巻八

巻八解説

 西国に落ちていった平家に代わり、義仲と行家が京に入ります。後白河法皇は両名に平家追討の院宣を下すとともに、平家一門の官職をとどめ、さらに高倉院の四の宮を三種の神器なしで即位させます。昨日までは官軍であった平家は、いまや賊軍とされてしまったのです。平家はいったん落ち延びた九州も在地武士に追われ、四国の屋島に身を寄せます。この間、一門の清経は世をはかなみ、海に身を投げてしまいました。
 一方、東国の頼朝は鎌倉に居ながらにして征夷大将軍の院宣を受けます。史実では、頼朝が征夷大将軍になるのは建久3年(1192)ですから、これは明らかな虚構です。頼朝は立派な態度と饗応で院の使者を迎えますが、それに引きかえ義仲は下品であり、不作法であったため、公卿の不興を買うようになります。入京後、ほどなくして義仲没落の兆候は顕れ始めました。
 この間、屋島の平家は山陽道・南海道14か国を従えるほどに勢力を盛り返します。義仲は追討を試みるものの水島で大敗、室山では行家が平家軍に蹴散らされ、平家の勢力はいよいよ増していきます。いよいよ追い込まれた義仲は法住寺殿に法皇を襲って強引に政権を掌握。東国に頼朝、京に義仲、西国に平家がという三つ巴のまま、寿永2年は暮れていきます。

山門御幸(さんもんごこう)

 ひそかに御所を出られた法皇は、平家の目をくらまし鞍馬から叡山へ移られた。義仲に守護されて都に還御になったのち、義仲・行家に平家追討を命じる。また、院は故高倉院の四の宮(母は修理大夫信隆の娘・殖子)を即位させることにした。

名虎(なとら)

 法皇の御所で除目があり、義仲以下それぞれ任官され、義仲は朝日の将軍の院宣を賜った。平家一門、160余人は官職をとどめられた。一方、平家は太宰府に着いたが兵は集まらなかった。四の宮が即位し、それを知った平家は残念がった。

緒環(おだまき)

 平家は宇佐に参詣したが宗盛の夢見はよくなかった。太宰府に帰った後、十三夜の月を見て忠度たちが歌を作った。豊後の代官頼経は京から平家に従うなという使いがあったので、平家を追い出すよう緒方維義に下知した。高知尾明神の子孫であった維義は国司の命を院宣といつわって兵を集めた。

大宰府落(ださいふおち)

 平家は故重盛の恩義を説いて維義を味方に付けようと重盛の次男資盛を遣わすが、維義は逆に平家を追い出しにかかった。大宰府から山賀の城、柳が浦へと落ち、世をはかなんだ清経はそこで入水した。知盛知行の長門国の目代道資の用意した船で屋島に渡り、船を御所とした。

征夷将軍院宣(せいいしようぐんのいんぜん)

 頼朝は法皇の使者中原泰定から、征夷将軍の院宣を鶴岡八幡宮で受け取った。勅使の供応は豪華を極めたもので、源氏の一門は抜かりなく勢力を誇示した。

猫間(ねこま)

 鎌倉の頼朝が立派であるのに比べて、義仲は不作法で話し方も洗練されていなかった。ある時、猫間中納言光高が所用で義仲を訪れたが、義仲があまりに不作法なため、猫間は用件も述べず、這々の体で逃げ帰った。さらに、義仲は牛車に乗る際の作法を心得なかったため牛飼にまでばかにされる始末であった。

平家物語絵巻「猫間」

水島合戦(みずしまがつせん)

 平家は屋島にありながら山陽・南海道の14か国を従えて、再び勢力を盛り返した。義仲は矢田判官代義清らの討手を遣わしたが、備中国・水島で知盛・教経率いる平家軍に大敗を喫する。この勝利で、平家はこれまでの恥辱をすすいだ。

妹尾最期(せのおさいご)

 水島での敗戦を知った義仲は生捕りの平家武者・妹尾太郎兼康の案内で山陽道へ赴いた。兼康は備前国に着くと寝返りを打ち、倉光成澄の弟の成氏を酒に酔わせて討ち取った。今井四郎に城郭を攻め落とされた兼康はいったんは退くものの、嫡子宗康を助けようと敵陣に引き返し討死を遂げた。

室山(むろやま)

 京の樋口兼光は行家が法皇に悪口を言っていることを、今しも屋島に寄せようとしている義仲に知らせる。行家の西下と行き違いに義仲は京へ帰る。室山に五陣を張った平家は行家軍を取りかこみさんざんに打ち負かす。行家は河内へ退き、平家の勢力はいよいよ増した。

鼓判官(つづみほうがん)

 義仲の軍勢が京で乱暴を働くので法皇は鼓判官知康を使いに差し向けた。しかし、からかわれた知康は法皇に義仲追討を進言。法皇が召されたのはしかるべき武士でなく、山門・寺門の悪僧どもであった。今井四郎の諫止も聞かず、義仲は法住寺殿に攻め込み、明雲・円慶も死んだ。捕らえられた法皇は五条内裏に押し込められ、主上は閑院殿へ行幸された。

法住寺合戦(ほうじゆうじかつせん)

 法住寺殿を守護した仲兼は家の子仲頼も討たれた。明雲の死を知った法皇は涙を流した。合戦に勝った義仲は調子にのって前関白松殿の姫を妻とし、卿相・雲客49人の官職をとどめた。しかし、義仲は基房の諫言を聞き入れて人々の官職を元に戻し、基房の子・師家を内大臣の摂政にする。師家は徳大寺実定の官職を借りて大臣となったため「かるの大臣」と呼ばれた。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(三)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)