「かごめ、行くぞ」
 夜も更けて、双子ちゃん達が眠気を訴えて愚図りはじめた頃、すっかり夫婦然とした雰囲気を身に纏う弥勒と珊瑚と三人の子供達は楓の小屋を後にした。
 色々な思いを抱いていた二人だから、無事夫婦になって、たくさんの子供に囲まれて幸せそうにしている様子を眼にするのは ――――― 3年という月日に対して想像していたより多かったが ――――― 感慨深いものがある。
 ほぅっと溜息のように息を吐いたところで降ってきたのが冒頭の台詞だった。
 驚いて隣を見ると、いつの間にか立ち上がっていた犬夜叉がこちらに手を差し伸べている。
 かごめのそれより一回り大きな、鋭い爪のついた、けれど優しい手。
(……え?)
 けれどその意味することがわからず眼を瞬かせていると、焦れたようにそれがいっそう突き出される。
「ほら」
「……どっか行くの?」
 今日は楓の小屋に泊めて貰うことになっていたはずで、てっきり犬夜叉もここに残ると思っていたのだが。
「散歩だよ、散歩!」
 照れ隠しなのか、妙に強い口調で告げられて頬が緩む。
 みんなと居るのは楽しい。
 けれど犬夜叉と二人でゆっくり話したい気持ちもあって、相手も同じような気持ちを抱いてくれているのだと思うと嬉しかった。
「楓ばあちゃん、私、ちょっと行ってくるわね」
「春の夜は冷える、あまり長居をさせるなよ」
 立ち上がり犬夜叉の手を取ろうとすると、楓はかごめではなく犬夜叉に向かってそう言った。
 ふんと鼻を鳴らすような音がして、次の瞬間、視界が懐かしい朱の色に染まる。
(あ……)
 バサリと降りかかってきたのは、緋色の衣。
 反射的に受け止めると懐かしい温もりが伝わってきて、胸の奥が締め付けられるような感覚がした。
「羽織ってろ」
「うん、ありがと! じゃあちょっと出てくるわね」
 ぶっきらぼうな物言いさえ懐かしくて嬉しくて、鼻の奥がつんとする。
 言われるままにそれを肩に羽織り、かごめは楓に一声かけて先に立って歩きだした犬夜叉の後を追った。


 楓の小屋を出て少し歩いたところで、犬夜叉が足を止めてかごめを振り返る。
「……乗れよ」
 かごめが乗りやすいようにと膝を落として向けられた背中に、かごめは躊躇なく飛び込んだ。
 楓はあまり長居をするなと言っていたが、犬夜叉の足なら大抵の距離は瞬く間だ。
 犬夜叉が連れて行きたいところがあるというのなら、かごめに否はなかった。
 記憶のままの広い背中に頬を押し当てると一瞬背中が震えたような気がしたけれど、懐かしさに胸がいっぱいになってそれに頓着する余裕はなかった。
「掴まってろよ」
「うん」
 短く言葉を交わして、犬夜叉の背中にしっかと掴まるとふわりと浮遊感にも似た感覚が身を包んだ。
 冷たい風が音を立てて髪を揺らし、後ろへと過ぎ去っていく。
 辺りは殆ど闇に沈んでかごめの眼には何も捕らえられなかったが、頬を撫でる風が犬夜叉が人にあらざるスピードで地を蹴っていることを教えてくれている。
 やがて、村外れの高台と思しき辺りで犬夜叉は足を止めた。
 開けた丘は夜でも皓々と光る柔らかな月明かりと星の明かりに照らされて僅かに明るい。
 地を照らす灯りこそ無いものの、現代と違って空気が澄んでいるからだろう。
 足を止めた犬夜叉に無言で促されて、かごめはその背中から滑り降りた。
 殆ど密着していた身体が離れるとひやりとした空気が間に差し込んで、かごめはふるりと身体を震わせた。
「寒いか?」
 それに目敏とく気付いて声をかけてきた少年に笑みを返す。
「ううん。大丈夫。犬夜叉が衣を貸してくれたから」
 それを聞いて、犬夜叉はあからさまにほっとした表情を浮かべた。
 不器用で優しい仕草が愛しくて胸が詰まる。
