「………犬夜叉ー!」 遠くかけられた視線を上げると楓の小屋から村へと続く畦道の中程にかごめが居た。 手には何か、風呂敷包みのようなものを抱えている。 高い木の枝に腰を下ろしていた犬夜叉は、立ち上がるととんと足元を蹴って飛び上がった。 ふわりと火鼠の衣の袖をはためかせ、二十間程の距離を一足飛びにして彼女の傍らに着地する ――――― 犬夜叉の素性を知らぬ者であれば仰天の身軽さだが、勿論かごめは慣れっこだった。 「何やってたの?」 ひょいと小首を傾げてそれだけを問う。 「……別に」 「今日は弥勒様と一緒に妖怪退治に行くって言ってなかったっけ?」 「上の子が腹壊したから、暫らく休むってよ」 特に急ぎの依頼があるわけでもなかったので、家族を優先させることにしたらしい。 お陰で犬夜叉はかごめが楓のところにいる間の時間を持て余すことになり、さてどうしたものかと思案していたところだった。 「そっか。そう言えば珊瑚ちゃんが楓ばあちゃんとこに薬貰いにきてたっけ……。弥勒様、子煩悩そうだもんねー」 「……お前は?」 のほほんと笑うかごめの手元の包みに視線を落としながら尋ねると、彼女はそれを掲げてどこか嬉しそうに笑った。 「楓ばあちゃんのお使い。急に産気付いちゃった人が来て手が離せなくなっちゃったもんだから、代わりに呉作さんのところに行くの」 「………」 呉作と言うのはどいつだったか。 あまり他人に興味の無かった犬夜叉は咄嗟に思い出せない。 「村の反対側よ。側に大きな柿木があるおうち。よく七宝ちゃんが柿を分けて貰ってた」 それを察したのか、かごめが眼下に広がる村の奥を指さした。 指された方角に視線を向け、村の奥に七宝気に入りの柿の木があったことを思い出す。 楓の小屋は村の外れ、犬夜叉の森に一番近い居場所にある。 ここからその柿の木の生えた家まではそれなりに距離があったはずだ。 「届けてやる」 そう言って手を差し出すと、彼女は目をぱちくりさせて、それから何だか妙に嬉しそうに笑った。 「だーめ。届け物はこれじゃないの」 風呂敷包みが背中に回る。 さっきはそれを掲げて見せた癖に、一体どう言うことなのか。 首を捻ると彼女はまたくすくすと笑った。 「包帯を変えに行くのよ。これはその道具」 あんたじゃ無理でしょと言われて犬夜叉は僅かに鼻先を顰めた。 その程度のこと、やろうと思えば出来ないわけではない。 だが正直得意だとは言えなかったし、以前程ではないが、かごめや嘗ての仲間以外の人間に触るのもあまり好きではない。 運ぶだけならまだしも、手当のような細かい作業は尚のこと。 それに、それはかごめの領分だ。 彼女がこれから生業にしようとしていることの一貫で、だから自分が手を出すべきではない。 かごめが嬉しそうな顔をしていたのはおそらく、たったそれだけのこととはいえ初めて一人で使いを任せられたからなのだろう。 「……送ってってやる」 「いいの? ありがとう!」 だからせめて。昔よくそうしていたように膝を落として背中を差し出してやるとかごめが嬉しそうに声を上げた。 温かく柔らかな重みが背中に圧し掛かり、ふわりと柔らかな髪が肩を擽る。 「えへへー」 ひょいと背中に背負い上げると緋袴に包まれた足先がぱたぱたと揺れた。 「?」 やけに嬉しそうなのが気になって振り向こうとすると、ほてっと肩に頭がのっかってきた。 「犬夜叉の背中、久し振りだから」 「……あぁ」 そう言えばそうだったか。 かごめが戦国時代に戻ってきてから一月余り。生活の基盤を整えるのにかかりっきりで共に遠出をするような機会もなく、当然かごめを背に乗せて出歩くようなこともなかった。 それでもかごめはここでの生活に少しづつ慣れ始め、犬夜叉も徐々に自分の家があり陽が落ちるとそこに帰ると言う生活に慣れつつあって、ようやく少し余裕が出てきたように思う。 「………乗りたきゃいつでも乗せてやらぁ」 急に照れくさくなって、犬夜叉は聞こえるか聞こえないかの声で小さく零すと足元を蹴って走り出した。 それなりの速度は出ているはずなのだが、背中のかごめは慣れたもので悲鳴を上げる気配さえない。 (……否、最初からこいつはおれの背中で悲鳴を上げた事なんかなかった) まだ知り合ったばかりの頃から、彼女は犬夜叉に振り落とされる心配など微塵もしていなかったように思う。 