気持ち良く晴れた日曜日、葛馬はいつものニット帽を被り、自宅の庭でA・Tの練習に励んでいた。姉は朝から大学の友人達と日帰りの小旅行に出掛けたし、今日は珍しくチームの練習もない。 ランダムに置いた空き缶の間を走り抜け、振り向いて、缶を確認する。1本も倒れてはいなかった。思わずぐっと拳を握り締める。 「…っし! もっかい!」 今度は少し、缶の幅を狭めてみた。これの間をどのくらい速く、確実に走れるかが今日の課題だ。 (スピードを落とさねーようにして、と) 呼吸を整え、キッと空き缶を睨み付ける。脳裏に描くのは恋人である青年の姿だ。 彼のように、スマートに。バランス良く。スピードも殺さず、けれどがむしゃらでもなく。出来たら軽やかに走ってみたい。 葛馬の理想そのものの走りを思い浮かべながら、少しでもそれに近付くべく空き缶の間を往復した。足が絡んで、缶に触れる。カランと乾いた音が立つ。起こして、もう一度はじめから。 額に浮かんでいた汗をパーカーの袖口で拭い、何度も何度も練習を繰り返す。 「クッソー、なんでうまく行かねーんだろ?」 またしても同じところで缶が倒れた。自分の不出来さが歯がゆくなり、知らず唸ってしまう。想像のなかのスピット・ファイアがまた遠去かった。 (こんなんじゃダメだ) 唇を噛み、倒れた缶を拾った。ふっとその視界が陰る。頭上を仰げば、大きな雲がゆるり、ゆるりと流れていた。真っ白い雲の隙間から、青空が覗いている。 葛馬は呼吸を乱したまま、それをぼんやりと眺めた。 巨大な雲塊を見ていると、小さな頃に樹やオニギリ、キツネ達とあのなかには何が入ってるんだろう、なんて言い合ったことを思い出す。 (……あんトキ、俺、何が入ってるって言ったっけ?) 樹はあれはでっかい鳥の巣だ、と胸を張ったし、オニギリは絶対あのなかには色っぽい天女が住んでると言って譲らなかった。キツネはアニメの影響か、あのなかには空飛ぶ城があると言って細い目をキラキラさせていた。だが葛馬は自分が何と言ったのか思い出せない。 (なんか、すっげーバカにされたコトだけは覚えてんだよなー…) 顔を上げて、雲を見上げて。吹き渡る風を、練習で火照った頬で受けて。 ふと、スピット・ファイアならなんて言うんだろう、と思った。 雲のなかに、何があると思う? そう、尋ねたら。彼はなんて答えるのだろうか。 (アイツ……結構ロマンチストだから、なんかオモシレーコト言うかも……) くすり、と笑みがこぼれた。途端、車のクラクションが辺りに響き渡り、突然の大音量に葛馬はびくっと肩を竦める。門扉に目をやるとそこには派手な車が止まっていて。あ、と思う前に見慣れた笑顔が現れた。 「やあ、カズ君。こんにちは、いい天気だね」 「あれっ? 今日は少し遠出してたんじゃ……?」 門扉に駆け寄って、車の窓から顔を出したスピット・ファイアに問い掛ける。 「うん、さっき帰ってきたところ」 「あ、こないだ言ってた雑誌の撮影?」 「そう。朝早くから鎌倉まで行ってきちゃった」 そこで青年は助手席に手を伸ばすと、鳩のイラストが大きく印刷された紙袋を取り出した。 「はい、鳩サブレ。沢山あるからチームのみんなのおやつにしたらいいよ」 にこりと微笑み、差し出してくる。葛馬は笑顔で礼を言い、紙袋を受け取った。それからはっとして、慌てたように門扉を開ける。 「今日姉ちゃん車出してっから、中入れていーぜ? 仕事、終わったんだろ?」 すると恋人はそれがねぇ、と苦笑した。 「午後から店に顔出さなくちゃいけなくて。予約結構入ってるんだよ」 「なんだ……」 (土産渡しに来たダケ、か) しょんぼりと俯くと、だからね、と優しい声が降ってきた。 「そんなに長居は出来ないんだけど、もし良かったら一緒にお昼どうかなぁって思って」 「へ?」 