 照れたようなその横顔を見上げていたら、ぐいと腕を引かれてその場に座り込んだ犬夜叉の隣に腰を下ろさせられた。
「きゃっ!」
 ぐいと肩を引き寄せられて、あまり大きくはない、けれど逞しい肩に頭を乗せる形になる。
「……犬夜叉?」
 ぐうっと更に引き寄せられて、隣に並んでいることさえ出来なくなって、腕に巻き込まれるように犬夜叉の胸に引き寄せられてそこに顔を押しつける形になった。
「い、犬夜叉? ちょっと苦しい……苦しいから!!」
 懸命に訴えると僅かに腕が緩んだが、密着した距離は変わらない。
「……っと、こうしたかった」
 耳元で小さく、独白じみた聞き取り辛い声が漏れた。
 獣じみた仕草で頭が上下して擦り寄せられる。
(………甘えてる)
 擽ったくてちょっと恥ずかしい。
 でも、それ以上に嬉しくて、どうにか互いの身体の間から抜いた手でその背を抱き返すと、ぴくんと小さく尖った犬耳が動いて犬夜叉の動きが止まった。
 擦り寄ったままの姿勢から、ぎゅぅっと ――――― 先程と違って苦しくないように加減はしてくれているようだが ――――― 抱き締められる。
「 ――――― きだ」
 低く掠れた声が耳朶を擽って。
 かごめは溢れそうになる涙を堪えて唯一自由になる腕で犬夜叉の背中を抱き返した。
「……私も好きよ、犬夜叉」
 それまで生きてきた世界と、大切な家族と、それら全てと引き替えにしても良いと、そう思えた程に。
 そう思えるまでに3年もかかってしまったけれど、だからこそこの気持ちは本物だと思える。
 一過性の情熱などではなく、自分自身がよく考えて選びとった結果なのだと。
「ずっと側に居るから、犬夜叉もずっと側にいてね」
「あぁ……」
 こくんと頭が上下に動く。
 確かな温もりに包まれて、かごめはゆっくりを瞼を伏せた。


(……で、いつまでこの格好でいれば良いのかしら)
 どれだけ時間が経ったのか、最初の波が去っていったらだんだん恥ずかしくなってきた。
 犬夜叉は何も言わないし、動かない。
 まるで石にでもなってしまったかのようだ。
 温かな腕は身体に回されたままで、心地よい温もりが仄かな眠気を誘う。
「……あの……犬夜叉?」
 犬夜叉の背中を抱いていた腕を緩めて、ちょいちょいと背中を覆う白銀の髪を引っ張ってみる。
 五月蠅そうに頭が振られて、上げられた顔に ――――― 眼にどきりとした。
 琥珀色の瞳がどこかとろりとした光沢を放っているように見えたから。
「い、いぬや……」
 遮る間もなく、僅かな距離が詰められて。
 次の瞬間、温かなものに唇を塞がれていた。
(あ……)
 ぐいと押しつけられた柔らかな感触。
 その向こう側にある固いものは鋭い犬歯だろうか。
 髪を引いていた手に無意識に力を込めながら、ぼんやりとそんなことを考える。
 暫らくするとそれが離れて、はぁっと熱っぽい息が漏れた。
「い、犬や……ひゃっ!!」
 頬に温かく濡れた感触が触れて。それが何なのか理解するまでに、数秒の時間を要した。
(な、な、舐めっ……)
 舐められたー!と声を上げるより早く、もう一度唇が頬に触れた。
 瞼に、鼻先に、眉間に、押し当てられては離れていく感触に自然と鼓動が跳ねる。
(こ、これって、えーと、まさか……)
 されるがままに顔中を舐められたり触られたりしながら、考える。
 これはひょっとして、そう言うこと、なんだろうか。
 犬夜叉のことは好きだし、一生沿い遂げるつもりでこの時代に来た。
 だから犬夜叉とそう言う関係になるのは吝かではない、と言うより、むしろ何時かはと言う気持ちも覚悟もある。
 しかしこれはあまりに、性急過ぎはしないだろうか。
 大きな掌で、頬を愛し気に包まれる。
 鋭い爪の付いた指先は、けれど限りなく優しい。
