人の気配さえ薄い静かな空間にパソコンの微かな駆動音だけが響いている………静かな、静かないつもの午後。 スピット・ファイアはオーディオルームのローソファに座って溜まった映像データの整理を行っていた。 けれど一人というわけではなく、葛馬が遊びに来ている。 遊びに来ているのに珍しく隣に姿がないのは、彼が今一人でキッチンで食材と格闘中だからだ。 今日は俺が晩飯を作る、と勢い込んだ葛馬に追い出された形となったスピット・ファイアは、手持ち無沙汰にデータを弄り始めたのだったが……。 「……わぁっ!?」 10分もしないうちに突然、静かな室内に高い悲鳴と重いものが落ちるような音、金属の跳ねる音、水音、幾つもの音の混ざり合った不協和音が響いた。 「……!?」 突然のそれにはっと顔を上げて、スピット・ファイアは慌てて立ち上がると音のした方向、キッチンの方へと足を向けた。 子供ではないのだし、特に危険はないだろうと思っていたのだが尋常ではない音だった。 いったい何が起こったのか……。 「………カズ君? 今の音……」 恐る恐る覗き込むとキッチンでは床に座り込んだ葛馬が眉を顰めて頭を掻いている所だった。 「……ってえぇ……」 床には鍋とボウル、小さな紙パックがひっくり返り、その中身がぶちまけられていた。 葛馬の胸にも鼻先にも白い液体が散っている。 床に落ちた紙パックからはまだとくとくと音を立てて中身が流れ出していた。 「大丈夫? 怪我は?」 状況はよくわからないものの、とりあえず足元に出来た液溜りを避けて駆け寄りまだ呆然としている様子の葛馬を覗き込む。 「……多分、ないと、思う……」 見たところ特に怪我もないようで、ホッと安堵の息を吐き……スピット・ファイアは小さく息を呑んだ。 髪にも、鼻先にも、白いモノが散っていて、なんだか非常にアレな感じだ。 「……………何が起ったのか、説明してくれるかな?」 小さく頭を振って、彼から視線を外したスピット・ファイアは改めて辺りを見回して床に落ちた紙パックを拾い上げ、なるべく感情の色を押えた声で尋ねた。 「………」 びくっと小さな肩が揺れる。 (………あ、怖がらせたかな……?) 小さな動きに、手を伸ばしてぽんぽんと軽くその背中を撫でる。 「……怒ってないから、言ってご覧」 気まずそうに黙り込む少年にスピット・ファイアは再度、今度は努めて柔らかく声を重ねた。 今回は怪我がなかったからいいようなものの、また同じことを繰り返されては心臓が幾つあっても足りない。 キッチンには刃物もガスもガラスも、危険なものは幾らでもあるのだから。 「……キッチン、立ち入り禁止にするよ?」 その言葉に葛馬はぐっと唸って俯いた。 「………あそこにあった鍋、取ろうと思って……」 不承不承といった様子で顔を上げた葛馬が指差したのはキッチンの上の収納だった。 180を軽く超えるスピット・ファイアなら余裕で手が届く、けれど160半ばの葛馬では背伸びして届くか届かないかの微妙な高さだ。 おそらく無理をしてバランスを崩したのだろうということは簡単に想像がついた。 「……届かないなら僕を呼ぶか、せめて椅子を使いなさい」 「………届くと、思ったんだよ」 言い聞かせるようにそう言ってぽんと頭に掌を乗せれば悔しかったのか葛馬は拗ねたように唇を尖らせる。 (……大人と子供なんだから当たり前なんだけどねぇ……) 葛馬はまだ成長途中で、中学生なのだから背が低いのだって当たり前で、けれど対等で居たくて一生懸命背伸びしている様が微笑ましくて、愛しい。 だから当たり前のことなのに、それを指摘しない自分は卑怯だろうか。 「……生クリーム? 何作ろうとしてたの?」 頬に飛んだ白いものを親指で拭って口に運べば白い頬が真っ赤に染まった。 「………ク、クラムチャウダー」 ボウルの中から散らばったのは水煮のアサリだったらしい。 仄かに磯の香りも漂っている。 「後は僕がやっておくから、シャワー浴びておいで」 「……あ、いや、片付け手伝うし! つーかゴメン、床汚したし……ええと拭くものは……」 促されて、我に返って葛馬は慌てて辺りを見回した。 