夜、電話やメールをすることは珍しくない。
 ATの話をしたり、学校のこと話したり、他愛のない色々なことを話して、おやすみの言葉を交わして電話を切る。
 電話口から聞こえる声はいつもより響きを増して艶っぽくて耳に心地よくて、受話器に落ちるキスの音に赤面して、恥ずかしいのと同じぐらいあったかい気分で眠る。
 それが常なのだけれど、でもその日は少し違っていた。
『……明日平日なんだけど、僕の部屋にこれないかな?』
 切り際に突然、スピット・ファイアがそんなことを言い出したのだ。
「明日? んー、まあ練習終わってからなら平気だけど……」
『良かった。じゃあ8時頃でどうかな? それならあまり遅くない時間に送っていけると思うし……』
 電話の向うでほっとした声がする。
 すぐ近くに居るみたいに錯覚する息の音が、柔らかくて心地いい。
「ん、わーった。ATで帰るから大丈夫だって。んじゃ明日な?」
 珍しい平日のお誘いを訝しく思いながら約束を交わして、電話を切って。
 振り返って壁にかけられたカレンダーを確認して、葛馬はようやく明日が何の日なのか思い至った。
 ――――― 2月、14日。
 所謂バレンタイン・デーだ
(あ、そう言う事、なんだ……)
 海外ではどうだか知らないけど、日本ではバレンタイン・デーといえば恋人達の日として名高い。
 女の子からチョコを渡して告白したり、普段お世話になっている相手にチョコレートを渡したりの一大イベントで、そう言えば近くのスーパーだとかコンビニのお菓子売り場が赤やピンクのハートで賑々しく飾り立てられていた気がする。
 派手だなーと思って、でも自分には関係ないやと思ってスルーしてしまっていた。
(関係なく、ないんだ……)
 今年は葛馬にも恋人が居る。
 相手は彼女じゃないけれど、しかしそれだけに自分もチョコを上げた方がいいのかもしれないと思って。
 でもとてもじゃないが女の子達に混ざってバレンタインのチョコを買うなんて無理だと思う。
 誰かに見られたらと思うだけで心臓が止まってしまいそうだ。
「どうすっかな……」
「ちわ?」
 嬉しいのとどうしたらいいのかわからないのが半々で途方にくれた声を漏らした葛馬に、足元でチワが小さく首を傾げた。


