NANA
2005年11月20日作成
最終更新日 2006年1月8日

「はじめに」

 ここ数年(現在も)コミックランキングを賑わすタイトルだったので、気にはなっていた。それが、とあるきっかけで購入してからというもの、すっかり「NANA」にハマってしまった。流石に伊達や酔狂で累計2900万部突破してないな、と今更ながら感心している次第である。



「ハチに対する印象」

 「ああ、これが当たり前のものを当たり前に与えられた人の発想だ」ということを、ハチこと「小松奈々」を見ていて思った。というより、思い知らされたというべきか。口煩いけど、優しさに包まれたどこにでもありそうな暖かい家庭。それは、現在もかなりの確率で普通に存在する。そんな当たり前の幸せに浸っていたからこそ、ハチも同じような幸せになりたいと、無意識に願ったのかもしれない。
 表向きこそ普通の若い娘という感じのハチ。まあ、実際は恋愛に関しての妄想癖が人並みはずれていたことが、良くも悪くも個性だったりする。ハチ自身はもちろん、自分にとって大切な存在に対する執着心が、最初の頃はうっとうしく思っていた。ただ、殺伐とした世の中である現在を鑑みると、幸せになる為にはそれくらいの気概で挑まないと、非常に難しいものかもしれない。
 現状(13巻)でもハチは料理が超得意なことを除けば(いや、これだけでも十分という説もあるのかも)、これといった取り柄がある訳ではない。そもそも、情にほだされ易いし、意思決定が未熟なお子ちゃまである。それなのに、立派な主役として居座れるのは、持ち前の人懐っこさで周りに取り入るからではないか。それも天然でというのが、「NANA」に登場するキャラに限らず、人は弱いのかもしれない。かくいう自分も、最初こそ手当たり次第に男を漁るハチが嫌いだった。それなのに、巻を重ねるに従って彼女の生態を見続けるうちに、だんたんと憎めなくなり、仕舞いには「しょうがない奴」なんて思えてしまうのだから不思議だ。

「作品に潜むリアリティー」

 「NANA」という作品を一言で言えば、「忠犬ハチ公成金物語(一言ではないか・・・)」ということになるのかな。どこにでもいそうな普通の女の子が、人当たりの良さを武器に、ついにはあこがれのミュージシャンとゴールイン(まだしてないけど・・・)。13巻時点での話しながらも、大まかな筋だけを見れば、少女漫画にありがちなストーリーではある。しかしながら、これまでと決定的に違うのは、喋る台詞の端々にリアリティーを感じることだ。
 普通の恋愛コミックだと、お互いが惹かれている描写を見せたりして、どこか希望を抱かせるものが多かった。現実では有り得ないようなシチュエーションで、とことん甘い夢に浸らせようとしているので、読んでて安心する。それが、「NANA」だと一筋縄ではいかない。特にメインとなるハチとナナがする恋愛のなんと不安定なことか。
 言われてみれば確かに、人の気持ちというものは、ちょっとしたことで簡単に揺れ動いてしまう。何事において完璧な人間なんているはずもなく、どこかで妥協して折り合いをつけて、付き合うものである。現実では当たり前なんだろうけど、そういうことをきっちりと描いていることが、作品の中に潜むリアリティーに直結しているのだと思う。



「事実は事実としてありのまま受け入れる(14巻)」

 どのキャラが好きだとか、どんな展開になってほしいという感情が、「NANA」では不思議といない。そればかりか、例えどんな展開になろうとも、全てを受け入れられそうな雰囲気すら漂っている。そう思わせるくらいのとてつもない説得力を、作品の中で感じられた。例えどんなに悲惨な結末を迎えたとしても、そこに至る過程で納得がいけば、それもまたありかなと。
 それを強く感じるようになったのは「人の感情はたやすく揺れ動いて、目に映るものはみんなまやかしで、そこには確かなものは何ひとつない」という言葉を14巻で見た時である。この言葉は14巻のみならず、これまで「NANA」を読んできた中で、最も印象に残った言葉である。世の中の全てが、あの言葉に込められていると言っても過言ではない。あれを噛み締めるようになってからというもの、あらゆる事象についての受け取り方が劇的に変わった。それからは何事も「事実は事実としてありのまま受け入れる(これも14巻での名台詞)」ようになった。「NANA」もそれは同様で、この先どのような展開になろうとも、自分はそれを全て受け止める自信がある。それは何故かと訊かれれば、これまでの内容が自分にとって、納得のいく展開で魅了し続けているからに他ならない。



【現在読んでいるコミック】
タイトル作者 出版社第1巻出版年度
NANA 1〜14巻矢沢あい 集英社2000年