「……なあ、ミルクってそんなに美味いのか?」 ソファで赤ん坊にミルクを上げていたら、それを眺めていたルークがそんなことを言い出して、ティアは自身の胸元に落としていた視線を上げた。 ルークは本来座るべき方向とは逆向きに椅子に腰掛けて、その背凭れに懐く様に上体を預けている ――――― キムラスカの子爵と言う立場にあるまじき行儀の悪さだが、屋敷の外と中で分別は付けているらしいのでそこに言及することは止めておくことにする。 身体が大きくなってもこればかりは変わらない、好奇心旺盛な子供を思わせるその瞳は間違うことなく一点を見つめていたので、彼の言う『ミルク』が普段自分達が口にしているものではなく、母乳を指していることはすぐに分かった。 ルークの視線の先、ティアの腕の中では彼と同じ鮮やかな朱い髪の赤ん坊が懸命に乳房に吸い付いていた。 「……離乳するまでは母乳が主食になるわけだし、美味しく感じるんじゃないかしら。ミルクが嫌いな赤ん坊なんて聞いたことがないし……」 既に慣れた行為ではあったが、注視されるのはどうにも恥ずかしい。 さり気なく相手の視線を遮るように幼子の身体を抱き寄せつつ、ティアは小さく首を傾げた。 「……そういえばあなたはミルク、嫌いだったわね」 この世に生み出された時、既に十歳の子供の姿形をしていたルークは母乳を口にしたことはないだろう。 仮にあったとしても、物心ついた後もその味を覚えていられるとは思えないので、それとルークのミルク嫌いに関連性があるとは思えなかったが。 「……んーそうなんだけどさ。ティアがミルクやってるの見てるとなんか美味そうに見えるなあって……やっぱ普通のミルクと違うのか?」 ルークは後ろ手に頭を掻きながら、言い訳がましくぼそぼそとそう言って首を捻った。 実を言うと、どんな味がするものなのかずっと気になってはいたのだ。 けれどミルクは赤ん坊の為のものだし、ティアは赤ん坊にミルクをやっているところを見られるのもあまり好きではないらしいし ――――― ルークにとってその光景は幸せの象徴のようなもので、いつまでだって眺めていたいのだが ――――― 恥ずかしいしで、なかなか言い出せなかった。 「……飲んでみる?」 だから、ルークはその言葉に自分の耳を疑わざるを得なかった。 「………え?」 一瞬何を言われたかわからなくて、驚くルークに小さく笑った彼女の顔を二度見する。 「……い、いいのか!?」 「えぇ。でもこの子にミルクを上げ終わってからね」 抱き寄せられた赤ん坊の後ろ頭に隠れて見えないが、その先にはふくよかな二つの膨らみがあるはずで。 反射的にそれを想像してしまって、さっと頬に朱が上った。 ――――― ここ数ヶ月、ルークは殆どティアに触れて居ない。 無論、日常的な淡い接触はある。 だが意図をもって触れたことは一度もなく、ティアのことは殆ど幼い息子に独占中されている。 子供が生まれて暫らくはそれが当たり前のことだとは言うが、けれど寂しくもあって。 その所為か、妙にドギマギして落ち着かない。 幸いティアはそんなルークの様子は気付かず、穏やかな表情で再度胸元に抱いた赤ん坊へと視線を落とした。 それにしても、人一倍羞恥心の強い傾向にあるティアからそんな提案が飛び出してくるとは。 (すげー大胆……) 女は母親になると強くなると言うが、そう言うこと、なのだろうか。 「……ルーク、あとお願いしていい? 私、準備をしてくるから……」 「えっ? お、おぅ!」 そうやってぐるぐる考えているうちにいつの間にか授乳が終わったらしい。 お腹がくちくなったのか満足そうに口元をもにょもにょと動かしている赤ん坊を差し出されて、ルークは反射的に両手を出してそれを受け取った。 (準備って何!? 何の準備……!?) と、心の中では軽くパニック状態だ。 「……っ、ヤベ!」 既に着衣を整えていたティアが立ち上がり部屋を出て行くのを暫し見送って、ルークははっとして急いで赤ん坊を抱え直した。 上体を自身の肩に凭れ掛けるよう垂直に抱き上げて、そうっと背中を叩いてその身体を揺する。 ――――― 小さいし柔らかいし、少し力を籠めれば壊してしまいそうで始めのうちはおっかなびっくりだったが、最近では随分と赤ん坊の扱いにも慣れたような気がする。 暫らくそうやっていると、やがて耳元でけぷっと小さな音が漏れた。 こうやって空気を出してやらなければ赤ん坊は折角飲んだミルクを戻してしまうことがあるらしい。 不便なものだと思うのと同時に、人の身体と言うものは本当に凄いと思う。 いつから食事をとってすぐにひっくり返ったって ――――― 行儀の良し悪しは置いておいて ――――― 大丈夫になるのだろう。 寝返りを覚え、はいはいを覚え、それから掴まり立ちを覚えて ――――― そうやって生まれてからも少しづつ進化していくのだ。 一足飛びに大人になってしまったことが少しだけ残念に思う。 ぐずぐずと眠たそうにぐずり始めた赤ん坊の、まだ産毛のように柔らかくぽわぽわとした髪に覆われた頭を左手で包み込んで抱え直す ――――― 細く指に絡み付くような感触は子供特有のものでルークのそれとは似ても似つかなかったが、色合いだけはルークのそれにそっくりだった。 眠たそうに半眼になった瞳も、色合いこそティアのそれと同じ鮮やかな青だが、形はルークのそれにそっくりだ。 この幼子は、この世界で唯一ルークと同じ血を持っている。 世界で唯一、ヒトとレプリカの血を持っている。 手を伸ばして柔らかい頬に触れる ――――― 温かくて、柔らかくて、赤ん坊と彼女への感謝で胸が一杯になるような気がした。 「………ルーク、どうかした?」 「……え? あ、な、なんでもねぇよ」 いつの間に戻ってきたのか、彼女に声をかけられて。驚いてそちらを見上げて、急いで頭を振る。 今、考えていたことを口にするのはどうにも恥ずかしすぎる。 「……そう? はい、どうぞ」 幸い彼女は僅かに首を傾げただけでそれ以上を問うことはなく、ことんと小さな音を立てて小さな盆に乗っていた白い液体の入ったグラスを机に置いた。 「………。」 ――――― 一瞬の、沈黙。 次の瞬間、それがなんなのか思い至ったルークはあっと小さく声を上げた。 「……どうしたの?」 ルークの腕から赤ん坊を受け取って抱き直したティアが今度は先程と反対側に首を傾げる。 その動きに釣られてさらさらと癖のない髪が細い肩を滑り落ちた。 「な、なんでもない!」 グラスに入っているものはおそらく、ルークが求めていたものだ。 ただし、音機関で冷凍保存されていた、と言う注釈が付く。 立場上どうしても顔を出さなければならない夜会等もあるし、彼女が体調を崩さないとも限らない。 以前、何かあった時の為にたくさん出る時に保存しておくのだと聞いたことがあったし、ルークだって彼女に代わって哺乳瓶に入れたそれを赤ん坊に飲ませたことがあった。 なのになぜ、その可能性に気付かなかったのか。 と言うよりむしろ、冷静に考えるとそれしか有り得ないだろう。 彼女が直接 ――――― なんて、そんな大胆なことを許してくれるワケがない! そんなことを考えていたことが知れたら怒られたっておかしくはなくて、何とか誤魔化さなくてはと思ったが、僅かに遅かった。 「……っ……ル、ルーク、あなた……」 ハッとして傍らに立ったままの彼女を見上げると、白い頬がじわじわと赤くなっていくのが見て取れた。 「ち、違ッ……い、いや、違わないんだけど、いや、そのっ……」 出来るもんなら数分前の自分を殴ってやりたい。 穴があったら入りたい、とはこのことだ。 「な、何が違って何が違わないのよっ!」 「俺が悪かった! 悪かったから忘れてくれぇっ!!」 「……ふぇ……ふぇえぇぇー!」 彼女に詰め寄られ思わず悲鳴染みた声を上げて頭を抱えると、騒がしさに耐え兼ねたのか、お腹いっぱいで心地良く眠りにつこうとしていた赤ん坊が豪快に鳴き声を上げ始めた。 ――――― ファブレ公爵家は、今日も平和でした。 ミルクは甘くて美味しかったそうです。 ― END ―
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ずっと前からネタはあったのですが、有りなんだろうかと形にはしていなかったものです……(笑)
。 微妙なネタでスミマセンっ(汗) |