「………朔の日の犬夜叉って可愛いわよね」
「……はぁ?」
 言葉の意味を捕えかねたのか、ワンテンポ遅れて犬夜叉が素っ頓狂な声を上げた。
「………おれがどんな思いで居るかわかってて言ってんのかよ」
 腕に抱えていた鉄砕牙の柄が突き出され、グリグリと脇腹を押されて身を捩る。
「わ、わかってるわよ! でも、そう言うとこが……なんて言うか、その、可愛いって言うか、守ってあげたい感じがするって言うか……」
 落ち着かない態度だったり、物憂げな表情が、少年らしさを残した面差しと相まって庇護欲を誘うのだと言ったら、犬夜叉は気を悪くするに違いない。
 けれどそれは紛れもない事実で、かごめは手を伸ばして無理矢理犬夜叉の頭部を胸元に抱え込んだ。
「わっ!!」
 普段ならびくともしないだろう身体が、不意打ちに声を上げて倒れ込んでくる。
 腕に絡むのはいつものそれとは違う射干玉の黒髪だ。
 かごめ自身のそれより艶やかで長い、癖のないそれは誰もが羨むだろうそれだったが、それを目にしたことがあるのはかごめを含むほんの数人で。それが嬉しくもあり、勿体無くもある。
「……寝てて良いわよ。ずっとこうしてて上げるから」
 耳元に唇を寄せて、囁く。
「なっ……ね、眠れるかっ! 第一おれは朔の日は眠ったことがねーつってんだろ!」
 じたばたともがく犬夜叉の丸い耳の先はほんのりと赤くなっていて、それがまた可愛いと思いながらかごめはぽんぽんとその背中を叩いた。
「それはあんたが一人だった頃のことでしょ。今は一人じゃないんだから、安心して寝ときなさいよ。寝てた方が時間が経つのも早いじゃない」
「………くそ」
 犬夜叉は暫らく黙り込んでいたが、やがて小さく毒づいてもぞもぞと身体を動かし始めた。
 楽な姿勢を探っているのだと気付いて少しだけ腕の力を緩めてやると、やがて満足がいったらしくその動きが止まった。
 ふーっと大きく息を吐く音がする。
 それを擽ったく思いながら、かごめはもう一度ぎゅうっと腕に力を込めて犬夜叉の頭部を引き寄せた。
 部屋には弥勒に貰ったお札も貼ってあるし、自分も居るのだから早々のことは起こらないはず。
 けれど丸裸にされたような心許なさがあることもわかっている。
 それが少しでも和らぐようにと思ったのだけれど。
 ふにっと何かが胸元で動いてかごめはびたりを動きを止めた。
「い……犬夜叉?」
 動いていたのは、いつの間にか胸元に置かれていた犬夜叉の大きな手だった。
 胸に抱き込んでいた犬夜叉の顔が、擦り寄せるように上下に動く。
「……こんだけ近いと、人間の身体でもよくわかるな」
「な、何が?」
「お前の匂い。いい匂いがする」
「……っ!」
 半ばそこに顔を埋める形となった犬夜叉の表情は昔かごめの部屋で眠る時にだけ見せていたそれと同じ、無防備で幼気とさえ言えるものだったが ――――― その指先は幼気とは程遠い。
 その柔らかさを確かめるだけでなく、探るように動いて袷の中に潜り込もうとする。
「そうじゃなくて、何で胸触ってんの!」
「……お前が押しつけてきたんだろ」
「………っ!!」
 鼻先が、指先を追うように袷を掻き分ける。
「かごめ……」
 何時もはしっとりと濡れたような冷たい感触のそれが、今日はさらりと肌を滑り。犬夜叉が俯いてしまった所為でかごめの視界に入るのは見慣れない黒髪の後ろ頭だけになる。
(……なんか……)
 ――――― 何だか妙に、落ち着かない。
 かかる息も、声も、犬夜叉のものなのに。
 暫らくその手が腰元でごそごそと動いていたかと思うと、弛んだ袷の間に温かく濡れた感触が触れた。
「………きゃぁっ!!」
 その直後、かごめは両手で思い切り、殆ど突き飛ばすような形で犬夜叉の胸を押し返してしまっていた。
「……っ! ばっか、突き飛ばす奴があるか!」
 無理な体制をとっていた所為もあって、床に肘を付いた犬夜叉が抗議の声を上げる。
「だ、だって! なんか、変な感じなんだもんっ!!」
 かごめは真っ赤になって肌蹴た胸元を両手で掻き寄せた。
「……へん?」
 眉を顰めて身体を起こした犬夜叉の問い掛けに、おずおずと頷く。
 かごめはまだこういったことに慣れていない。
 犬夜叉に出会う前は人並みに恋愛に興味を持ちつつもどちらかと言えば勉強優先の真面目な中学生だったし、彼と離れ離れになった高校生時代も一度も、誰とも付き合うには至らなかった。
 異性に告白されたことがなかった訳ではない。
 誰にも、そう言った意味で興味を持つことはできなかったからだ。
 ――――― 犬夜叉以外の、誰にも。
 だから犬夜叉以外との経験はないし、犬夜叉とそう言った関係になってからの日もまだ浅くて、戸惑うことも多い。
 勿論朔の日の犬夜叉とそう言った行為に及んだこともない訳で、顔が見えなくなると何だかとても、落ち着かない気分になって、じっとして居られなかった。
 ――――― まるで知らない誰かの様で、少し怖いと思ってしまった。
「……えっと……」
「………人間のおれは、嫌か?」
 上手く説明できなくて口籠る ――――― と、犬夜叉が低く呟いた。
 ハッとして顔を上げると、どこか傷ついたような眼をした犬夜叉と眼があった。
 月の無い夜の色に似た闇色の瞳が、まるで泣きだしそうなそれに見えて慌てて頭を振る。
「……違っ!!」
「違わねえだろ」
 ふいとそっぽを向いてこちらに背中を向けて足を組んだ犬夜叉の背中。
 その背を流れる髪はいつもと違う色だけど、広くて大きな背中はいつもの犬夜叉のものだ。
 いつも、かごめを背負い、守ってくれた犬夜叉の。
「…………」
 酷く申し訳ないような、胸を突かれるような感覚を覚えてかごめはおずおずとその背中に手を伸ばした。
 一瞬ぴくりと揺れた背中の線を辿り、開いてしまった距離を詰めて逞しい ――――― けれど今はいつもより少し小さく見える背中に頬を寄せる。
「……ごめんね。ちょっとびっくりしただけなの」
「…………」
 囁くと、暫らくの沈黙の後、犬夜叉が僅かに振り向いた。
 傷ついた子供のような拗ねた眼差しに申し訳なさと愛しさが綯い交ぜになって、ぎゅっとその背中にしがみつく。
「……嫌じゃねえのかよ」
「うん。いつもの犬夜叉も、人間の犬夜叉も、同じ犬夜叉だもの」
「…………」
 拗ねた眼を僅かに緩めて振り向いた犬夜叉の、短い爪先に彩られた指が頬に触れる。
 唇に、それが触れて。追うようにして唇が触れてくる。
「ん……」
 ――――― キスも、いつもと少し違う気がする。
 けれど、もう怖いとは思わなかった。
― END ―


 二人だけの月の無い夜の話。今日は朔の日でした〜。
 続きは裏に(笑)
2015.02.19

戻ル。