(………暑い……)
 腹の横辺りに何か温かいものが置かれていて、その所為で身体がじっとり汗ばんでいる。
 否、汗ばんでいるのはその所為ばかりではない。
 暑い癖に寒い、そんな奇妙な感覚に囚われているのはルークが発熱しているからだ。
 ぼんやりと寝入る前のことを思い出して、ルークは重い瞼を瞬いた。
 明かりの落ちた室内の、灰色の天井が視界に入る。
 インフルエンザと診断され、とにかく栄養を取って寝なさいと母の主治医にベッドに押し込まれたのは数時間前のことだ。
 けれど特に何かホッカイロであったり電気行火であったりを持ち込んだ記憶はない。
 と言うか、そもそも寝る時にそういうものを使ったことがない。
 なら誰かが湯たんぽか何かを突っ込んだのだろうか。
 電気や石油を使うものは空気が乾燥して身体に良くない、自然に近いものの方が身体に負担がかからないと母が愛用していた気がする。
「……ッ!?」
 そんなことを考えながら、とにかくそれを押し退けようと伸ばした手に触れたのは、予想外のぐにゃりとした感触だった。
 ――――― ぐんにゃりとして生温かくて、毛深い。
 おそるおそる布団を捲ると、脇腹にぴったりくっつくようにして白っぽいものが丸くなってた。
 全体は白く、鼻の前に揃えられた足先や耳の先だけは黒っぽい。
「………お前かよ」
 とどのつまり、それは猫だった。
 思わず漏れた声に目を覚ましたのか、それとも最初から眠ってなどいなかったのか、少しだけ顔を上げてにゃぁと鳴く。
 そうして彼女は、そのままもう一度、ルークに寄り添うように丸くなった。
 普段はツレない母の愛猫も、どうやら今日ばかりは違うらしかった。


 ――――― 二日後。
 枕元においてあった体温計で熱を測るとほぼ平熱まで下がっていた。
 万が一にも母にうつさないよう家族全員予防接種を受けていたのだが、それが功を奏したらしい。
 罹ってしまえば意味がないとも思えるが、熱が早く下がってくれるのはいいことだ。
 熱が下がったのを察してか、猫の気配は既にない。
「………現金なヤツ」
 ひょっとして暖を取りたかっただけなのかと思うと少し寂しいが何時ものことだ。
 ついでに父親も何時も通りだった。
 即ち無関心。正直息子の体調不良を把握していたかどうかも怪しい。
 母は盛大に心配して世話を焼こうとしてくれたのだが、うつったら大変だと主治医に言い含められて自室に引き摺り戻されていた。
 双子の兄は「うつすな、近付くな」といって冷えピタシートの箱を投げつけてきた。
 心配しているのかいないのか、イマイチわかりにくい。
 とは言え受験生の彼女を持つ身だ、インフルエンザを貰いたくない気持ちは人一倍だろう。
 ルークだとてアッシュにはともかくナタリアにうつして受験生の貴重な勉強時間を奪いたくないので大人しく冷えピタとスポーツドリンクを枕元に部屋に篭ることにした。
 後は家政婦が運んできてくれる病人食を食べて寝てをひたすら繰り返す、と言うのが何事も身体の弱い母を中心に動いているファブレ家の定番だ。
 もっと幼い頃は臨時のベビーシッターが来てくれたし、大抵アッシュと二人揃って同じ病気に罹ったものだったが、中学に上がる頃には別行動が増えてそんなこともなくなった。
 もともと外見以外はあまりに似ていない双子だったから、いつかはそうなるだろうと思っていたし、一緒に居たところでたった五分かそこら早く生まれただけで兄貴面されるばかりなので普段は大して思うところもないのだが、弱っている時は少し寂しくもある。
 幼い頃のアッシュは体調が悪くても我慢する子供で、対するルークはありのままに不調を訴えてぐずる子供だった。
 けれどベビーシッターの手を煩わせていたのがルークばかりかと言えばそうでもない。
 なにせアッシュは我慢に我慢を重ねて限界を超えて症状を悪化させるタイプだったからだ。
(………そんでナタリアが泣くんだよな……)
 ぼんやりとそんなことを考えながらうとうとしていたら、枕元に置いてあった携帯から耳慣れた短いメロディが流れてきた。
 身体を起こすのが億劫で、見舞いのメールかなにかだろうかと思いながら手探りで引き寄せたそれの外部ディスプレイに並んだ文字に目を瞬く。
 ――――― ティア。
 小さく口の中だけで呟いて、ルークは二つ折りの携帯電話を開くとメッセージの全文を呼び出した。
『インフルエンザで休んでいるって聞いたけど、大丈夫?』
 彼女らしい、飾り気のない簡潔なメッセージに自然と口元が綻ぶ。
 ナタリアや友人達からのメールには世間一般的に癒し系と言われる可愛らしいキャラクターがくっついていたり、ちかちかする華やかな背景で薬のマークが踊っていたりした。
 それに比べれば随分と殺風景で、下手をすると手を抜いているようにさえ見えてしまうかもしれないけれど、それなりに付き合いの長いルークはそうではないことを知っている。
 ティアはとにかく真面目で不器用だ。
 可愛いデコメを落としてきてもそれをどう言う時に使えば良いのかわからないと零していたことがあった。
(……そういやティアに何にも言ってなかったよな)
 殆ど毎朝のように犬のルークの散歩とジョギングでかちあっていたのにここ数日姿を現さなかったから心配してくれていたのかもしれない。
 返事は元気になってから纏めて打とうと思っていたのに、自然と手が動いていた。
『もう熱は下がったし、大丈夫。散歩、手伝うって言ってたのに、ごめん m(--)m』
 謝罪のマークを付け加えて、送信する。
 程なくして再びメールの着信音が響いた。
『もし迷惑でなかったら、お見舞いに行ってもいい?』
 ――――― ちょっと嬉しい。
 そう思ったけれど、人にうつすわけにはいかないので手早く返事を打つ。
『うつったら困るし、止めとけよ』
『先月罹ったから大丈夫だと思うわ。まだ身体が辛いのならやめておくけれど』
 そう言えば先月、彼女が三日ほど散歩を休んだことがあった。
 体調不良で出られそうにないから散歩は兄に代わってもらうとメールをもらったことは覚えていたが、その後、大雪で更に三日ほど会えなくて、次にあった時にはすっかり元気になっていたから忘れていた。
「……そっか、インフルエンザだったのか……」
 自然と漏れた声はいつもより少し掠れている。
 けれど熱は下がったし、身体もそれ程重くはない。
 感染の都合上あと二日は学校を休まなければならないがうつらないのなら問題はない、ような気がする。
「………………」