顔を上げたら、目の前にクリーム色の紙袋がぶら下がっていて。それを手にした恋人が、にこりと微笑む。 「鎌倉に美味しいパン屋さんがあってね、お昼休みにカズ君と食べたくて、色々買ってきちゃった。もうお昼食べちゃったかな?」 「俺も昼メシまだっ!」 意気込むと、良かった、と青年は笑った。 「じゃあ、一緒に食べよう?」 「うんっ! あ、待って、今空き缶片付けっから!」 一転してごきげんになった葛馬はうきうきと空き缶を片付けて、スピット・ファイアにOKのサインを出した。それから門扉の横に寄り、彼が車を入れるのを見つめる。姉はたまに変な角度に入れてしまって何度かやり直したりもするのだが、青年は一発で綺麗に停めた。上半身を肩から後ろに向けて捻り、片手でハンドルを回す慣れた風な姿に思わず見蕩れかけ、そんな自分に少し赤くなる。 ドアを開けて車から降りてきたスピット・ファイアは颯爽としていて、それだけでなんだか絵になる感じだった。今日の彼は渋みのある若草色のジャケットに、ラフなカットソーを合わせている。ジーンズの腰からはウォレットチェーンが重た気に覗いていた。パン屋の袋を下げたその手首に、シルバーのブレスレットが見える。どれもシンプルで、特に凝っているようには見えない。これと同じ服装をその辺を歩いている青年がしたら、きっと誰の目にも止まらないに違いなかった。 (なのにコイツが着ると、なんかすっげーカッコイイんだもんなぁ) やっぱ、服って着る奴にかかってんのな、と葛馬は妙に納得する。 「お待たせ」 「んじゃどーしよっか? ウチんなかで食う? それとも、天気いーから外で食う?」 「外?」 「うん。姉ちゃんが前に通販で庭用のテーブルセット買ったんだよ。こっからは見えねーけど、中庭の方にあんの。あ、もちろんウチんなかでもいーぜ? まぁ…ちっと散らかってっけどさ」 気恥ずかし気にニット帽の頭を掻いて、葛馬はどっちにする? と目で尋ねた。スピット・ファイアはそんな少年に穏やかな笑みを向ける。 「カズ君の好きな方でいいよ?」 「ええー? そーゆーのがイチバン困んだよなぁ。男ならさ、ハッキリ、キパッと選べよ?」 「そう? じゃあ、外がいいかな。微風が気持ちいいからね」 葛馬はわかった、と笑顔を浮かべ、小さなテラスに恋人を案内した。 (ココ、イッキやオニギリ達もまだ座ったコトねーんだよな。スピット・ファイアがはじめてだ) 姉お気に入りのテーブルセットを破壊されてはたまらないと、葛馬は幼馴染み達にこのテラスの存在を隠していた。でも、スピット・ファイアなら座らせても大丈夫だ。 「あ、ちょっと待って!」 テーブルに袋を置こうとしたスピット・ファイアを制止し、葛馬はくるりと身を翻す。肩越しに振り向いた。 「少しホコリ被ってるみてーだから座んねーで待ってて! 今フキン持ってくっから! あ、飲み物コーヒーでいーの? バターとかジャムとかもいる?」 「うん、ありがとう。コーヒーでいいよ。あと、バターとかもお店で買ってきたから大丈夫」 「わかった! すぐ用意すっから!」 葛馬はにこりとすると、大急ぎで玄関に回り、A・Tを放り出すように脱いでキッチンへと飛び込む。スピット・ファイアは昼休みだと言っていたから、もたもたしていると時間がなくなってしまうだろう。貰った鳩サブレの紙袋をテーブルに置いて慌ただしく手を洗い、食器棚からカップと皿をふたつずつ取り出した。 (急がねーと時間なくなるっ。あ! コーヒー今インスタントしか……あぁもぅいーやっ!) インスタントコーヒーを二人分淹れる。葛馬の方には砂糖とミルクを投入し、スプーンを洗うついでにフキンを水に濡らしてきゅっと絞った。それらをトレイに乗せ、こぼさないように、だけど出来るだけ急いで中庭に面した部屋に入る。