戻る

備中高松城水攻め 

 後に天下を統一する事になる豊臣(当時は羽柴姓)秀吉の人生のターニングポイントとなった「本能寺の変」、これに大きく関わる事柄として有名なこの事件についての紹介するページです。
(今は文字だけですが分かりにくいのでそのうち図解も作ります・・・そのうちに)

 毛利・織田が戦端を開くに至った背景〜緒戦(天正6年の図

 まず・・・高松城を巡る合戦に移る前に、当時の趨勢から何故毛利・織田が戦端を開くに至ったかをかいつまんで説明しようと思います。
 事は織田信長によって京都を追放されされていた将軍足利義昭が1576年(天正4年)2月、突如として備後鞆津に下向した事に始まります。彼は毛利家に対して幕府再興をするよう御内書で通達します。 「御内書」とは将軍直々の命令書の事で、義昭はかねてからこれを各地の大名に連発で発していました。  それまで「天下を競望すべからず」という元就の遺訓を墨守して来た毛利家は将軍を自領に(半ば強引に・・・だが)かくまう事によって反織田勢力の一角に否応無く取り込まれる事となって行きます。 
 そして同年4月14日、義昭の檄文に呼応した石山本願寺が和睦を破って挙兵、毛利家はこれに物資補給を行い7月13〜4日の木津川口の海戦では織田方の水軍を破り緒戦を飾ります。  同時に前年から織田、毛利両陣営の草刈場となっていた播磨の国、上月城に毛利の軍勢3万余が押し寄せこれを包囲、山陰でも但馬方面で攻勢を掛けた他、別所長治、荒木村重らの寝返りもあって1578年(天正6年)後半までは播磨及び但馬での攻勢は有利に推移しました。 しかし、翌年には一転して守勢に追い込まれ、その年の6月には前々から懸念されていた備前美作の太守、宇喜多直家の織田家への寝返りが現実となり毛利家の戦略は完全に破綻、 以降1580年(天正8年)1月には播磨三木城の別所長治が自害し開城、同4月には石山本願寺の法主顕如が退去、翌年10月には鳥取城が落ち毛利両川の一族、吉川経家が自害、そして1582年(天正10年)3月、羽柴秀吉が2万の軍勢と共に備前沼城に入り備中征伐が開始される事となります。

 備中征伐のはじまり〜
 備前に入った秀吉は情報収集の傍ら黒田如水らを使者として高松城主清水宗治に遣わして投降を勧めている。 これに対して宗治は「自分が今日にあるのは毛利家の信頼によるものであるからそれに報いるには只、死あるのみである」としてこれを退ける。 如水は宗治の事を「戦国には珍しい男だ」と秀吉に報告した。

 織田の西進に抗する毛利家の防備
 備前備中の国境に近い足守川に沿う形で備中高松城を中心に7つの城砦が築かれ東からの侵略に備えてあった。 そして、国境の情勢が緊張の度合いを高めつつあった天正10年の正月、山陽道を統帥する小早川隆景はこれら7城の城主を備後三原に呼び、それぞれの労をねぎらい一振りずつの太刀を与えた。 宗治以外の6城主はこれに答えて毛利家への忠誠と必勝を誓うが、ただ一人清水宗治だけは播磨の緒戦での織田方の強さを思い知っていた為にこれには加わらず「必勝」では無く「必死の覚悟」をもって戦いに望む事を誓ったとされる。

 備中境目七城とは(北から)宮地山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城の事。(各城の位置の図へ

 両陣営の戦略
 毛利側、特に守将である清水宗治の採った戦術は強固な城に拠ってひたすらこれを保持する事であった。 既に小早川隆景の率いる2万の兵の他、吉川元春、毛利輝元がそれぞれ一万を率いて備後を東進しており、これが到着すれば城兵と呼応して包囲軍を挟撃する事も可能(あるいはその危険性を敵に匂わせるだけでも良い)であり、秀吉方は時間を掛ける程に不利となるという前提であり、常套的な戦略に基づく物と言えた。 
 しかし、秀吉の戦略は毛利の思惑を上回るものだった様で、5月17日には主君信長自らの備中出陣を要請、信長はこれに応え3万7千の軍勢に出陣を命じ、27日には自らも安土城を出発し京都に入った。 これは毛利の主力を備中に誘い出し信長の率いる軍勢を加えての決戦を想定していたと考えられます。(いわゆる後詰めと言われる戦略)

