ティアは、仕事でバチカルを訪れる際はなるべくファブレ侯爵邸に立ち寄るようにしている。
 神託の盾騎士団の幹部を務める祖父の秘書官と言う仕事柄、バチカルに足を運ぶことは多いのだが、出先で自由な時間を持てることは少ない。
 それでも時間の許す限りなるべくルークの屋敷に足を運ぼうとする一番の理由は、そうしなければルークが拗ねるからで ――――― 曰く、折角バチカルに来ているのに、とのことだ ――――― 二番目の理由は、ティア自身がそうしたいと思うからだ。
 始めの頃はそれなりに時間が取れる日だけ立ち寄っていたのだが、顔を見られるだけで嬉しいのだと言われてそう言うものかと思い直したのが切欠となった。
 酷い時は屋敷から港まで送ってもらうだけで、一緒に居られるのは僅か半時程度と言うこともあったけれど、それでもいいと笑うルークに次第に感化されて、何時の間にかそれが当たり前になって、気が付くとティア自身もルークの顔を見なければ落ち着かない様になってしまった。
 その変化はティアに、面映いような、擽ったいような感覚を与えてくれた。
 教会を出て顔見知りになった上層行きの天空客車の衛兵に軽く会釈をして客車に乗り込む。
 カラカラと滑車の回る音を聞きながら眼下を見下ろせば、オールドラントで1、2を争う大都市、バチカルの全体を一望することができた。
 建物の壁や屋根の色、軒先に下げられた洗濯物の色、行き交う人々。
 眼を凝らさなければわからないような変化ではあるが、何度見てもいつもどこかが違っていて、見飽きることなどない。
(高所恐怖性の人は上の層には住めないわね、きっと……)
 そんなことを考えながら、ティアは終点 ――――― 王城もある、最上層へと辿りついた天空客車を降りた。
 バチカル城の前の広い公園を抜ければファブレ侯爵邸はもう目と鼻の先だ。
 これまた顔見知りになった白光騎士団の門衛が礼を取るのにも会釈を返して、大きな観音開きの扉をくぐる。
 事前に来訪を告げておいたのでルークが玄関で落ち着かない様子で待ち構えているのではと思っていたのだが ――――― 大抵そうだったからだ ――――― そこに彼の姿はなかった。
 両脇控えたメイドに深く頭を垂れて迎え入れられ、反射的に軽く会釈を返しつつ、勝手知ったるなんとやらで執事のラムダスに軽い断りを入れてルークの部屋へと足を向ける。
 ラムダスの話では急ぎの仕事があったのでおそらくまだ自室にいるのだろうと言うことだった。
 急ぎの仕事で部屋を離れることができないことや、時間を忘れてしまうのはよくあることだ。
 ルークはあれで案外集中力が高いし、それはティアにとっても好ましいところだった。
 日当たりのいい中庭に建てられた離れがルークの部屋だ。
 元々子供部屋として作られた ――――― 大人になることは想定されていなかった ――――― ので、あまり広くはなくて。何れは邸内に執務室を作ろうという話になっている。
 扉をノックしても返事はなくて、けれど扉には鍵がかかっていなかった。
 それを確認して、そっと室内に身体を滑り込ませる。
 集中しているのなら邪魔をしたくはなかったし、忘れていたのなら驚かせてしまおう。
 そんな、悪戯心が働いてのことだった。
(……あら……)
 ――――― ルークは、机の上に突っ伏してすやすやと小さな寝息を立てていた。
「…………」
 少し考えて、音を立ててしまわないように静かに歩み寄って、そうっと顔を覗き込む。
 麗らかな昼下がりの日差しに照らされて、ふにゃりと口元を緩めたどこか幼い表情に、自然とティアの口元も綻んでいた。
「……ふふ、かーわいい……」
 思わず声が漏れてしまったのは、それがあまりにも幸せそうな表情だったからだ。
 最近では大人びた表情をすることが増えて、子供じみた印象はだいぶ薄れたが、こうしてみると随分と幼い。
 頬のラインは鋭さを増して、鼻も目もいくらかすっきりとした印象になったのだが、その瞼が閉じられているせいもあるのかもしれない。
