロックオンは顔を向け、刹那は無言で少しだけ眉を寄せた。ハレルヤは「へーえ」と面白いものでも見たように口角を上げる。
「俺様のカンが大当たりってことか」
『ちょっと、ハレルヤ! なんてこと言うんだっ!』
「ああ? うるせえな、アレルヤ。いいじゃねえか、オクテのティエリアが大人の仲間入りをしたんだから。めでてえだろ?」
「『ハレルヤっ!』」
 爆弾発言をしたハレルヤに、アレルヤとロックオンが同時に噛み付いた。ロックオンに至っては、ハレルヤの胸倉を掴まんばかりの勢いだ。
「あー。ったく、うっせえなあ。おい、ティエリア。この過保護どもをなんとかしやがれ」
 めんどくさそうに視線をよこすハレルヤにティエアは眉を顰めた。
「何故わたしがそんなことをしなければならないんだ」
「元はといえば元凶はてめーだろうがよ。ったく、めんどくせー。後は任せたぜ、アレルヤ」
 そう言い残すとハレルヤはあっさりと意識の下に引き込んだ。たまらないのはアレルヤの方で、ハレルヤのせいで重苦しい雰囲気になったこの場を収拾しなければならないからだ。いくらもう一人の自分がやったこととはいえ、理不尽さを感じずにはいられない。
「―――まったく。ほんと好き勝手にやってくれるよ、ハレルヤ」
 がっくりと肩を落とすアレルヤに、ロックオンも同情のまなざしを向けた。
「大変だな…」
「――で。実際のところはどうなんだ?」
 一難去ってまた一難。今度は今まで黙っていた刹那が口を開いた。ロックオンとアレルヤが慌てて振り返り、意識の下でハレルヤが面白そうに口笛を吹いた。
「「刹那っ!」」
「……さっきも言っただろう。答える義務はない」
 不快そうに眉を顰めたティエリアが一言のもとに切って捨てようとすると、珍しく刹那が食いついてきた。
「だが、あれだけみんなに心配をかけたんだ。無事かどうか答えるのは義務じゃないのか? もしあの男に危害を加えられたのなら、手当てが必要だろう」
 ダークレッドの瞳が真っ直ぐにティエリアを見つめてくる。そのまなざしには所謂色事に対する意味合いは欠片も感じられず、純粋にティエリアの身体を心配しての発言と思われた。的はずれな刹那の問いに逆に内心安堵を覚えながら、ティエリアは一つ息を吐くと口を開いた。
「別に危害を加えられてなどいない」
「本当か?」
「こんなことで嘘を吐いてどうする」
「ならいい。ロックオンがひどく心配していたから、安心させてやるといい」
 そう言って刹那が視線を向けた方へティエリアも釣られるように振り返ると、そこには少しバツが悪そうな顔をしたロックオンがいた。
「あー。……ま、とりあえず無事でよかったよ」
 照れ隠しか微妙に視線を泳がせるロックオンの隣で、アレルヤが苦笑を浮かべている。
「本当にね。もうこんな騒ぎは二度とごめんだけど」
 ティエリアも彼らが本気で心配してくれていたことはわかるので、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……わるかった」
 素直に謝罪を口にしたティエリアを、三人は一瞬びっくりしたような顔をして見つめた。
「わかればいーって」
 ロックオンが宥めるようにティエリアの頭を撫でる。ターコイズブルーの瞳は愛しむように細められていて、その仕種を見たアレルヤは、内心おや?と首を傾げた。
 今まであんなふうにティエリアに接したことあったかな…?