 前哨戦〜奇策「水攻め」開始まで
 秀吉は4月14日に高松城の北、平野を一望できる龍王山に進み本陣を置く。 続いて龍王山の西側に兵を進め、冠山城、宮地山城を攻略、側面の不安を取り除いた。 次いで高松城に宇喜多勢を主力として攻めさせるが激しい抵抗に合い失敗した。(和井元口の合戦:5月2日)
 5月7日、力攻めの不利を悟った秀吉は高松城の包囲を狙い地勢を鑑みて奇策とも言える「水攻め」を行うことを決し、翌8日にはせき止め工事を起工、20日には早くもそれが完成し、その年は大雨が多く城地周辺はみるみる湖面に姿を変えたと言われる。
 ここまでの展開があまりにも動きが素早過ぎる事から、秀吉は3月からの情報収集で事前に地域情報を分析して戦略を練っていたのでは?と思える。 この点から見て「水攻め」が単なる思い付きの奇策では無い事も伺えます。
 そして、工事の間に秀吉は自らの本陣を奥まった龍王山から高松城東側の石井山に移し、加藤清正を足守川の取水口の防衛に、山内一豊らを堤防の南側にそれぞれ置いて包囲を強化した。 これは、5月20日前後には毛利の援軍が到着し高松城から3km程南西、足守川を挟んだ岩崎山に吉川元春、その南の日差山に小早川隆景が布陣、高松城救援の隙を伺っていた為の措置でもあります。 援軍の到着で包囲下の高松城勢は沸き立ち、歓声を上げて喜んだが・・・ しかし、毛利方は高松城を眺め見つつも一向に動く気配を見せなかった。

 和睦交渉
 高松城を目の前にした毛利の援軍は3万余の大軍でありながらこれと言った軍事行動を起こすでもなく事態を見守るだけであった。 折からの大雨で足守川が氾濫、周辺の平野もぬかるんで兵を動かすことが出来なかったのである。 そして、そんな状況に追い討ちをかける情報が京からもたらされる。
「まもなく信長自らが中国征伐に出陣する」
これによってただでさえ打つ手の無い毛利首脳部は不利な条件での和睦もやむなしとして安国寺恵瓊を使者として秀吉との交渉に当たらせる事となった。

〜6月5日
 恵瓊に対して秀吉が最初に提示した和睦条件は中国五カ国(伯耆、備中、美作、出雲、備後)の割譲と清水宗治の切腹という過酷な物だった。 安国寺恵瓊を遣わした小早川隆景はこれを聞き「(毛利の)譜代では無いにも関わらず無二の忠節を尽くす義士を見殺しにするのは面目が立たない」としてこれを受け入れず交渉は暗礁に乗り上げた。(しかし、折衝によって割譲条件の5ヶ国中、出雲、伯耆が除かれている)
 こうして双方が一歩も引かないまま6月3日を迎えます。 何故この日かというと、その前日の2日未明、京の本能寺において織田信長が明智光秀の謀反によって自刃すると言う事件が発生したからに他なりません。
 この凶報が中国地方の秀吉に伝わった時期については諸説あるのですが3日の夕方か、遅くとも4日の早い内には情報を手に入れていた様です。 彼はすぐさま使者を斬り緘口令を敷くと恵瓊を呼びつけ、領土割譲の条件を現状維持に緩和した上で「右府様(信長)が到着してからでは講和はおぼつかず、毛利の存続も危うい」と説き、清水宗治の切腹を迫った。 秀吉の譲歩を好機と見た恵瓊は毛利本陣には無断で小舟を仕立てて高松城中へ入り「首一つで城兵の命と主家の安泰が得られる」と宗治を説得する。
 もとより「必死の覚悟」の出来ている彼に異存は無く自刃を承諾、直ちに秀吉の名代に自分の他、兄の月清と家臣の難波宗忠、末近信賀の4人が自刃すると伝え、加えて城兵の助命請願と小舟1艘、酒肴を贈ってもらえないかと申し出る。 これはすぐに聞き届けられ城中へと贈られた。 その酒で城兵らとの別れの宴を済ませると明朝、宗治は小舟で秀吉本陣のある石井山の方向へ漕ぎ出すと「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」と辞世の句を謡った後に割腹して果てる。