どうしてそんなに簡単に人 ――――― 人でさえない存在を信じてしまえるのかその時は分からなかったが、今はそれがかごめなのだと思う。 「 ――――― の匂いがする……」 風を切る音に混ざって、彼女が何か小さく呟くのが聞こえた。 「今なん……」 背中に顔を押し付けている所為かくぐもった声でよくは聞こえなかったのだが、確かに拾ったそれが気になって首を後ろに向けようとした途端、彼女がぱっと顔を上げた。 「あ、ここよ、ここ! 犬夜叉、止まって!」 「……そういや昼間、何の匂いつったんだ?」 夕餉を終えて、片付けをするかごめの背中を見ていたらふっと昼間のことを思い出した。 呉作の家の前では子供達が遊んでいて、犬夜叉とかごめを見るなりきゃあきゃあと騒ぎながら駆け寄ってきた。 それで結局彼女が何と言ったのか、聞きそびれたままになってしまっていたのだ。 かごめは一瞬なんのことだからわからなかったようだが、すぐに「あぁ」と笑うと手にした布巾を置いて囲炉裏の傍へと戻ってきた。 犬夜叉の隣に腰を下ろして、とんと肩に頭を寄せてくる。 「犬夜叉の匂いがするなーって思ったの」 どこかうっとりとした声音だった。 ふわりと口元が弧を描く。 「……おれの匂い?」 そう言われて初めて気が付いた。 常に付き纏う己の匂いなど気にしたこともなかったが、神無のような例外を除けば大抵の人や妖怪には匂いがあるもので、犬夜叉もその例外ではないだろう。 (そういや鋼牙の野郎、さんざん犬臭ぇっていってやがったな……って、まさか……) かごめの様子からするに嫌な匂いではなさそうだが、犬臭いとか思われてたらどうしよう。 自分から犬の匂いがするとしたらそれは仕方がないことかもしれないが、ちょっと傷付くかもしれない。 人と違って生理現象は少ないはずだし、最近は血の匂いもさせていないはずだ。 ぐるぐると考え込んでいたら、すぐ横でぷっと小さく噴き出す声がした。 「ふふっ、すっごい混乱してるでしょ、今」 「っ……」 ――――― 図星である。 怯む犬夜叉に、彼女はクスクスと笑った。 「犬夜叉の匂いはねぇ、例えるなら森の匂いかな」 「……森の匂い?」 「そ。お日様と緑と、土の匂い。すごーくほっとするの」 「…………」 それはつまり、犬夜叉がいつも森に居たから匂いが移ったと言うことではないかと思ったのだが、見下ろした先で彼女が酷く穏やかな表情で眼を閉じていたので何も言えなくなった。 ――――― 彼女がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。 否、そうでなかったとしても、彼女がそう感じるのならそれでいい。 「…………犬夜叉?」 急に黙り込んでしまった犬夜叉を不思議に思って瞼を上げると、酷く優しい金色の眼が見下ろしてきていた。 それに胸の奥が締め付けられるような感覚を覚える ――――― 酷く、幸せだと思う。 もっと犬夜叉の存在を近くに感じたくて、かごめは少しだけ開いていた距離を詰めて犬夜叉の広い胸に顔を寄せた。 自然と犬夜叉の手が背中に回って、引き寄せられる。 犬夜叉のような嗅覚はないけれど、そうすると確かに彼の匂いを感じる。 犬夜叉の匂いは栄養をたっぷり含んだ土の仄かに甘い匂いと、瑞々しい緑の匂い。 それらが陽に暖められ香るそれに似た、酷く優しくて温かな匂いだ。 最初それに気付いた時は気の短い乱暴者の癖に意外だと思って、けれどすぐにやっぱり犬夜叉らしい匂いだと思った。 不器用な殻の内側の、本当は優しい犬夜叉にぴったりの匂いだと思った。 ――――― 犬夜叉に言ったら否定されそうだから、そのことは一生秘密にしておこうと思う。 ― END ―
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かごめちゃんの匂いの話……ではなく裏を書いて犬夜叉の匂い話でした(笑)。 かごめちゃんが戦国時代に帰ってきて住むところを手配したり諸々忙しかった時期をちょっと過ぎたぐらいのイメージで…… 個人的に、犬夜叉は森の匂いがすると思ってます。 現実的な話をするとよく木の上にいるし、枝や葉っぱ折って緑の匂いさせてそうだし裸足でうろうろしてるので土の匂いもさせてそうだしとかゴニョゴニョ……。 序盤は心の狭いイメージでしたが(笑)、犬夜叉は最終的には森の様に包容力のある男になったと……! と言う訳でやっぱり個人的なイメージは森なのです。 |