丹波の波多野秀治をはじめ、播磨の別所長治、摂津の荒木村重らが山陽道の要所で叛旗をひるがえした事で姫路城の羽柴秀吉は敵中に孤立しかねない窮地に立たされているのが分かります。
 しかしこの後、瀬戸内海では毛利水軍が石山本願寺に対する補給を再度強行、木津河口にて織田水軍に大敗して瀬戸内海の東半分の制海権を失い、丹波方面では明智光秀らが反撃を開始します。

地図製作には「T・Kamada氏」製作のフリーソフトである白地図MapMap」で製作した物を編集させて頂きました。

 こちらには備中高松城と両軍の配陣、及び境目七城の位置です。 大体…ですので大雑把な所があるかもしれません。
 この図で見ると羽柴秀長の陣地が高松城の包囲網からやや外れた所にありますが、遺構の規模が立地の割に大規模である為、ここは信長が到着した際の本陣に当てられる予定であったと思われています。

 

 

 

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