 その後〜
 清水宗治が自身の割腹を了承した事を知らされた毛利首脳部は既成事実に戸惑いながらも宗治の忠節に酬いる為にこれを承諾し、秀吉との間で血判請文が交わされた。 宗治が自刃し、講和が発効すると秀吉は直ちに高松城へ検使を送り、6月5日の内に城を包囲する堤防を破壊、決壊させて追撃を妨害しつつ撤退を開始した。 俗に言う「中国大返し」の始まりである。 これに前後して事情を知った毛利側では吉川元春の嫡男、元長らが即刻追撃し秀吉を討とうとぶち上げ激昂したが、小早川隆景がこれを「不仁不義である」と制止し、これを断念した。 この時に和議を遵守した事を秀吉は大きく評価、後の5大老に毛利家から2名が選ばれるなど豊臣政権下での地位を確立する基礎となった。
 そして、信長の中国遠征軍の為に準備された西国街道の補給路をフル活用した秀吉は7日の夜には姫路城に入り、畿内の情勢を伺いつつ11日に尼崎に進み諸将を糾合し兵力を整えると13日、山崎の合戦で明智光秀を打ち破り主君の仇を討ち天下人への第一歩を記す事になりました。

 

 とまぁ、「高松城水攻め」という出来事は(まとまりが悪いですが)大体、こんな感じになります。地元関係の出版物では清水宗治の美談ばかりが強調される高松城の戦いなのですが、こうして見てみるといろんな事が見えてきます。
 一般に「中国の覇者」として知られる毛利家はこの戦いでは常に後手に回る事を余儀なくされ、前線指揮官である隆景、元春兄弟は戦いに精彩を欠き、時には対立すらしていたという事、これは高松以前、播磨攻防戦に敗れ宇喜多家が寝返ったあたりで毛利家の敗北は既に決まっており、後はどの段階で織田方に屈するかが問題だったと思われ…より有利な状況での講和を行おうと決断を渋った結果、体面に固執してズルズルと戦いを続けてしまった事に起因するのでしょう。
 秀吉は毛利のこうした優柔不断さを逆手にとって到底受け入れ難い条件をもって和睦交渉に臨み毛利を挑発したものと思われます。 この会戦が「本能寺の変」という予想だにしない事件で水を差されなければ信長の増援と決定的な敗北は免れず「高松城」という境目の城を守れなければ寝返りが日常茶飯事であった当時では地方領主(いわゆる国人)は従属の見返りとして自勢力の生存を保障してもらっているのですから勝ち馬に乗り換え織田方へと鞍替えしてしまう者が続出する事も予想され、あとは毛利家の滅亡か・・・屈辱的な厳封処置は免れ得なかったであろうと言うのがその末路かと思われます。
 で、その場合毛利が次の戦線として選びそうなのは備中と出雲伯耆を結ぶ入り口になる松山城あたりか、毛利元就の四男である元清の居城の備中猿掛城…そして小早川隆景の備後竹原城になるのですが…備中は毛利本土である安芸・備後の門に位置する訳でして、そこまで攻められるともう毛利の本拠地である安芸の入り口まで攻め込まれている事になります。 ま、絶対に譲れない防衛線がこの高松の辺りにあったと言う事ですかね。


人物

 清水宗治
 元は高松城主であった石川氏の家臣だが当時仕えていた石川久孝が亡くなった際、嫡子が無かった為に起こった跡目争いで久孝の娘婿であった宗治は対立した長谷川氏を高松城で斬り城主の座に就いた。 彼が毛利への忠誠を通した背景は、この事件で小早川隆景の後援を受けていた恩義の為とも言われる。

 小早川隆景
 中国地方の覇者毛利元就の三男、のちに備後竹原の国人小早川氏の養子となり「毛利両川体制」の片輪として活躍、主に山陽道を統制した。 智謀に優れ、兄弟の内では元就の資質・手腕を最も良く受け継いだ様である。 その後は律儀さを秀吉に気に入られ権中納言、五大老に列せられるが1597年に没した。

 吉川元春
 毛利元就の次男、安芸の国人吉川氏の養子となり「毛利両川体制」を支えた。 生涯無敗と言われる程の武将であったが、秀吉との和睦には終始反対であり和睦の後に隠居、毛利家の中国制覇の過程では主に山陰道を統制した。

 黒田如水
 播磨の国人で姫路城主、織田家が進出してくるとこれに従がい中国侵攻の指揮を取る羽柴秀吉の軍師として活躍。 ちなみに名前は孝高、如水は隠居時に名乗った物です。 

