ファースト・コンタクト 01



  ティエリア・アーデは不機嫌だった。
 ユニオン領内でのミッション終了後、すぐにでも宇宙へ還れると思っていたティエリアだったが、機体の調整の為ため、他のマイスター達と嫌いな地上へ足止めされる羽目に陥ってしまった。それならば終了するまでの数日間を快適な空調のホテルの部屋で一人静かに過ごそうとしていたのに、来襲したロックオンに強引に連れ出されてしまった。彼曰く、「仲間内での相互理解と親睦を図るための団体行動は必要不可欠」というティエリアには理解も同意もしたくない理由で。
 そうしてやってきたのがここ――世界的に有名なキャラクターのテーマパークだった。
 園内に流れる頭痛を覚えるほど耳障りで能天気な音楽に子供の嬌声、視界に入れることさえ拒絶反応を示してしまう有象無象の人の群れ、身体を押さえつけられるようで不快な重力、嫌がらせがすぎるほどにめいっぱい降り注ぐ陽光。そのすべてがティエリアの神経をひどく苛立たせていた。
 この不機嫌の元凶のロックオンはといえば、ティエリアを連れて来たのはいいものの、アトラクションに乗せるにはあまりに彼の抵抗が激しかったため早々に諦めたらしい。ティエリアにカフェで休んでいるよう促して、刹那とアレルヤを伴って目的のアトラクションへ向かってしまった。「虫除け」というこれまた意味のわからない言葉で、ティエリアが愛用しているノーフレームの眼鏡を取り上げ、その代わりに顔の半分を覆うほどの大きな黒いサングラスをティエリアにかけさせて。
 一人置いてきぼりにされたティエリアは、席を立って動くのも面倒なので仕方なく座ったままでいたのだが、もちろん機嫌は悪くなる一方だ。それがどん底まで落ちたのは、ウエイターが運んできた紅茶とサンドイッチのせいだった。
 咽喉の渇きと空腹を覚えていたティエリアは、テーブルの上に置かれたカップに手を伸ばし、一口飲んでその不味さに盛大に顔を歪めた。そして一方の見るからにパサパサとしたBLTサンドの方は食指が動くレベルのものではなく、一瞥して早々に視界から排除した。
 最早不機嫌も絶頂に達したティエリアからは剣呑な冷たいオーラが立ち上っていて、明るいはずのカフェの一角をツンドラ状態にしていた。
 仮にもカフェを標榜するのならば、せめてドリンクくらい飲めるレベルのものを置けと、黒いサングラスの下で盛大に眉を顰めながらティエリアは毒吐く。
 こんな不味い物を堂々と客に出す店の神経が信じられない。だが、それにもまして彼を呆れさせたのが、文句一つ言わずにしかも楽しそうに食している周りの人間だった。
 確かにティエリアは食に関してはかなり煩い。養父が並外れた美食家だったために、ティエリアの味覚形成に多大な影響を及ぼしたのだ。とはいえ、ミッションが始まればお世辞にも快適とは言い難い食生活を送ることになるが、それに関して不平不満を言ったことはない。これも大事を成すための試練と思えば耐えられた。しかし、一旦ミッションを離れてしまえば話は別だ。
 ティエリアは、不味いものを食べるくらいならいっそ食べない方を選択する性格の持ち主だった。そんな彼だから、今のこの状況はなにより許し難いのだ。
 もういい加減精神的にも肉体的にも――なにしろ朝食をとる間もなく連れ出されたのだから――我慢の限界に近付いていたティエリアが、一人で先にホテルへ帰ってしまおうと腰を浮かせかけたその時、耳障りな女の罵り声が鼓膜に飛び込んで来た。
 ふと視線を向けると、斜め前のテーブルに一組の男女のカップルが向かい合わせに座っていて、何やら深刻そうな話をしていた。いや、深刻そうなのはこちらに背を向けている女性の方で、彼女は感情が高ぶっているのか肩を小さく震わせていたが、その相手方の男性はといえば、穏やかそうな甘いマスクに苦笑を滲ませていた。
 こんな場所で痴話喧嘩かと冷たい一瞥を送ったティエリアは、今度こそ席を立つと出口へと足を進めた。位置的に先程のテーブルの脇を通らなくてはならないが、完全無視を決め込んで過ぎようとしたその時、ぱしっ…と乾いた音が響いた。思わず立ち止まってしまったティエリアが視線を送ると、そこには立ち上がった女性に頬を平手打ちされた男がいた。
「………」
 予期していなかった展開に動作が止まったままのティエリアは、不覚にも席を去った女性にぶつかられ身体が傾いだ。
「…っ」
 いくら細身の身体とはいえ流石によろめくような無様な醜態は晒さずにすんだが、大きすぎるサングラスは弾みで滑り落ちてしまった。カシャン…と小さな音を立てて床に落ちたサングラスは、こともあろうに平手打ちされた男の足元に転がってゆく。慌てて拾おうと身を屈ませるが、先に伸びてきた手にサングラスは奪われてしまった。
 舌打ちしたい気持ちでティエリアが顔を上げると、そこには苦笑を浮かべた端整な貌があった。
