スピット・ファイアのマンションでシャワーを借りるのは初めてじゃない。
 練習が学校である時は運動部用のシャワーブースを拝借するのだけれども、いつも学校で練習をするとは限らないからだ。
 練習熱心な葛馬のこと、当然の如く練習が終わる頃には汗だくで。
 そのままじゃどうにも気持ち悪いし、第一コイビトに会いに行くのに流石にそれはちょっと、と思う。
 それで一度家に帰って汗を流して来るから少し遅くなる、とメールを送ったのが最初だった。
 ならうちでシャワーを使えばいいよ、と誘われたのだ。
 躊躇いもあったのだけれど、その方が一緒にいられる時間も長くなるしと言われて、折れた。
 恥ずかしいとか流石に図々しいのではないだろうかとか、色々考えたのだけれど、結局のところ。
(俺だってできるだけ一緒にいたい、しさ……)
 でもこんなことは、初めてだった。
 俯いて目を閉じ、シャワーの下で髪を泡立てていた葛馬は最初、蛍光灯が切れたのだと思った。
 瞼の裏に映る光がチカチカと揺らめいて、フッと辺りが暗くなったからだ。
「っ、あれ……」
 そうじゃないと分かったのは、慌てて顔についた泡を洗い落として顔を上げてからだった。
 脱衣所も暗いし、さっきまでキレイに光り輝いていた夜景もすぅっと闇に溶けていく。
(停電……? 事故でもあったのかな……)
 台風と言う天気でも季節でもない。
 ぼんやりとそう考えて、それからお湯が温くなりはじめていることに気付いた。
「ヤベ、ここもオール電化じゃん!!)
 貯湯タンクにお湯がある間はいいが、それも長持ちしないだろう。
 さっさと泡を洗い落とさなくてはこの季節に水浴びと言うことになりかねない。
 葛馬は慌てて温くなり始めたシャワーに再度頭を突っ込んだ。


 夕食の支度をしていたスピット・ファイアは、突然落ちた照明に茜色の瞳を瞬かせた。
「あれ……」
 台風でもないのに停電、だろうか。
 窓の外を見れば空は綺麗に晴れて、数キロ先のビル郡には煌々と明かりが燈っている。
 どうやら局地的な……突発的な停電のようだ。
(パスタを入れる前だったのが不幸中の幸いかな……)
 岩塩の瓶を置いて、溜息を一つ。
 このマンションはオール電化で、こういう事態には非常に弱い。
 電気コンロの上ではまだ大きなパスタ鍋がぐつぐつ余韻に音を立てているが、それもやがて大人しくなってしまうのだろう。
「えーと非常用の……あ!」
 非常用の懐中電灯がどこかに常備されていたはずだと大きな窓から射す僅かな月明かりの中ぐるりと辺りを見渡したスピット・ファイアはしまった、と小さく息を飲んだ。
 葛馬がまだバスルームから出てきていない。
 当然風呂場も暗いはずで、シャワーだってすぐにお湯が出なくなるはずだ。
(急がないと……)
 慣れた自室でもあることだし、幸い夜目は利く方だ。
 然程時間をかけずに懐中電灯を探り当てたスピット・ファイアは、急ぎ足でバスルームへと向かった。
「カズ君、大丈夫?」
 ガラス越しに声をかけると、擦りガラスの向こうに浮かぶ白い裸身がびくっと跳ねるのが分かった。
 水音がしているところを見るとまだシャワー中らしい。
「停電しちゃったみたいなんだけど、お湯、冷たくない? すぐ冷たくなると思うから、急いで上がった方が……」
「わーってる!!」
 怒鳴るような声が返ってきて、目を瞬かせる。
「……泡のまま上がってきちゃってもいいよ? すぐ復旧するだろうし、それから片付ければいいから……」
「わかってるって! 其処に入られるとあがれねーだろ!」
 声が少し、震えている気がする。
 気にはなったが、強情で恥ずかしがり屋の葛馬のこと。
 スピット・ファイアがここにいる以上、梃子でもでてこないだろう。
「ごめんね? 懐中電灯、置いておくから。早めに上がるんだよ?」
 仕方が無いと小さく嘆息して、なるべく常と変わらぬ穏やかな声を向けてスピット・ファイアはバスルームを後にした。