気をつけながら窓の鍵を開けて、スピット・ファイアにトレイを手渡した。それからまた玄関に取って返すとスニーカーを片手に廊下を走る。愛犬が尻尾を振りながら後をついてきた。 「ちわっ、ちわちわっ」 スニーカーに足を通す葛馬の傍らで、チワ太郎がぐるぐる回る。 「チワ、遊びはあとでな?」 「ちわっ!」 良い子のお返事をして、小さな愛犬はそのまま窓から飛び出した。スピット・ファイアがわずかに慌てる。 「カズ君、チワ君が外に…」 「あ、いーのいーの、チワ、ひとりじゃ門から出ねーから」 A・Tの練習などで疲れ切っていて、散歩に連れ出してやれない時は庭に放してやるのだと葛馬は笑った。立ち上がっていざテーブルを拭こうとし、それが済まされていることに気付く。 「テーブル、拭いておいたよ?」 よく気の付く恋人はすでにトレイからカップをテーブルに移し、皿もきちんと並べていた。中央には美味しそうなパンが積んであり、その脇に四角いプラスチックケースに入ったサラダが何種類か置いてある。 「さ、カズ君座って?」 促されて自分のコーヒーカップがある方の椅子に腰を下ろすと、葛馬はテーブルを見回して歓声を上げた。 「なんかいっぱいあんなー!」 「ふふ、沢山食べてね?」 「どれがなに?」 山積みのサンドイッチやらを見つめて尋ねてみる。スピット・ファイアはにこにこと口を開いた。 「これがグリーンサラダでこっちがチキンで、これはオニオン。フルーツはイチゴとキウイ。サンドイッチは海老とアボカドのと、クリームチーズとスモークサーモン。こっちのクロワッサンの方はオムレツとトマトで、カンパーニュサンドは生ハムとブラックオリーブとルッコラ。そこにあるのがクルミパンで、隣がオレンジブリオッシュ。ベーグルはね、プレーンとブラウンシュガーと…」 そんな風に、ひとつひとつを嬉し気に説明する流れるような声を、葛馬は自然と目を細めて聞いた。耳朶に優しく触れてくる声はいつもと変わらず穏やかでわずかに甘くて、いつまででも聞いていたいような心地好い気分にさせる。 「ディップは全部で4種類。ジャムはイチゴとママレードとブルーベリー。さぁ、お好きなのをどうぞ?」 葛馬は笑って頷くと、まずは近くにあったサンドイッチに手を伸ばした。 (んーと、コレが海老とアボカドだったよな?) ずっしりと身の詰まったサンドイッチは、薄い紙で丁寧に包まれていて中身が見えない。テープを外し、包装を解いてふんわりと柔らかなパンに触れると、やっとレタスの縁が見えた。フリルのようなその合間にはボイルした海老と緑の鮮やかなアボカドが挟まっている。 (うまそー!) 口許を綻ばせてかぶりつこうとした時、スピット・ファイアがカズ君、と名前を呼んだ。顔を上げると、向かいで恋人がフォークにイチゴを突き刺している。 「はい、あーん」 「ん」 自宅の中庭と言う安心感からか、少し躊躇しつつも素直に口を開けて受け入れる。甘酸っぱいイチゴの味が口いっぱいに広がって、葛馬の心をくすぐった。 ◆ ◆ ◆ スピット・ファイアが買ってきてくれたパンはどれも美味しくて。あれもこれもと手を伸ばしているうちにテーブルに積まれていたそれはすっかりなくなった。 「じゃあカズ君、僕はそろそろお暇するね?」 二杯目のコーヒーを飲み終えた恋人が、携帯を確認しながらにこりと微笑う。美味しいものでお腹をいっぱいに満たした葛馬はなんとなくキスが欲しくなったが、自分からねだるのは恥ずかしくて、それを隠すように立ち上がった。 「門のとこまで送ってく」 「片付け、お願いしちゃってもいいかな?」 少しすまなそうに言われ、慌ててそんなの気にすんなってば! と首を振った。 「そう? ありがとう」 「俺の方こそ、あんがとな? すっげーうまかった」 「カズ君が気に入ってくれて嬉しいよ。