 襟足で綺麗に整えられた少しくせのある金の髪、優美なカーブを描く眉にオリーブグリーンの涼やかな瞳、ノーブルな鼻梁。シャープなラインを描く頬の左側は先程の平手打ちの余波で僅かに赤く腫れていたが、それすらも彼の美貌を損なうものではなかった。その身に纏うダークグレーのスーツも彼にはよく似合っていた。もっとも、こんな場所では少々浮いてはいたが。
「どうぞ」
 太陽神もかくやの容貌に相応しい魅惑的なテノールにサングラスを差し出され、ほんの一瞬呑まれた自身を恥じるかのようにワインレッドの瞳を眇めたティエリアは、短く礼を言ってサングラスを受け取った。
「ありがとうございます」
「いや、礼には及ばないよ。そもそも君にぶつかった彼女が悪いのだし、その彼女を怒らせてしまった私が一番悪い。お詫びにお茶でも奢らせてくれないか?」
 公衆の面前で殴られたことなど露ほども気にした様子もない男から発せられた言葉に、ティエリアは思いっきり眉を顰めた。
「奢っていただく理由がありません。それに、これから店を出るところですから」
 形のよい唇から吐き出された冷たい言葉が意外だったのだろう、男は軽く目を見開いた。しかしすぐに苦笑を浮かべると、自身の左頬に指先を当てながら思わせぶりな視線をティエリアに送ってきた。
「つれないね。この頬が腫れた責任の一端は君にもあるといったら?」
 訝しげな眼差しを向けるティエリアに、男はオリーブグリーンの双眸を愉快そうに眇めて言った。
「ここにきてからずっと君に見惚れてしまっていてね。目ざとい彼女に気付かれて怒られてしまった。つまりは私を虜にした魅力的な君が悪いということになると思うけれど?」
 あまりに一方的でふざけた理由に、ティエリアは柳眉をつり上げた。ワインレッドの瞳に侮蔑の色を浮かべて男を鋭く睨みつける。並みの人間ならばその迫力に気圧されるところだが、男はまったく動じたふうもなく苦笑を浮かべてみせた。
「怖い顔だ。そんなに警戒しなくても、私は怪しい者じゃないから安心してくれていい。でも、美人は怒った貌もまた格別に美しいね。ますます気に入ったよ」
「ふざけないでくださいっ!」
 その言葉に、ただでさえ不機嫌の極みにあったティエリアはカッとなって声を荒げた。それでも怒鳴りつけなかった分理性は働いていたように思えたが、間髪入れず宙を舞った右手が彼の憤りが深いことを物語っている。実際、反射的に手が出たという表現が正しいだろう。常に沈着冷静なティエリアにしては珍しい光景だった。
 振り下ろされた右手は、当然の如く男の頬にヒットするはずだった。ティエリアもそのつもりで手加減などしなかった。しかし、小気味よい音を立てるはずの掌は、男の頬に触れる寸前に手首を掴まれてしまい目的を果たせなかった。
「…っ」
「流石に私でも、二度も殴られるのは勘弁願いたいね。綺麗な貌に似合わず、相当のじゃじゃ馬と見た」
 余裕めいた笑みを浮かべ、手首を拘束する男をティエリアは睨みつけた。ワインレッドの双眸には、捕えられた悔しさと負けることを良しとしない気概が垣間見え、その気の強さに男の笑みも深くなる。
「はな…っ」
 拘束された腕からなんとか逃れようとティエリアが身を捩ったとき。
「……あの、お客様。如何なさいましたか?」
 今まで様子を窺っていたのだろう、ウエイターが恐る恐る声をかけてきた。軽い口論ならまだしも、トラブルに発展しそうだと判断したらしい。
 一瞬で頭の冷えたティエリアは、男のペースに乗せられて醜態を晒してしまった自分に内心舌打ちをした。常に沈着冷静を心がけてきた自分がなんという体たらくだろう。
 ティエリアが軽い自己嫌悪に陥っている間に、男はウエイターの方を振り返って爽やかな笑顔を浮かべて言った。
「ああ、すまない。騒がせてしまったようだね。すぐに失礼するから勘弁してくれないか?」
「いえ。お怪我がなければそれで結構です」
 ウエイターはお定まりの笑顔を浮かべつつ、早く帰ってくれと目で訴えている。それを見たティエリアは、ロクなものを出さないくせに態度だけは尊大なウエイターに眉を顰めた。
「では、一緒に出ようか」
 捕らわれたままだった腕を引かれ、ティエリアはそのまま二、三歩踏み出してしまうが、なんとか踏み止まり引きずられまいと抗ってみせる。
「ちょ…っ、離せ!」
 そんな抵抗など意に返さない男は、掴んだ腕を自分の胸元に引き寄せるとティエリアの耳元で囁いた。
「こんな所で何時までも衆人環視は、きみも望まないだろう?」
 はっとして素早く視線を泳がせると、興味津々の眼差しが四方八方から寄せられていて、ティエリアは不快感に思わず背筋を震わせた。
「どうやら異論はないようだね」
 我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべる男を、ティエリアは忌々しそうに睨みつけた。こんな男の言いなりになるのは悔しいが、確かにこの場は彼に従うべきだろう。
 諦めたように力を抜いたティエリアを促して、男は歩き始めた。後に続いたティエリアは、背中に向けられる多数の好奇の視線に吐き気を堪えるのが精一杯だった。