 ロックオンは割とスキンシップが好きな方だ。刹那の頭を撫でる光景はよく目にするが、逆にティエリアに対しては一歩引いた感じで接していたような気がする。
 多分気のせいだとすぐに意識の外へ追いやろうとしたアレルヤだったが、何時の間にか顔を覗かせていたハレルヤが気になることを口にする。
『―――ライバルが出てきて、ようやく本腰入れる覚悟ができたんじゃねーの? 大事にしてきて、横からかっ攫われちゃあ面白くねえもんなあ』
『……ハレルヤ。言っている意味がわからないんだけど?』
 訝しげに眉を顰めるアレルヤに、ハレルヤが意味ありげに笑った。
『何もなかったなんて言葉を信じてるのは、刹那とお前だけだってことさ。ロックオンの野郎はちゃんと気付いてるぜ? ティエリアの変化によ。首筋につけられたキスマークにもな』
『えっ!』
 とんでもないその言葉に思わず絶句したアレルヤは、ティエリアへ視線を移す。
『そんな、まさか……』
『マーキングってやつか? まあ、ロックオンに対する牽制って見た方が正しいんだろうけどよ』
 窺うようなまなざしをロックオンへ移したアレルヤは、肩を抱くようにしてティエリアを促す彼の瞳に厳しい光が宿っているのを見て取った。それは、グラハム・エーカーと名乗るあの男を睨みつけていたものと同じ強いものだった。
 ―――ロックオン。きみは……。
『面白くなってきたよなあ、アレルヤ』
 ハレルヤの愉快そうな声が頭の中で響くのを、アレルヤは茫然とした思いでただ聞いていた。




 賑やかな朝食の後、少し疲れたと言って寝室に引き込んだティエリアは、ベッドの端に座ると大きく息を吐いた。そのままベッドの上に身体を倒そうとしたとき、かさっと小さな音がした。はっとして身体を起こしたティエリアは、ポケットの中を探ると小さく折られた紙片を取り出した。
 ゆっくり開いたその紙片に書かれていたのは、大胆な筆跡で書かれた数字とアルファベットの文字の羅列。彼のプライベートアドレスだった。
『いつでもいいから連絡をくれないか?』
 別れ際、グラハムはそう言ってこれを渡してきた。強請ることも懇願することもなく淡々とした様子で、ティエリアは拍子抜けしてしまったほどだ。あんなに情熱的に口説いてきた翌朝に見せる態度ではないと思う。
 そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。グラハムが意味ありげな笑いを浮かべてみせた。オリーブグリーンの瞳には自信が満ちていて、ティエリアが連絡を取ることを少しも疑ってない様子だった。
 傲慢な男は最後の最後まで不遜な態度で、ティエリアは怒るより先に呆れてしまったほどだ。グラハムは、ティエリアがこのアドレスを捨ててしまわないと本気で思っているのだから。
 そんな彼の手管にまんまと乗せられてしまうのは業腹だった。ティエリア・アーデの行動は彼自身が決めるべきもので、そこに他者の思惑がからむのは許せるものではない。
 ―――わたしが大人しく貴方の筋書きに通りに動くと思ったら大間違いだ。
 冷ややかな笑みを口元に敷いたティエリアは、紙片を目の前に翳すと両手で破る仕種をする。そのまま指先に力を入れかけるが寸でのところで踏み止まった彼は、深い溜息を吐くと紙片を丁寧に折りたたんだ。
 こんなふうに相手に振り回されるのは、本来許し難いことで。それなのに、グラハムが相手だと戸惑ったり怒ったりもしたが、決して嫌ではなかった。
 その理由をティエリアはもう気付いている。けれど、認めてしまうのはまだ怖いから、気付かないふりをしているのだ。それがいつまで続けることができるのかティエリアにはわからないが、そう遠くないことのように思える。
 ―――けれど。
 今はまだ、あの男の思惑に簡単に乗せられるのは悔しいから、しばらく連絡などしてやらない。せいぜい焦れながら届かないメールを待っていればいい。
 自信過剰な彼はさぞや悔しがるだろう。そう思うと少しばかり気分も浮上してくる。これくらいの意趣返しをしても許されるはずだ。
 まあ、万が一。奇跡のような確率で気が向いたら、あいさつの一つくらいはしてやってもいいかもしれないが。
 たまには地上の重力に縛られてみようか…。そんなふうに思ったときには。
 そんなことを考えながら手の中の紙片を見つめるワインレッドの瞳はやさしく細められ、唇には楽しげな笑みが浮かんでいた。
