函館・街並み色彩まちづくり


柳田良造

 公会堂と元町公園


 上下和洋折衷町家

時層色環
大町郵便局色彩変遷
山内家住宅色彩変遷
大三坂のピンクの建物群
津軽海峡に突き出された函館山と巴型の港、それを起点に扇が広がるように延びる市街地、江戸末期の開港場の伝統を今に伝える洋風の街並み群と坂道、函館は今も特徴的な環境がそこで生活するひとの日々の暮らしの舞台となる街である。そういう環境のなかで、かつてのような活気はないが、ハイカラで味わい深い暮らしぶりが生活の中に息づいている。風景を通して、市民が街のありようや変化を感じとり、日々の暮らしから街への思いをめぐらす。そこでは、街の風景の変貌は敏感に市民の日常生活での変化につながる。本来街にくらすとはそういうものであったはずである。生きられた風景を市民が経験していくには、日常生活のなかで街の体温や鼓動を感じることが必要となる。

街並み色彩発見

函館山の麓、西部地区と呼ばれる界隈には、明治から昭和初期にかけての洋風、和洋折衷様式の歴史的建物が数え切れないくらい多く残っていて、私たちはその歴史的な街並みを現在も目にすることができる。それらの建物は下見板の外壁や窓、軒の装飾に、緑、ピンク、ベージュ、白、水色、茶、黄色など様々な色のペンキが塗られ、楽しげで個性的な街並みを港周辺や坂道に沿ってつくりだしている。
この下見板のペンキ色彩にこだわって函館の歴史的街並み探索に取り組んだ市民グループに「元町倶楽部・函館の色彩文化を考える会」がある。
グループの活動が始まるきっかけのひとつは1983年に遡る。重要文化財旧函館区公会堂が文化庁の綿密な調査のもと、大規模な保存修復工事が行われ、創建当初、明治43年の姿に復元された。建物の修復とともに、外観の色彩も変えられ、それまでの白とピンクの色彩が青灰色と黄色の何とも鮮やかな創建当初の色彩に復元された。これは函館市民にとっては事件ともいえる出来事であった。明治の洋風文化の建物色彩はなんと大胆で強烈なものなのか。もしかすると戦前の函館には今では及びもつかないようなハイカラな色彩の街並みが形成されていたのではないか。われわれの想像力は大いに膨らんだのである。
またある時仲間のひとりが歴史的な下見板建築の外壁を観察していて、壁や窓枠に何層にも塗り重ねられていたペンキの層を発見した。過去の時代に塗られた色が外壁のペンキ層に今も残っている。「この古い下見板に残ったペンキの層は時代の色を証言する歴史の生き証人ではないか」。この仮説を実証的に明らかにしようと、西部地区の住民や公務員、建築家などからなる元町倶楽部のメンバーがトヨタ財団主催の「身近環境を見つめよう研究コンクール」に応募したことが函館街並み色彩学研究のスタートとなった。
色彩調査に関しては素人集団である元町倶楽部のグループは文化財保存の技術者として、当時ハリストス聖教会の修復事業で函館に滞在していた麓氏を訪ねた。麓氏を指導教師に、洋風下見板建物の下見板や窓枠に塗られたペンキの層を分析するサンドペーパーをつかった「こすり出し」手法を伝授してもらった。その手法はまず荒い目のサンドペーパーをつかって、ペンキの層を表面から下の木地の部分までこすっていく、すると塗り重ねられたペンキの塗膜が削られて次々と表面に出てくる。次に目の細かいサンドペーパーをつかって削ったかたちを整え、最後にスポンジの水できれいに表面をぬぐう。するとペンキの層が樹木の年輪のようにくっきりと下見板や窓枠の中に浮かび上がる。その何とも不思議な色彩の年輪をペンキ色彩を通して時代、環境、生活の様相を表すものとして「時層色環」と名付けた。「時層色環」はいわば偶然の産物にすぎないが、建物毎に顔をもち、そこには建物とともに生きてきた人たちの思いがつまっているように思えたのである。
次に調査はペンキ見本と照らし合わせながら、「時層色環」各層の色を記録し、さらに色彩補正用のカラーチャートと一緒に写真をとり、最後は補修用のペンキで表面を元の色彩に合わせて塗り戻し、一連の作業が完了する。函館で収集した「時層色環」は全部で85棟分である。分析の結果「時層色環」のペンキの層は最も多い建物で21層もの層があらわれ、平均でも8〜9層のペンキ層が現れた。その層の数と建設年代から、ペンキの塗り替えは多いもので数年に一度、平均で10年程度に一度の割合でペンキが塗られていることがわかった。ペンキの色彩は一つの建物でも、めまぐるしく変化し白、グレー、黄色、緑、青、ベージュ、茶、と様々な色彩がつぎつぎと変化していくものがあった。後に「こすり出し」調査はアメリカのボストンやサンフランシスコ、神戸の異人館群にも遠征していくことになり、それらの分析から函館のようにめまぐるしく色彩が変化する「時層色環」はかなり珍しいということがわかってくる。しかし当時は建物のペンキ色彩とは塗りかえ毎にこんな変わるものだということに、驚ているばかりであった。
分析作業はさらに、ペンキ材料の化学分析や建物所有者やペンキ業者などへのヒヤリングによるペンキ各層の時代判定とCG(コンピューター・グラフィックス)による色彩シミュレーション等から、85棟の建物の層毎の色彩をベースにした明治から現代に至る時代の街並み色彩の変遷年表をつくる作業に取り組んだ。また色彩の変遷年表をまとまった時代の区切りごとに地図にプロットし、場所と時代から色彩の特徴がつかめるような資料もつくったそれらの一連の分析結果から、函館の下見板に塗られたペンキ色彩からみる街並み色彩は●白の時代の<明治>、●多色の時代の<大正・昭和初期>、●迷彩色など暗色の時代の<戦時中>、●パステルカラーの時代の<戦後>、●塗り分けの時代の<現代>と、5つの時代区分とその時代色が読みとれることがわかってきたのである。
函館の街並み色彩変遷の要因は戦前までの、建築様式の変化、ペンキの輸入品から国産化、戦争などの歴史的背景に起因するものと、戦後の油性塗料から合成樹脂塗料などのペンキ製造の技術の変化、アルミサッシやトタン屋根、サイディングの普及など建物自体の改造に係わり変化したものと大きく二つの背景をもつ。