「ローズさん! 寝間着、新しいの乾いてる? あとシャワー浴びたいんだけど今入れる!?」
「寝間着は乾いてますけど、なんでまた急に……シャワーは駄目ですよ、身体が冷えちまうじゃないですか」
 ばたばたと足音も荒く階段を駆け下りてきたルークに捲くし立てられ、洗濯物を畳んでいた家政婦のローズは眼を瞬いた。
「あとダンボール箱ある!?」
「突然何を言い出すんですか!」
 大人しく眠っているとばかり思っていたのにいったい何があったと言うのか。
「見舞い! 友達が見舞いに来るって言うから部屋片付けねえと……」
 呆れた声に返ってきたのは予想外の台詞だった。
「断らなかったんですか?」
「インフルエンザはもうやったからうつんねーって」
 訝しく思いながらも畳んだばかりの寝間着を渡してやるとルークは小さく例を言ってそれを受け取ると洗面所の方へと走っていく。
「シャワーは駄目ですよ!」
「わーってる、着替えるだけだからっ!」
 成る程とは思ったものの、身体の弱い実母に代わり長く二人の面倒を見てきた身としては黙って見過ごすわけには行かず、叱る様に声を上げた ――――― ところで、その足下にぬっと何かが差し出されて。
 足下をろくに見ていなかったルークは見事にそれにひっかって前のめりに倒れ込んだ。
「ぶっ! ぐぇッ!!」
 毛足の長い絨毯に顔から突っ込んで、潰れた蛙よろしく平たくなったその背中にどんっと堅いスリッパの底が乗せられる。
「………大人しく見舞われることができねぇなら見舞いなんぞ断りやがれッ!!」
 衝撃と重みに動けなくなったルークの耳に聞き慣れた怒声が降ってきた。
「……アッシュ、その日本語、なんか変」
 と、言うかなんで病人なのに踏まれてるんだろう俺。と思ったがそんな常識が通用する相手ではない。
 ルークに足を引っ掛けたのも当然アッシュである。
「うるせぇ。おい、運ぶから手伝ってくれ」
「あ、はい」
 洗濯物の駕篭を置いてエプロンで手を拭き吹きローズが歩み寄ってくる。
「……え、ちょ、立てる、自分で歩けるから、あだだだだッ」
 ルークはそのまま、二人がかりで軽く引き摺られながら自室へと強制連行されることとなった。
 ――――― 多分に自業自得である。