 当日は予想外の豊作だった。
 カバンの中には名前も知らない女の子に貰った幾つかの義理チョコと、エミリの手作りチョコと石渡がくれた高そうなチョコが入っている。
 ……石渡はよくわからないが、エミリは多分チームで一番仲がいいから義理でくれたのだろうと信じて疑わない葛馬は、当然のことながら貰ったチョコの中に幾つかの本命チョコが混ざっていることに気付かない。
 とことん樹の陰が身に染み付いてしまっていると言うか、自分に自信がないと言うか。
 だが其処が葛馬、なのかも知れなかった。
「……本番はこっから、なんだよな!」
 義理チョコは後日ありがたく頂くことにして、今はこっちに集中とばかりに通い慣れたマンションのエントランスでぱんと自分の両頬を打つ。
「お邪魔しまーす……」
 エレベーターで最上階へ向かい、こちらはまだ使い慣れないカードキーを使って扉を開け、中を覗き込むとちょうどキッチンから家主が顔を覗かせるのが見えた。
「いらっしゃい、カズ君」
 いつもと同じ、けれど決して見飽きることなんかない綺麗な笑みが向けられて。
 歩み寄ってきたスピット・ファイアにふんわり抱き寄せられて、立ち上る仄かな甘い香りに頬が緩む。
「……急にごめんね? でもどうしても今日、カズ君に逢いたかったんだ」
「………大丈夫、俺も、逢いたかったし」
 逃げようと思えば簡単に逃げられてしまうだろう、緩い抱擁だ。
 それがまた彼らしくて、擽ったいようなもどかしい様な感覚を覚えてそろりと相手の背中に腕を回せば……付き合って半年以上たってようやく、それが出来るようになった……旋毛にキスが落ちてきた。
 其処から額に、頬に、いくつものキスが落ちてきて、顔を上げて仰のいて砂糖菓子を思わせる優しくて柔らかなそれを甘受する。
 それは何度も何度も繰り返されて。
「……玄関先で何やってんだろーな」
 なかなか終わらないキスに思わず小さく噴出してしまった葛馬に、スピット・ファイアが目をぱちくりさせるのが見えた。
「確かに、そうだね」
 くすくすと連られて笑う音が聞こえる。
「上がって、すぐにお茶を入れるから」
「ん」
 緩い抱擁が解かれて、暖かい体温が離れてゆくのを少し惜しく思いながら、葛馬はリビングへと足を向けた。
 綺麗に片付いたリビングの白い革張りのソファの脇にスポーツバッグを置いて、ソファに腰を下ろす。
 スプリングの利いた背もたれにぼすっと背中を預けて。
 その仕草に最初はこの真っ白なソファを汚してしまうのが怖くて腰を下ろすことさえ躊躇っていた自分を思い出して思わず笑ってしまった。
 いつの間に、こんなに楽にここに居れるようになったんだろう。
「……どうかしたの?」
「ん、なんでもね」
 湯気を上げるカップが乗ったトレイを手に戻ってきた男が首を傾げるのに笑いながら小さく首を振る。
 スピット・ファイアは楽しそうに笑う葛馬にますます訝し気な表情を浮かべて、けれど次の瞬間ふっと口元を緩めた。
「……カズ君、よく笑うようになったよね」
 茜色の瞳を細めて嬉しそうに呟くのに、葛馬の頬は一気に赤く染まった。
「………そ、かな?」
 赤くなった頬を隠すように、誤魔化すように頬を掻いて首を捻って見せる。
 テーブルにいい香りのする珈琲と白いまぁるい箱が置かれるのを視界の隅に入れながら、葛馬はちらりと男の方を伺った。
(…………反則、だよな)
 スピット・ファイアの笑顔は強烈だ、と思う。
 恋人になって一緒に過ごす時間が長くなって、慣れたと思ったらそれと同じだけ……否、それ以上に彼の笑みはキョーレツさを増して、だから今でも到底平然と受け止めることなんか出来ない。
 こう言う時、スピット・ファイアは愛しくてたまらないと言うような、見つめられてるだけでじんわり耳が熱くなってきそうな目で葛馬を見る。
 それが嬉しくて、でも恥ずかしくて。
 逃げ出したいような、けどずっとこうして居たい様な、そんな矛盾する感覚は彼に逢うまで知らなかった。
(……だから、俺もダイスキ、なんだ)
 恥ずかしくてなかなか口に出せないけど、全然釣り合わないと思うけど、男同士だけど。
 でも別れることなんか全然考えられないし、もっとずっと一緒に居たいと思う。
「Happy Valentine……って言うのかな。はい、チョコレート。貰ってくれる?」
 綺麗な長い指が白いリボンを解いて、丸い箱の蓋が取られる。
 中から姿を現したのはいくつ物ハートを寄せてホール状にしたチョコケーキだった。
 濃厚なチョコレートを思わせる深い色合いで、見るからに美味しそうだ。
「わ……」
 ちょっと可愛くて、ベタ過ぎて思わず笑ってしまいそうになる。
 けどそれさえ擽ったくて決してイヤではなかった。
「フォンダンショコラなんだけど、いかにもバレンタインで可愛かったからこれにしてみました。ケーキが甘そうだから飲み物は珈琲にしたけど、甘い方が良かったら言って? ミルクもあるから……」
 ケーキを取り出して、小皿に取り分けてゆくのを見て、葛馬は慌てて男の腕を押さえた。
「どうしたの? カズ君、甘いの好きだったよね?」
「……好き、だけど、ちょっと、待って」
 訝る男の腕を押さえたまま途切れ途切れに告げる。
「あ、あの、あのな? スピのに比べたら全然、安物だし、コンビニだし、美味しくないかもしんねーけど、でも流石にさ、チョコ売り場に足、運ぶ勇気、なくてさ」
 パーカーの大きなポケットに突っ込んであるものを思って、必死で勇気を振り絞った。
「で、でも、俺もお前にちゃんと、渡したくて。お前甘いの、好きだし。だから、その……」
「………………」
 黙って、しどろもどろで聞き取りにくいだろう葛馬の言葉を待ってくれているスピット・ファイア。
 だから、大丈夫だと思った。
 大切なのは気持ち、だ。
「……コレ、やるッ!!」
 ごくりを息を呑んで、覚悟を決めてガッと思い切り握り締めた箱を男の胸の前に突き出した。
 それはコンビニで買った、それでも一応バレンタイン仕様のチョコレート、だった。
 これを買うのでさえ、わざわざ普段行かない遠くのコンビにまで足を運び人目を忍んで、それでも店員が不審な目で見ているような気がして心臓が縮むような思いをした。
 今の葛馬の精一杯、だった。
「……あ、あんまいいのじゃねーけどッ!?」
 気恥ずかしいのを誤魔化そうとしてさらに言い訳を募ろうとしたが、ぎゅっと抱き締められてしまって言葉が詰まってしまった。
「………ありがとう、カズ君。すごく嬉しい」
「………………」
 耳のすぐ傍で、溜息みたいに囁く声が聞こえて葛馬は顔から湯気が出そうな思いでぎゅっと目を瞑った。
 無意識に、身体の力が抜けて、くったり相手に寄りかかる。
 ……今しかない、と思った。
 いつも言ってもらってばかりで、ちゃんと伝えていない分、ちゃんと伝えなくちゃいけない。
 恥ずかしくて死んでしまいそうだけど、でも今日は特別、だ。
「……あ、あのな? 俺、お前のこと、好きだから。ちゃんと、好きだから」
 相手に聞こえるか聞こえないかの微かな声に。
「うん、僕も……大好きだよ。」
 けれど彼はちゃんと応えて、多分きっとチョコより甘いキスをくれた。

― END ―


初めてのバレンタインデーネタでした。
バレンタイン&5万HIT記念で期間限定フリー配布していました(現在はお持ち帰り不可です)。
2008.02.02

戻ル。