美味しそうに食べてくれてありがとう」 どこまでも優しい恋人に葛馬は照れ臭そうに顔を緩めると、立ち上がったスピット・ファイアをちら、と上目遣いで見上げる。 (キス、してーな……) 満腹だし、微風が気持ちいいし、空は青くて綺麗だし。これで甘いキスのオマケがついたらもっと幸せで。 「カズ君? どうしたの?」 「ん? …あぁ、なんでもねー」 でも、やっぱりそんなことは言えない。ごまかすように首を振って、先に立って歩き出した。 「チワ君、表の方で遊んでるのかな? 外に出ちゃってないよね?」 葛馬の愛犬のことまで気に掛けてくれるのが嬉しい。 (……やっぱ、キスしてー) とは思うものの、いつもされる側なせいか、なかなかふんぎりがつかない。 「チワは怖がりだから俺か姉ちゃんが一緒じゃねーと外行かねーんだよ」 そんなことを話しながら、あー俺ってやっぱチキンだー、とこっそり溜め息をついた。 好きなひとがすぐ傍にいて。彼も、自分のことをどう言うわけか好きになってくれていて。ちょっとの時間でも、わざわざ会いに来てくれたりもして。それが嬉しくて、キスがしたくて。でも、出来なくて。彼の隣は安心するけど、やっぱりいつもより鼓動は速いのだ。 (スピット・ファイアからしてくんねーかな?) 形の良い唇を横目で見てからぱっと顔を背けた。 (あーダメだダメだ、相手からして欲しーだなんて、俺どんだけ受け身なんだよ!) 彼の方が年上だし、大人で、このテのことには慣れているのだから、全部任せてしまってもいいとは思う。だけど葛馬もれっきとした男だ。いつも主導権を握られているのも気になってはいた。 「怖がりなの? はは、ご主人様とそっくりだね?」 「俺は別に怖がりじゃねーぞ?」 わざと唇を尖らせて、強がってみせる。 「はは、これは失礼。でも、カズ君。もし夜中におばけが出たら、その時は迷わず僕のところに避難しておいでね?」 「……俺のコト、バカにしてんだろ?」 顔をしかめると、隣を歩いていた恋人は微笑んで、してないよ? と囁いた。 「僕のところにおばけが出たら、その時はカズ君家に避難するからその言い訳が欲しかっただけ」 鮮やかな緋色の瞳で覗き込まれて、どきりと心臓が鳴った。やっぱキレーだ、なんて思う。 (男にキレーってのもなんかアレだけど……でも、キレーだよな) スピット・ファイアはいつでも格好良くて、穏やかで優しくて、品が良くて。そして、華やかでとても綺麗だ。A・Tだって上手くて、『王』で。性格も少し何を考えているのかわからない部分はあるけれど、悪くはなく。柔和なのに、情熱的でもあって。……とにかく全てがたまらなく魅力的だった。そんな人間に愛されている――そう思うだけで、葛馬の頬は自然と色付いた。 ニット帽を目深にし、さりげなくパーカーのポケットに両手を突っ込んで俯く。 「……アンタでもおばけがコエーの?」 「もちろん。だって、きっとどんな攻撃だって通じないんだよ? いくら僕が『炎の王』でも、おばけの前じゃブルブルしちゃうなぁ」 「じゃ、しょーがねー。おばけが出たら俺んとこ逃げてきていーよ」 「ほんと? ありがとうカズ君。カズ君もそうしてね? 僕のところにちゃんと来るんだよ?」 「……ん、そーする」 スピット・ファイアに怖がりなことを上手に肯定されてしまって、でもそれがそんなにいやじゃなくて、葛馬は思い切って顔を上げた。もう彼の車が見えている。誰にも見られない場所は、ここしかない。 (たまには俺から…!) 覚悟を決め、心のなかでせえの、と気合いを入れた時。ふいにスピット・ファイアがあ、と呟いて目を丸くした。 「へ?」 威勢を殺がれた葛馬は、恋人の視線を追って思わず固まる。 (チ、チワ…っ!?) 表で遊んでいるはずの愛犬が、スピット・ファイアの高そうな車の下で片足を上げていた。