「……話は分かった。仕方ねぇ、協力してやる」
 再度ベッドに押し込まれたルークの枕元で偉そうに腕を組んだ男の口から飛び出したのは全く予想外の台詞だった。
「………へ、マジ?」
 何故そんな無理をするのかとローズさんに問われ、隣で聞いているアッシュに普段からちゃんとしていないからだと怒鳴られることを承知で不承不承理由を告げたのだが、ちょっとこの展開は予想していなかった。
「それじゃ私は新しい寝間着を取ってきますね。坊ちゃんはちゃんと寝といてくださいよ」
 よっこらしょと立ち上がったローズと共に部屋を出たアッシュは暫くして彼女に用意してもらったのだろう、大きめの段ボールを手に戻ってきた。
「言っておくがその辺に散らばってるものを段ボール箱に詰めてやるだけだからな。一つ貸しだぞ」
 てきぱきと乱雑に置かれた鞄であったり雑誌であったり放り込んでいく姿を目にしてもまだ信じられず呆然としていると、べしっとその雑誌で頭を叩かれた。
「呆けてんじゃねぇ。面倒だがようやく開花した弟の情緒を応援してやるのは兄貴の努めだからな」
「………は?」
 意味がわからない、と言った表情を浮かべるルークにアッシュは眉間の皺を深くする。
「……なんだ、自覚がないのか」
「………自覚って、何の?」
 同じ顔をしているはずなのに、やっぱり随分印象が違うななんてぼんやりと考える。
「他の見舞いは全部断った、でもその女には来て欲しいんだろう?」
「………それは、ティアがもうインフルエンザやったっつーから……」
 もううつる心配はないと思っただけで、うつる可能性があるなら幾らティアだって断っている ――――― そんな風に考えること自体、特別なことだと言うことにルークは気付かないでいる。
「そもそも最近口を開けばその女のことばかりじゃねえか」
 口篭るルークに、アッシュは呆れたように吐き捨てた。
「………ナタリア厨のアッシュに言われたくねぇ、ってェ!」
 そうだっただろうかと思いながらも反射的に呟けばもう一度、今度は辞書の角が降ってくる。
 相当力が入っていたらしく、マジで痛い。
「……そういえばナタリアさん以外の女の子が一人で遊びに来るのは初めてですしねぇ」
「え……そう、だっけ? ガキの頃、クラスのヤツらとか……」
 どこまで聞いていたのか、先程アッシュに踏まれた際に落とした寝間着を拾って戻ってきたローズがそんなことを言うものだから、ルークは混乱しながらもどうにか子供の頃に何度か友人達が遊びに来たときのことを思い返そうとする。
 確かその中に女子も何人かいたはずだ。
「お一人で来られたことはありませんよ。奥様のこともありますし、大抵断っちまうじゃないですか」
「………………」
 そういえばそう、だったかもしれない。
「………よし、あとはこれだけだな」
 そう言ってあらかたのものを段ボール箱に詰めたアッシュはベッドの下に手を入れるとずるりと大き目のクラフトの紙袋を引き摺りだした。
「…………って、なんでそこにあるって知ってんだよ!」
 呆然としていたルークの顔に血の気が昇る。
 一番持ち出して欲しい、隠して欲しいものではあったが余り表に出したくないものでも有る。
 ましてやローズもいるのにと慌てて身体でそれを隠そうとしたルークだったが。
「大丈夫ですよ、今更です。ベッドの下まで掃除してますから」
 ――――― さらりと告げられて見事に撃沈した。
 中身は当然、思春期の少年なら誰もが隠し持っていると言うアレだ。
「知られたくないならもっとわかりにくいところに隠せ。何なら置いていってやっても良いんだぞ」
「…………お願いします」
 なんだかどっと疲れたような気分になりながら、ルークは改めて布団に突っ伏した。
「じゃあ俺は行くからな。治ったら引取りに来い」
「………サンキュ」
 アッシュが立ち上がる気配がする。
 同時にダンボール箱を持ち上げたのだろう、がさがさと紙類の擦れ合う音がした。
「それじゃ私も夕食の下拵えがありますんで。あとでお茶を持ってきますね」
「……アリガトウゴザイマス」
 そのまま二人が出て行った後も、ルークは暫く動くことが出来なかった。
 ごろりと転がって身体を返すと収納付きのヘッドボードの上に置かれた洗い立ての寝間着が視界に入る。
 せめて着替えておきたいと思ったけれど、色んな意味で衝撃的すぎて動けない。
(…………俺が、ティアのことを、好き……)
 口の中だけで小さく呟くとじわりと耳が熱くなった。
(………確かに犬のルークのことも好きだけど、それだけじゃなくて……)
 彼女と居るのが楽しいのだ、と気付いてしまった。
 自覚した途端、急に恥ずかしくなってどんどん顔も熱くなって、下がったはずの熱がぶり返してきそうになって咄嗟に頭から布団を被って丸くなる。
(……つーか、どんな顔して会えっつーの……)
 これから尋ねてくる彼女に、どんな顔で会えば良いのかさっぱりわからなかった。

― END ―
 

 当初考えていた話と少し違ってしまったような……書ききれなかったエピソードはまた後日別な形で使いたいと思ってます。
 と言うかこのシリーズは短めのをたくさんのつもりだったのにやたらと長く……><

 アビスのキャラでこう言う立ち位置の人いたっけなー……と考えたら家政婦さんは肝っ玉母さんなローズさんになりました(笑)。
 ……グレられませんね、きっと。
2011.02.08

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