生クリームとアサリの水煮が白い床に散らばって酷い惨状になっている。 幸い刻んだ野菜類は無事のようだが、アサリがなくてはクラムチャウダーにならないし、いやそれよりも問題は床だ。 「………いいから、シャワーに行ってきなさい」 半ばパニックになっておろおろと視線を揺らしていたら、珍しく少し強い声がかけられて、葛馬は驚いて目を瞬かせた。 「………ここは大丈夫だから、ね?」 「……ぇ……あ、うん……」 一転何時ものように柔らかく、前髪を掻き上げられる。 緩く額に口付けられて、腑に落ちない表情のまま葛馬は立ち上がった。 「……うわ、やべっ!」 途端ぽたぽたと水滴が滴って、慌ててパーカーを脱ぐ。 「悪い、シャワー借りるなっ!」 それ以上床を汚さないよう濡れた場所を内側に包むように抱えて、上半身裸の格好で葛馬は慌ててシャワールームへと向かった。 「………………」 ばたばたと駆けて行く後姿を見送って、その姿が見えなくなったところでスピット・ファイアは大きな溜息を吐いた。 掌で額を押えて、無言のまま緩く頭を振る。 「……………危なかった」 珍しくのそのそと億劫そうな動きで立ち上がるとボウルと鍋を拾い上げ、片付けを始める。 その間、呪文のように口の中で口返し呟いていた言葉は。 「………相手は中学生、中学生……」 ……だった。 あらかた片付けを終えたところでふーと再度溜息を落とす。 「………落ち着け、僕……」 最近の中学生は進んでいるとは言うが、普段の言動を見るに葛馬はそういうタイプではない。 キス一つで息を詰め、触れられれば顔を赤くする。 そんなところも可愛くて、愛しくて、大切にしたいと思っている。 怖がらせたくないし、傷つけたくも、泣かせたくもなければ、それで嫌われてしまうのも嫌だ。 ……同性であるからこそ尚、慎重に進めていかなければと思っている。 (…………だから……) ………まだ早い、とは思うのだ。 けれど、時々堪らない。 さっきだって目の前であまりにも無造作に汚れたパーカーを脱いで行ってしまった。 (…………わかってるのかな……) 一応恋人と二人きりと言う状況なのだが、それにしてはあまりにも無防備すぎはしないだろうか。 「…………」 呆然と見上げてくる青い瞳を思い出す。 白い液体に塗れた指先、唇、赤くなった頬。 なんだか違う場面を想像してしまいそうで、掌で口元を覆う。 (…………落ち着け……) 「スピット・ファイア……って何やってんの?」 頭の中に浮かんだ映像を振り払うかのようにぶんぶんと頭を振ったところで後ろから声がかけられて、スピット・ファイアはぎくっと肩を揺らした。 「………あ、いや……何でも……」 誤魔化すように笑みを浮かべて振り向いて。 「………………ってカズ君、なんて格好を……」 スピット・ファイアは其処にあった光景に表情を凍り付かせた。 「……あー結局上も下もアサリ汁かかっちゃってて駄目だったから」 苦笑いを浮かべて頭を掻く葛馬は腰に大判のタオルを巻いたきりの姿だった。 ついでに髪の毛も水を吸って少し重く濡れて、湯上りで肌はほんのり紅く上気している。 「一応水洗いしてきたんだけど……後で乾燥機借りていい? あとその間着るもん貸してくんね?」 無造作にそう言って首を傾げる仕草に、がっくりと肩を落とす。 「……カズ君、ひょっとして僕の忍耐力を試してないかい?」 「………へ?」 きょとんとした表情で首を傾げる葛馬が、今は少しだけ憎らしかった。 (………これがワザとだったらひん剥いちゃうんだけどなぁ……) スピット・ファイアの苦悩はまだ終りそうにない。 ― NEXT ―
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葛馬の無防備さに己と葛藤するスピ……と言うことで、色々とやってみた……のですがあまりエロくさくならなかったのが残念です…(笑)。 もうちょっと色気が出せるとよかったのですが……少しでも楽しんでいただければ幸いです。 続き書いちゃいました…! |