タイヤにマーキングしている真っ最中だ。 「こっ、コラ! チワっ!!」 慌てて大声を出すと、チワ太郎は一瞬びくりと小さな体を震わせた。だが意外にも強気なチワワはトコトコ歩くともう一方のタイヤをふんふん嗅ぎ、そこにも縄張りを主張している。 (ああっ! なんてことを!!) 目の前が真っ暗になった。はっとして恋人を仰ぎ見る。スピット・ファイアはこめかみをぴくりと震わせていた。 「ご、ごめんスピット・ファイア! くっそ、チワのやつぅー!」 愛犬の粗相に顔を羞恥で真っ赤に染めて、葛馬は走り出した。チワ太郎を掴まえ、嬉しそうにパタパタと尻尾を振る愛犬を玄関のなかに放り込む。 「ちわっ!? ちわちわっ、ちわっ!」 かりかりとドアを引っ掻く音がしたが、無視してスピット・ファイアに駆け寄った。両手を合わせてがばりと頭を下げる。 「ほんっとゴメン!」 「え? …あ、いいんだよ、カズ君が謝ることじゃないから」 「でも俺の犬だし…っ」 おろおろと泣き出しそうに顔を歪めてひたすら頭を下げる。 「あのくらい大丈夫だよ、それに仔犬だから、そんなに臭わな…」 からりとした風が、少し濃い臭いを運んできた。スピット・ファイアが押し黙る。葛馬がさあっと青くなった。 「あ、そだ、洗う! 俺タイヤ洗うから!」 「でももう時間が……」 心なしか、スピット・ファイアの声が堅い。 「すぐ! すぐだからっ」 葛馬は焦りながらタイヤを見た。地面との接地面に、結構な量が流れた形跡が残されている。これはなんの嫌がらせかと歯噛みしたくなるほど、執拗にかけられているようだった。 「ほんっとすぐだからっ!」 言いながらあわあわと辺りを見回し、姉が洗車の時に使っていた道具が隅の物置に入れられていることを思い出す。飛び込んでまずはホースを携え、それを庭の水道に繋いだ。蛇口を捻る。冷たい水が勢い良く溢れ出してきた。 (とりあえず、水で流して……えっと、そっから洗剤とブラシで洗う!) タイヤに近付き、ホースを向ける。しつこいくらいに水をかけていると、そのうちチワ太郎の痕跡が薄らいできた。 (よかった、なんとかなりそー) ほっと息を吐き、ホースを投げ出す。今度はブラシと洗剤を持ってタイヤに向かった。途端――。 「カズ君」 スピット・ファイアのいつになく冷たい声が背中に刺さった。振り向けば、そこには端整な顔を強張らせた恋人が立っている。 「もういいよ」 「でもまだ…っ」 「君が悪いわけじゃないんだし、大分臭いも取れてきた。チワ君のだってもう水で流されただろうから、それ以上はもういいんだ」 「だけど」 「大丈夫、店の近くのスタンドで洗車を頼んでおくから」 スピット・ファイアはいつになくテキパキと簡潔に、淡々とした声音でいっそドライに言い放ち、にこりともせずに車に近付いた。葛馬はブラシと洗剤を手にしたまま、申し訳なさに小さくなって俯く。 (怒ってる……そりゃそーだよな…誰だって、自分の車にあんなのかけられたら怒るよな……) じわり、と涙が滲みそうになり、咄嗟に瞬きを繰り返してそれを防いだ。 「カズ君、門扉開けて貰っていいかい?」 車の窓から顔を出し、だが笑顔は見せずにスピット・ファイアが言うから。こくりと頷き、唇を噛み締めながらブラシと洗剤を地面に置いた。門扉に近付く。そこを開けようとしたら、頭上でカラスがクァー…と鳴いた。次の瞬間――。ぼたたっ。やや重た気な音がしたと思ったら、車のフロントガラスに白いものが飛散していて――。 目を剥く葛馬を嘲笑うかのように、カラスがカーカー金属的に鳴いていて。 (……あ、スピット・ファイアっ) はっとして車のなかを覗き込むと、そこでスピット・ファイアは彫像のようになっていて。 「いっ、今ブラシで落としてやっから! 