 見下ろしてくる琥珀の瞳は熱を帯びて、それに見惚れていたらもう一度唇が重なった。
「っ……」
 唇をぞろりと舐め上げられて、そこが戦慄く。
 何度も触れて、懇願するような動きにおずおずと引き結んでいた其処から力を抜くと、熱を帯びたものが滑り込んできた。
 唇の、内側を舐められる。
 歯列を辿られ、舌の付け根を擽られ、浮いた舌先が絡め取られ。
 ぞくぞくと覚えのない感覚が背中を這い上がって、かごめは慌てて胸元で縮こまっていた左手で犬夜叉の胸を押した。
「んっ……んんっ!!」
 見た目よりもずっと頑強な犬夜叉の身体はびくりとも動かなかったが、あえかな抵抗を察して、酷く名残惜しそうな仕草で口付けが解かれる。
「は……」
 銀糸を引いて離れて行くそれに、口付けられていた時以上の羞恥が襲ってかごめの頬が真っ赤に染まった。
「なっ……あ、あんた、こんなこと、どこで覚えたのよ!」
 じんじんと舌先が痺れて僅かに舌っ足らずになりながらも声を上げると、どこか夢見るようだった犬夜叉の表情がぐっと険しくなった。
 何を言い出すのかと身構えたところに、もう一度口付けが落ちてくる。
 今度は噛みつくように。
「きゃっ! ん、んんっ……」
 絡めた舌先を引きずり出され、噛みつかれて小さく悲鳴を上げる。
 先程よりもずっと激しくて、深い。
 身体の奥がきゅぅっと収縮するような官能的なキスだった。
 求められている、と言う確かな快感と同時に胸の奥がチクチクする。
(こんな犬夜叉、あたし、知らない……)
 息苦しさに、溺れそうになる。
 胸元を押していたはずの手でぎゅっと相手の胸元を握り締め、懸命に湧き上がる何かを堪えていたら、始まった時と同じように唐突に結合が解かれた。
 飲みきれなかった唾液が顎を伝い落ちるのをべろりと舐め取られる。
「っ……」
 肩で息をするかごめの頬に手を当て顔を上げさせた犬夜叉の眼は艶めいてはいたが、状況に流されてのことではないことを示すかのようにクリアだった。
「……誰かに教わったわけじゃねえ。おれがしたかったからしたんだ。文句あっかよ」
「なっか……あ、あんた、言ってることムチャクチャよ!?」
「どこがでい」
 唇がへの字に結ばれて、そうするとまるで不貞腐れた子供のようなのに、月明かりにうっすらと唇が濡れて見えるのは先程の深すぎる口付けの名残なのだ。
 そのアンバランスさに目眩がした。
(………でも、嫌じゃなかったわ)
 苦しくて、意識が飛んでしまいそうになったけれど、むしろ ――――― 。
「っ……」
 ぶわっと頭に血が上った。
 今、自分は何を考えたろう。
(きゃー! きゃー! きゃー!!)
 赤くなった顔を押さえて内心で悲鳴を上げていたら、ぐっと顔が近付いてきて、額がくっつかんばかりの距離から瞳を覗き込まれた。
「……嫌だったか?」
 黒と、白銀の髪が混じりあう。
 先程までの強引さと打って変わった、捨てられた子犬のような眼に、かごめはうっと唸り声を上げた。
「………あんた、ずるい」
「……?」
 やっとの頃で絞り出した声に、犬夜叉は訝し気に首を捻る。
 その仕草に他意は見えない ――――― 否、そもそも彼は嘘を付いたり誤魔化したりができない性分だ。
(………素、なのよね)
 そう考えると、なんだか何もかも仕方がないような気がして。
 かごめは口元に笑みを浮かべると犬夜叉の肩を覆う白銀の髪を掻き分け、その項に腕を回した。
「……嫌じゃないわよ。あたし、犬夜叉のこと好きだもの」
― END ―


三年後の春設定。柔らかな春の月灯りの下で。
大した描写はありませんが少々しつこい(……)のでR-15かも……。
2014.09.13

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