(さて、どうしようかな……)
 葛馬が出てくるまでに暖かいものを用意しておきたいところだが、電気が使えないのではそれも難しい。
 精々沸かしてあった鍋のお湯でココアを入れるぐらいだろうか。
 お腹も空いているはずだから、何か火を使わないものを考えなくてはならない。
 レンジも使えないから冷凍物もアウト、となれば有り合わせの材料でサンドイッチを作るのが精々か。
(パストラミがあったはずだから……あとはチーズとレタスと……)
 もう一つ見つけてきた懐中電灯を机に置いて、簡単な軽食の準備を始めたのだけれど。
 ……葛馬が一向に、上がってこない。
 だんだん不安になってきて、もう一度様子を見に行こうかと思った時だった。
 ぺたぺたと廊下を歩いてくる音がして、ホッと安堵の息を吐く。
 けれど次の瞬間、スピット・ファイアは眉を吊り上げていた。
「カズ君!?」
「っ……」
 シンプルなパジャマに着替えて、スリッパを引き摺るようにして歩いてきた葛馬は、見るからに寒そうに震えていたからだ。
 懐中電灯を向けると、夜目にも顔色が悪いのがわかる。
 慌てて駆け寄って手を取ると、冷たい雨にでも打たれてきたかのように冷たくて、舌打ちをしたいような気分になった。
(無理やりにでも引き摺りだしておけば良かった……!)
 流石にそれは拙いかと思ったのだが、彼の頑固さを少し甘く見ていたかもしれない。
「……どうしてそんなになるまで入ってたの?」
 自然と語気が強くなってしまって、びくっと驚いたように細い肩が跳ねた。
「そ、その、ごめっ……」
 ガチガチと歯が小さく鳴っている。
 寒いだけではなく、スピット・ファイアの剣幕に驚いている所為もあるらしいことに気付いて、スピット・ファイアは慌てて掴み締めてしまっていた手を緩めた。
「か、髪洗ってる途中、だったし……まだ身体も洗ってな……っ、くしゅッ」
 幾らそのままでいいと言われたって、嫌なものは嫌だ。
(汗臭いとか思われたく、ねーし……)
 どうやら恋する乙女心……もとい、オトコゴコロが冷たいシャワーに勝ったらしい。
 元々の潔癖症も大いに関係しているのだろうけれど。
「……ごめんね?」
 まるで捨てられた子犬のように震える葛馬に、スピット・ファイア密やかな嘆息を零して細い身体を抱き締めた。
 ひんやりと冷たくて、何かしてしまったわけでもないのに罪悪感にも似た感覚に襲われる。
「……っ、ピ……?」
 細く小さな声がして、スピット・ファイアは慌てて顔を上げた。
「ッ、ごめんね? ええと、今何か温まるものを持ってくるからとりあえずリビングに行って、まだ少し暖かいと思うからホットカーペットに座ってて?」
 まだ震えている葛馬をリビングに押しやり、少しでも体が温まるようにとまだ暖かいお湯でインスタントのコーヒーを入れる。
 ミルクと砂糖に加えて体が温まるように少し多めにウィスキーを投入し、ホットカーペットの上に引かれたラグの上に所在無く座り込んでいる葛馬に両手でしっかりつつみこむように持たせた。
「あ、ありがと……」
「ウィスキーが多めに入ってるから、少しづつ飲むんだよ?」
 柔らかく囁かれて、葛馬はこくんと小さく頷いた。
 彼がそのまま立ち上がって、急ぎ足に離れていくのをぼんやりと見送って、少し寂しい様な心許無い様な気分で視線を落とす。
 ここはスピット・ファイアの部屋で、不安になることなど何も無いはずなのに。
(や、コイビトの部屋で凍えるのはかなり予想外だけど……)
 突発的な事故だし、自業自得な部分もあって……でも流石に、この子供扱いは無いんじゃないかと思う。
(うぅ、みっともねー……)
 でも震え上がるほど寒くて、口を聞くのも億劫で、指先に伝わるカップの暖かさが心地良いのは事実だった。
 その上辺りは暗いし、練習で疲れているしでだんだん眠くなってくる。
 でもお腹はきゅーきゅー悲鳴を上げているし、このまま寝たらコーヒーを零してしまう。
 そう思って堪えていたら、カタンと小さな音が聞こえて、葛馬は閉じかけていた瞼を開けた。
 ラグの上のガラスのローテーブルの上に、フランスパンに肉やレタスの挟まれた美味しそうなサンドイッチの盛られた皿が置かれた音だった。
 慌てて視線を上げると、隣にスピット・ファイアが腰を下ろすところだった。
 ソファを背凭れに肩に毛布を羽織るように広げて、緩く足を開いて。
「こっちにおいで」
 彼は躊躇いも臆面もなく、その足の間を指し示した。
「……ぇ!?」
 其処に座るように促しているのだと気付いて、白かった葛馬の頬がさっと赤く染まった。
「寒いでしょ? ここが一番温かいよ」
「やや、やだっ」
「……どうして?」
「…………は、恥じぃ」
 俯いて、ぼそぼそと返した葛馬に。
 彼はにっこり、いっそ胡散臭いほど綺麗に微笑んだ。
「じゃあ言うこと聞かなかったお仕置きと思って、我慢しようか?」
(……やっぱ怒ってんじゃねーか!!)
 それに、確かに温かそうではあるのだけれど、でもくっついたらスピット・ファイアの方が寒いんじゃないだろうかと思う。
 ぐずぐずと躊躇っている葛馬に、スピット・ファイアは誘う様に甘い声を向けた。
「……お腹も空いたでしょ? こっちにこないとあげないよ?」
 その声に反応するかのように、ぐぅ〜っと、大きくお腹が鳴った。
「うぅ……」
「…………」
 思わず噴出しそうになってしまったが、ここで笑うと拗ねてしまうかもしれない。
 とにかく早く捕まえてしまわなくてはと思ったスピット・ファイアは、笑いを堪えて穏やかな笑みを向けたまま彼が動くのを待った。
 コーヒーのカップを握ったままだから無理やり引き寄せるわけにも行かなかったからだ。
(もう火傷って温度じゃないだろうけど……)
 もし零して被ったりしたら大変だ。
 おずおずと近寄ってくる葛馬の手からそうっとまだ殆ど中身の減っていないカップを取り上げてテーブルに置くと、スピット・ファイアはよいせとばかりに勢いをつけてその身体を引き寄せた。
「わっ、ちょっ」
 慌てて逃げようとするのを両手で膝の間に座らせて、毛布ですっぽり包み込む。
 冷たくて細い身体に小さく息を呑んで、けれど怯むことなくその肩口に顔を埋めた。
 冷たい項から、仄かにシャンプーの香りがする。
「あーぁ、こんなに冷えちゃって……」
(……ひー!!)
 耳元で囁かれて、葛馬は逃げ出したいのを堪えてぎゅっと瞼を瞑った。
「………温まるまでこのままだからね?」
 頬を摺り寄せられて、あったかいのやら擽ったいのやら恥ずかしいやらで顔から火が出そうだ。
(た、確かにすぐあったまる、かも……い、色んな意味で……)
 恥ずかしいは恥ずかしい、のだけど。
 いつまでも縮こまっているわけにも行かない。
 葛馬は小さく息を吐くと、ゆっくりと手足の力を抜いて背後の男に背中を預けた。
(ぁ……)
 肩口でふわりと彼が笑う、嬉しそうな気配がする。
 それが嬉しくて、葛馬はおずおずと背後の男に擦り寄った。