 それよりも何よりも、その面差しにあの旅の最中に何度も見たことのある深い苦悩や葛藤が見られないことが、どこかあどけないまでの幼さを深めているのだと思う。
 そっと指を伸ばして、人差し指で滑らかな頬を突いてみる。
 ふにゅふにゅと何か言いた気に唇が動いたけれど、ルークが目を覚ます気配はない。
(………可愛い)
 ふにふにとして温かく、子供っぽいのが可愛く思えてもう一度。
 そう思って伸ばされたティアの指先は、今度はルークの頬には触れなかった。
「……え?」
 ぱくん、と小さな音が聞こえて、同時に人差し指の第一関節と第二間接の間の辺りに軽い圧迫感を感じる。
 もぐもぐと二度、三度。動かされたのはルークの唇で。
「……ぅ? んん……」
「………きゃぁっ!」
 遅れて軽い痛みが走って、指に噛みつかれたのだと気付いたティアは高い悲鳴を上げた。
「……ふぁっ!? ……え? ティア? あれ、お前、何でこんなとこに……?」
 悲鳴に飛び起きたルークが、まだ眠たそうな様子で首を捻る ――――― 飛び起きた衝撃でティアの指は解放されて居るので無理もないが、自分が加害者であることになどまるっきり気付いていない様子だ。
 わなわなと唇を震わせているティアをきょとんとした表情で見つめていたが、やがてはっとしたように目を見張って左手を後頭部にやった。
「……ぁ……お、俺、転寝しちまってたみたいで、その、迎え、行けなくて、ごめん」
「う、うぅん……いいの……」
「………」
「………」
 ――――― 沈黙。
「……あ、あのさ、俺、なんかした?」
 このままでは埒があかないと、おそるおそる尋ねてみる。
「な、何も! 何もしてないわ!」
 打てば響くの早さで帰ってきた返答は、言葉とは裏腹にはっきりきっぱり何かしましたと言っているようなものだったが、真っ赤になった彼女はそれ以上言うつもりがないらしい。
「………」
 おそるおそる、距離を詰めて顔を覗き込もうとしたら、逃げられはしなかったものの、ぱっと視線を外されてしまった。
 自分が一体全体何をしてしまったのかちょっぴり不安になったが、どうやら怒ってはいるわけではないらしい。
「……てぃーあ?」
 甘えるように名前を呼んだら、華奢な肩がびくっと跳ねた。
「………な、なに?」
 警戒されてるなーと思ったが。
 これはこれで、悪くない。
 細い腰に腕を回すようにしてぐっと引き寄せれば、こらえきれずによろけた彼女が膝の上に落ちてきた。
「……っ」
 声を上げなかったのは意地だろうか。
 ぐっと肩を掴まれて、睨みつけてくるのに苦笑する。
(……これ、恥ずかしい顔だよなあ……)
 正確には恥ずかしいのを必死で隠そうとしている顔、だ。
「……ティア、可愛い」
「なっ……と、突然何を言い出すの、あなたは!」
「突然じゃねえよ、いつも思ってるって」
「っ……! ……バカ」
 潤んだ目元に口付けを落とせば、ふにゃんと肩の力が抜けて頻りに足先を突っ張って体重をかけまいとしていた身体が落ちてきた。
 少し重くなったけれど、重なった身体が温かくて、心地良い。
 とんとんと艶やかな髪の合間から覗く背中を叩いて、ルークは満足そうに笑みを浮かべた。
「……ん……そうね、ごめんなさい」
 躊躇いがちに、小さく頭が上下して、肩に細い顎がことんと乗っかってきた。
 そうされてしまうと顔が見えないのが少し残念なのだが、きゅっと肩に添えられた手が可愛いのでまあいいことにする。
 ぎゅぅっと抱き締めると仄かに彼女の育てるセレニアの花が香るような気がして。
 ルークは胸いっぱいにそれを吸い込んで、彼女がしがみつくのと逆の側から、摺り寄せるように顔を寄せた。

「……久し振り、ティア」

― END ―


 ちょっぴり大人になりました。
 しかしやってることは大人なんだか子供なんだか……(笑)。
2012.02.26

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