明治中期の函館の彩色絵葉書:石黒コレクション蔵
特に後者の建物自体の改造が函館の「時層色環」が大きく変化する要因の一つといえよう。つまり屋根、窓、壁など、当初に比べ意匠が大きく変わった場合、色彩もオリジナルなものから離れ、時代毎の流行などの要因を受けやすかったといえるのである。ボストンや神戸の例では、外観意匠の変化のない建物は、色彩変化の幅も小さく、そのサイクルも函館のようにめまぐるしいものではないのである

自己表現としての街の色彩

一方、そういう様々な時代背景や変化の要因のなかで、実際の色彩選択は住民の手でどのようになされてきたのか、もう一つの興味深いポイントであった。地域の建物所有者の色彩への関心は高く、ほとんどの場合色彩の選択は自ら決めているということがヒヤリング調査からわかった。色彩の選択は、「港をイメージする明るい色として」、「公会堂や学校などの有名な建物にあこがれて」など場所や建物のイメージから選ばれた場合や、「娘がいるのでピンクのかわいらしい色を選んできた」、「建物の輪郭を白くして建物を大きくみせたい」など家のイメージを表現したものとか、「塗り替えは向かいや隣と一緒にし、色も同じもの」、など隣近所との関係で選んだもの等、様々な視点から環境との関わりのなかで色彩を考えていることがわかった。一般の住宅地でよくいわれる、汚れが目立たない色、落ちついた色、飽きのこない色等の消去法的な発想で色が選ばれることがほとんどないのである。ピンクや青、緑、黄色など一般の住宅地であまり使われない色彩も函館の歴史的建造物に塗られると実際実に映えるし、楽しい街並みをつくりだす。函館の街の風景の中では、ペンキ色彩はささやかだが、楽しい自己主張の表現となっているのである。かっては塗装業者がペンキ缶を自転車に積んで街中を巡り、外壁の塗装が痛んでいる建物を見つけると塗り替えを進めて回っていたという。手づくりで住民たちが街の色彩を考え、つくりだしていく条件もまた備わっていたのである。それは、ある高齢の女性の「私はこの家に嫁入りした時の建物の色をよく憶えている。・・・20年前、周辺にピンクの建物が多くあり、自分もピンクが良い色だと思ったのでそれを塗ることにした。ピンクの色は気に入っているので今後もピンクを塗ろうと思う。」という言葉に象徴的に表されている。
従来の街並み色彩の考え方は、地域の土、植物、空、海、山などの自然環境そのものの中に見いだされる色や、風土の中から建築の素材、例えば瓦(土の色)、白木(木の色)、漆喰(石灰の色)にみられる色など−これを「自然色」と呼ぶ−をベースとし、それに対して色彩科学の発達の中からうみだされたマンセル、オスワルト、スペンサーらの「科学色」、この「自然色」と「科学色」の2次元的な関係で決定される調和論の世界であったといえよう。それに対し函館の街並み色彩の変遷のなかから読みとれるものは、歴史的条件や環境などの地域の文脈の中で、個人によって自己表現として選択されている色彩の世界があるということを確認できたものといえよう。
ペンキが単に建物を保持する道具ではなく、人々が意志を表現する道具でもあるということがわかってきたのである。まわりと調和して生きたいとか、公会堂の色にあこがれてとか、動機はそれぞれにあろうが、そこに人々の自己表現が見えてきたのである。ペンキの色彩にこめられた地域にすむ人々の街への思い、色彩に託した楽しい自己表現のあり方は我々の函館の街に対する再発見をもたらしたのである。

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