 彼のことを考えるだけで心浮き立つこの感情に名前を付けられる日が来たら、そのときはきっと―――――。







「おや。思い出し笑いとはきみも隅におけないね、グラハム」
 ユニオン軍MSWATの基地の展望室で外を眺めていたグラハムは、悪友の声で我に返った。
「色男顔に出にけり…か。きみのそんな顔をみたら、何があったのかと女の子達は騒ぐだろうね」
「見ていたのか。趣味が悪いぞ、カタギリ」
 グラハムの揶揄をカタギリは肩を竦めて返した。
「見ようとして見たわけではないよ。自然と視界に入ってきたんだ。それにしても、きみにそんな顔させるなんで、どうやら噂の恋人と有意義な休暇を過ごしてきたようだね」
「彼女には振られたよ」
「振られた? 君が? またかい…」
 大袈裟に驚いてみせるカタギリにグラハムは眉を顰めた。
「なにも、またを強調することはないだろう」
「数々の浮名を流してきてよく言うよ、『光る君』。だが、振られたにしては随分と楽しそうだねえ」
 カタギリは華やかな女性遍歴とその出自故に、グラハムを日本の古い書物「源氏物語」の主人公になぞらえて『光る君』と呼んでからかっていた。そう呼ばれることにかなり難色を示していたグラハムだったが、言われ続けるうちにいい加減慣れてきてしまって、今では軽く聞き流すようになっていた。
「恋をしたんだ」
「恋? そりゃまた恋多き光る君に相応しい台詞だねえ」
「初めて会った瞬間、運命を感じたよ」
 そう言って笑うグラハムはまるで少年のように無邪気で輝いていて、彼にとって特別な相手に出会えたのだとわかるくらいにはカタギリは付き合いが長い。
「それはよかったね。早く僕にも紹介してくれるとうれしいな」
「残念ながら、名前しか知らない相手でね。何処に住んでいるのかも、何をしているのかもわからない」
「え…? じゃあ、どうやって連絡をとるんだい?」
「私のプライベートアドレスを渡しておいた。当分連絡待ちの状態さ」
 手が早いグラハムらしからぬ仕儀に、カタギリは目を丸くした。
「そりゃまたどうして?」
「私だけ想い続けるのはフェアじゃないだろう? 彼にも追いかけてもらわないと」
「…って、彼っ!?」
 心底驚いたカタギリが身を乗り出してくる。
「そう、彼だよ」
 事も無げにゆったりと笑う目の前の友人は、確か性的にノーマルだったはずだ。そのグラハムからいきなり「彼」発言が出てきたことに流石のカタギリも動揺を隠せないが、そこは長年の付き合い。グラハムならばあり得ないことではないと、早々に思考の転換を図る。
「そんなことを言って、連絡が来なかったらどうするんだい? その彼とは二度と会えなくなるかもしれないよ?」
「来るさ、必ず。もし仮に来なくても、私達はまた必ず出会う。そういう運命だ」
「また随分と自信があるようだね」
 流石に幾分呆れ顔で揶揄するカタギリに、グラハムは自信満々に笑ってみせた。
「当然だ」
 そう言ってグラハムは外へと視線を移した。この広い空の下のどこかにティエリアがいる。そう思うだけでありとあらゆるものに感謝したい気持ちだった。
「それにしても、数々の女性と浮名を流してきた君が、彼ねえ…。いやいや、本当に予測不能の男だね、君は」
 感嘆するようにカタギリが呟くと、振り向いたグラハムが小さく肩を竦めてみせた。
「まあ、君の恋がうまくいくことを祈っているよ」
「それは愚問というものだ」
 不敵に笑ったグラハムは、再び空へと視線を移す。
 この青い空をティエリアも見上げていることを祈りながら。







「―――――グラハム・エーカー。ユニオンMSWATのトップファイター、か……」
 エージェントからの調査報告書を読んだロックオンの視線が厳しさを増した。
「よくもティエリアに手を出しやがって…っ!」
 ロックオンの脳裏にティエリアの首筋につけられたキスマークが浮かんだ。一見髪に隠されて見えないが、ふとした拍子――そう、上を向く仕種をしたときに流れる髪の合間にはっきりと見えるのだ。誰に見せつけるためにつけたのか、その意図が容易に察せられて苛立ちも募る。
「あの野郎…っ!」
 ぎりりっ…と忌々しげに歯を鳴らしたロックオンは、手にした報告書を握り潰した。
 虚空を見つめるロックオンの憎悪に染まったまなざしの先に映るのは、不遜なあの男―――。
「戦場で会ったら、必ず狙い打ってやる…っ!」





     To be continued.