「……ん……ぅ……?」
 もぞりと寝返りを打ちかけて、けれど抱き込まれたままの体勢ではそれもままならず……どうやらスピット・ファイアを座椅子代わりに眠ってしまっていたらしいと気付いて葛馬は慌てて身体を起こした。
 身体が少し温まったところでサンドイッチと温くなったコーヒーで簡単に腹拵えをしたのだが、どうやら身体が温まったのとお腹がくちくなったのが相俟って睡魔に襲われてしまったらしい。
「……あ、起こしちゃった? ごめんね?」
 片手で携帯電話を弄っていたスピット・ファイアはそれを机に置いてふんわり綺麗に微笑んだ。
「や、ちげーけど……ぁ……電気、復旧したんだ?」
 見れば辺りはもう明るくて、窓の外も蛍光灯も何事もなかったかのように浩々と輝いている。
「………起こしてくれればよかったのに」
 まだどこか眠そうに目元を擦る仕草に、スピット・ファイアはくすりと小さく笑った。
「カズ君、良く寝てたからね」
 時計を確認すると、停電してから二時間ほど経っている様だった。
 その間ずっと、彼を背凭れにしていたのかと思うとすまないやら気恥ずかしいやら、だ。
「そうそう、今メールをもらったんだけど……さっきの停電、近くで酔っ払ってATで無理して、電線引っかけちゃった子がいたみたいなんだよね」
「マジ!?」
「うん。この辺りはボルケーノのチームエリアだからそういう子が紛れ込むことは滅多に無いんだけど……」
「つかそれかなりやばくね!?」
 ひょっとして死、と脳裏に過ぎったのだけれど。
「幸い命に別状はなかったみたいだよ。ATは大破して、本人も怪我したみたいだけど……」
 怪我ですんだのか、と思ったけれど。
 よくよく考えたらイッキも似たようなことをしていた気がする。
(ATってスゲーんだなー……)
「カズ君はそういう無茶しちゃ駄目だよ?」
「しねーよ、イッキじゃあるまいし!」
 くしゃりと頭を撫でられて、葛馬は唇を尖らせてその指先から逃げ出した。
 なんだかおかしくてクスクス笑いが漏れて、それが伝染するみたいに楽しい気分になる。
「それじゃあ、何か軽く温かいものでも作ろうか。少し遅いけど、軽くしか食べてないからお腹空いてるでしょ?」
「手伝う!」
 立ち上がるスピット・ファイアの後を追って、葛馬も立ち上がり。
 二人は夕食の準備がやりかけのキッチンの方へと歩んでいった。
― END ―


 風呂が壊れて、冷たい水を引っ被って出来たネタです。色々迷ったのですが意外に長くなりました(笑)。
 いや、うちはお湯そのものが出なくなったんですが(そして無理やり出そうとして若干水を被った)。
 停電理由&時期に関しては適当ですので流してください……(笑)。
 二人が会ったのが春で、夏には全部終わりそうなので実際秋口と言うのは有り得ないんですが、そこは二次創作と言うことで……!
 ちなみに待宵草の花言葉には「浴後の美人」とゆーのがあるそうです(笑)。
2007.11.03

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