固まる前なら水でカンタンに落ちると思うしっ」 待ってろ、と叫びながらブラシとホースを手にした途端。車のなかから、ぷ、と呼気が漏れるような音がした。 (え……?) 「ぷ…くく……」 もう我慢出来ないと言ったように、突然スピット・ファイアが吹き出して。窓から身を乗り出すと、カズ君今の見た!? などと言ってきた。 「ぼた、だって! すっごい音したよねぇ!! こんなのって、くく…滅多に…ぷは…っ、ないよねぇ!? …あーもうダメっ、ガマン出来ない!」 言うが早いか、ハンドルに顔を伏せて肩を激しく震わせている。ホースから水を滴らせ、葛馬はぽかんとした。 スピット・ファイアがハンドルをばんばん叩きながら、大笑いをしているのだ。こんな姿は見たことがなかった。 「く、苦し…ねぇカズ君、もしかして…ははっ、あのカラスってさ、ぷっ…、イッキ君の頭に住んでるカラスだったり…くくっ…しないよ、ねぇ!?」 「わかんね……」 「もしっ…そうだったらさ…っ、これってすっごい確率…っじゃない!?」 ……確かに、もしそうだとしたら、スピット・ファイアはこの短時間のうちに葛馬と樹、小烏丸所属のライダーふたりのペットから貰い物をしたことになる。それはきっと、物凄い確率だ。 (……これって……) 笑い続けている恋人を茫然と見て、葛馬はある可能性に思い至った。なぁ、と恐る恐る話しかける。 「アンタ……もしかして、さっき…笑いたいのをガマンしてた、ワケ?」 だから顔を強張らせて、簡潔な物言いをしていたのだろうか。もしそうだとしたら、それはいったいなんのためなのか? するとスピット・ファイアは顔を上げ、だって、と目に浮かんでいた笑い涙を指先で拭った。 「チワ君のアレってさ、つまりシモネタみたいなものじゃない! それで大笑いなんかしちゃったら、まるで僕がシモネタ大好きみたいで、でもそんなのってすごくカッコわるくない!?」 だからさっさと別れて、葛馬が見ていないところで思う存分笑うつもりだったと続けた。 「おまっ」 思わず口をぱくぱくさせる葛馬に、恋人は笑いすぎて顔を紅潮させながらいつになく子供っぽい仕草で唇を尖らせる。 「カズ君の前ではかっこいい僕でいたかったんだよ。でも……もーダメっ、だってカラスが! カラスの落とし物が!!」 そしてまた笑い出した。 (……つまり、コレって) 「……アンタ、もしかしてシモネタとかスキなワケ?」 「ううん?」 ふるふると震えながらも首を横に振る。 「ちっとも、スキじゃないよ…ぷふっ…まさかこの僕がそんなの…っ、ははっ」 (……ぜってーウソだ) 「わっ、冷た…っ」 無言でホースの先を恋人に向けた葛馬は、全身から力と言う力が抜け落ちてしまいそうな心地になりながら目をすがめてスピット・ファイアを見つめた。 「どうしたの、カズく…っぷふっ」 意外と笑い上戸のようだ。葛馬はブラシとホースを手放すと、スピット・ファイアに近付く。水をかけられてすらまだ殺しきれない笑みが溢れるその綺麗な顔を、嘆息しつつもパーカーの袖でごしごし拭いてやった。 「あっ、ありがとう」 緩く立ち上げた炎を思わせる髪の先からもわずかに水滴が滴っていたが、こちらは下手に拭くとくしゃくしゃになってしまいそうだ。 「髪の方は自分でやれよ?」 プロに任せるのが一番と、触れていた顔から手を離す。すると、その手をそっと掴まえられた。笑いをなんとか収めた恋人が、何故かその眼差をわずかに揺らしている。 「カズ君、……キライになった?」 「は?」 「僕、こんなんで……幻滅しちゃった?」 やや不安そうに紡がれて。葛馬はえ、と目を瞬かせた。 「……ごめんね、かっこよくなくて……」 苦笑を浮かべてぽつりと呟くその姿は、それでも台詞とは裏腹にやはり格好良くて。思わず――呆れた。 (なに言ってやがんだコイツ……) 「……アンタって、結構自分のコト知らねーよな」 溜め息混じりにそう返して。辺りにちら、と視線をやり。そっと身を屈める。目を伏せて、形の良い額に唇を落とした。驚いたように目を瞠る恋人に、笑いかける。 「バーカ。……そんなんでキライになるわきゃねーだろ」 そして逃げるように踵を返すと、転がっていたホースを手にしてフロントガラスの上部から水をかけた。落とし物は呆気なく流れ、葛馬は胸を撫で下ろす。この分だとスピット・ファイアが仕事に遅刻することはなさそうだ。ワイパーが動いて、水滴をさっさっさっと落としてゆく。 「カズ君、洗車頼んじゃうからもうそれでいいよ?」 先程とは打って変わっていつもの柔らかい声でそう言われ、葛馬は頷いてホースを下げた。 「じゃあ、行くね?」 「ん。気をつけてな?」 ゆっくりとスピット・ファイアが車を動かす。少し離れてついていく葛馬に、ふと窓から手を伸ばした。確かめるようにニット帽に触れ、頬を辿り、そこを撫でてからにこりとする。 「またね、カズ君」 笑みとともに離れた温かな手の感触が少し名残惜しくて。 「なぁ、スピット・ファイア」 もう時間もあまりないとわかっているのに。葛馬は窓の縁に片手をかけた。わずかに腰を折る。 「あの、さ……」 「うん?」 「その……ちょっとだけ、……キス、してくんねーかな?」 思い切ってねだってみて。自分の台詞にぱっと赤くなり。だが顔を引っ込めることはせずに恋人の返事を待つ。スピット・ファイアは驚いたように目を少し丸くして、でもそこをそっと細めてくれた。後頭部を引き寄せられて。瞼を下ろす。ニット帽をずらされたと思ったら、額に柔らかく触れられた。 (アレ?) 思わず目を開けると、スピット・ファイアが少し悪戯っぽく微笑んでいた。 「リクエストはちょっとだけ、だからね?」 「え、あ……」 葛馬の言葉を忠実に受け入れたキスに、物足りなさを隠し切れなくて。眉を下げたら、だからこれは、と近くで囁かれた。 「……僕がしたいだけ」 望んでいた感触が唇に落とされる。手にしていたホースが足許で跳ねた。 ――ややあって、葛馬はふっくらと色付いた唇に満足気な笑みを浮かべると、車から離れて軽く手を振った。 「じゃ、また、な」 「うん。またね?」 スピット・ファイアはにこりとし、車を出す。 遠去かってゆく派手な車を門扉から見つめて、それがすっかり見えなくなってから、葛馬は小さくあっと叫んだ。水を出し放しにしていたことを思い出したのだ。 「やべっ!」 慌てて水道に引き返し、蛇口を捻って。水の流れを止めて。ほっとしながら吹き渡る微風に誘われるように、空を見た。真っ青なそこに、大きな雲がぷかりと漂っている。 (……もし) スピット・ファイアに、雲の中身のことを尋ねたら。 彼は何て答えるのだろう。さっきも考えたささやかな問いを心に浮かべる。 (どんな答えが返ってきても……、アイツの答えならそれだけで何だか嬉しくなりそうな気ィする……) 意外な姿を見ても、胸に灯る想いが消えなかったように。 (なんか、俺……自分で思ってるよりきっとアイツのコト、スキなんだな) そんなことを考えて。葛馬は照れたようにへへっと笑うと、地面に散らかったホースやブラシを片付ける。それからA・Tを取りに、玄関のドアを開けた。 − END −
|
たてこ様 「お題のメイン(と思われる)『スピ車を洗う』がなんだか中途半端だったので、せめて『デコチュー』だけはちゃんとクリアせねば!とカズ君からデコチューとスピからのデコチュー、ふたつ入れてみました。少しでも楽しんで頂けると嬉しいです〜。 最後に、こんなお話を書く機会を与えて下さった七瀬さまをはじめとするロッ○リアな皆さまに感謝を。楽しかったです!ありがとうございましたv」 |