 安国寺恵瓊
 臨済宗の僧で安芸安国寺の住持、後に太閤秀吉、毛利輝元らの権勢を背景に京の東福寺、南禅寺の住持、そして伊予和気郡6万石を与えられ大名となる。 僧侶が大名になるのは前代未聞の事であった。
「高松の役」当時は毛利の外交僧として活動し、的確な情報分析眼をもってこれに仕えた。
 彼の情報分析で有名なのは信長政権の短命と秀吉の人物を当初から高く買っていたという物であるが・・・それだけの情報分析を行った恵瓊も「家康」と言う人物に関しては全く神通力を発揮できず関ヶ原では西軍に荷担、敗戦後に捕らえられ京、六条河原で石田三成、小西行長とともに斬首、さらし首にされています。


境目七城

 備中高松城
 「高松」の地名は古代の岡山平野一帯が「吉備の穴海」と呼ばれる海であり、「多賀間津」という港であった事から転じた物。(現在は30km以上内陸になる)
 築城された場所について、一説にはこの地方に多く点在する前方後円墳の一つを切り崩して築城されたとも言われるが実際の発掘ではそれを裏付けるような結果(地層調査等で)は出ていない。 この為、実際には古代足守川の自然堤防を利用したと考えた方が合理的であろう。 城の規模は南北におよそ300m、東西には最も広い所では100m少々と細長く、北から本丸(現在は公園として整備)二の丸(民家)三の丸(水田、民家、寺院)と連なり、その外側に射場、家中屋敷と呼ばれる郭を巡らし、その外側を泥濘地が囲みその出入りはたった一本の細道と舟橋と言う仮設の出入り口しか無い。 この為に城への攻撃は著しく制限された。 高松の役ではこの城に3千〜5千の兵が篭ったとされる。

 宮路山城
 高松の北に位置する山城、城主乃美元信の下、城兵400が守備に当たった。 宇喜多家臣の信原内蔵充による和睦交渉によって城主以下全城兵が退去し開城。(5月2日)

冠山城
 宮路山城の南、足守川を挟む対岸に位置する平山城。城主林重真の下、城兵300余が守備に当たった。
4月25日、宇喜多勢の他、加藤清正らの総攻撃を受け激戦の末に落城、城主林重真は自刃して果てた。 城兵がことごとく討ち死にしたとも言われる激戦だった事が宮路山城開城(5月2日)に大きな影響を与えた物と思われる。

加茂城
 高松城の南4kmに位置する平城。 毛利の加勢である桂広繁が城主となり城兵は3200余を数える。これは高松城を支える要衝との認識からであろうと思われる。 東の丸の守将生石中務が内応し宇喜多勢を城内に引き入れるが、桂広繁らの奮闘によってついに城が落ちる事は無かった。

日幡城(ひばたじょう)
 高松城の南、5〜6Kmに位置する平山城で城主は日幡景親、城兵はおおよそ1000以下であったと思われる。 毛利の加勢上原元祐が内応、日幡景親は討ち取られ開城する。 しかし上原は毛利元就の娘婿であった為、裏切りに激怒した小早川隆景によって城は再度取り返される。 
 余談だが上原元祐は戦いの後に京都へ落ち延びますが、その後何者かに殺されたとも言われています。

庭瀬城
 高松から遥か10km南に位置する平城、高松城と同じく四方を泥濘地に囲まれたいわゆる「沼城」。
井上有景を城主とする800余の守備兵が篭った。 防衛線である足守川から東に大きく突出し、平野の中に孤立した位置だった為に援護しにくかったのか小早川隆景、吉川元春らは城主に対して早々に退去せよと命じているが、有景はこれに背いて羽柴勢の攻撃をしのぎ切り毛利、織田の講和後まで籠城した。

松島城
 高松から南西10kmに位置する平山城、城主は梨羽中務丞、城兵は1000以下であったと思われる。 ここは庭瀬城とは対照的に西に偏りすぎる為か、攻められる事は無かった。

一番上に


参考文献など

備中高松城の水攻め 著:市川俊介(日本文教出版株式会社刊 岡山文庫184)
歴史散歩 岡山の城 著:富阪 晃 (山陽新聞社刊)
備中高松城水攻の検証 附高松城址保興会のあゆみ 著:林信男(自費出版)
雑誌 歴史群像No.33、39(学習研究社刊)
歴史群像シリーズ45豊臣秀吉−天下平定への智と謀−(学習研究社刊)
黒衣の参謀列伝 著:武田鏡村 (学研M文庫)
清水宗治ホームページ