巻七

巻七解説

 寿永2年(1183)4月、平家は10万の大軍をもって、義仲・頼朝を追討しようとする。まず、北国に下った平家軍は、越前国火打ち城で初戦を飾るものの、加賀と越中の境にある砺波山で、義仲軍に惨敗を喫する。有名な倶利伽羅落としである。勢いに乗った義仲軍は、志保で苦戦中の叔父行家の軍勢の救援に向かった。この際の戦いで清盛の末子知度が討たれる。一門では、初めての戦死者であった。次いで篠原でも平家は敗走を重ね、いよいよ平家の衰勢は明らかとなっていった。
 都に迫った義仲は比叡山を抱き込み、山門にも見限られた平家は、主上、法皇を伴って西国落ちを決意する。しかし、直前で法皇に逃げられたのは宗盛最大の失態であり、このことは平家のその後の運命を大きく方向づけることになった。六波羅、西八条の邸宅に火をかけ、一門は、それぞれの思いを胸に都を落ちる。維盛は泣いてすがる妻子を振り払い、忠度は歌を師の俊成に託す。経正は仁和寺の御室に別れを告げ、拝領の琵琶の名器を返上する。しかし、一門のうち頼盛だけは、頼朝を頼って京に引き返した。福原にたどり着いた翌朝には再び内裏を焼き払い、平家は西国へと船を出す。寿永2年7月25日のことであった。

清水冠者(しみずのかんじや)

 寿永2年(1183)3月、頼朝と義仲との間に不和が生じ、頼朝は信濃へ出兵した。義仲は今井四郎兼平を使者として弁明を試みるが、頼朝は取り合わず、今にも戦が始まりそうになった。義仲は意趣のないことを示すために11歳になる嫡子清水冠者義重を人質に差し出したので、頼朝も納得し鎌倉へ帰った。

北国下向(ほつこくげこう)

 義仲が東山・北陸両道を従えて、京へ攻めてくるとの報に、平家は諸国の兵を召集、これに応じたのは西国勢が中心であった。まず義仲を追討し、次いで頼朝を討とうと、4月17日、平維盛・通盛を大将軍とする10万余騎の義仲追討軍が北陸道へ進発したが、道すがら物資を徴発したため人民は疲弊し、逃げてしまった。

竹生嶋詣(ちくぶしまもうで)

 詩歌・管弦に長じる副将軍平経正は、遠征の途中、琵琶湖の竹生島に参詣し、神前で琵琶の秘曲を弾じた。すると明神が白竜と化して経正の袖に現じるという奇瑞が生じ、経正は追討の成功を確信する。

火打合戦(ひうちがつせん)

 義仲勢六千余騎の固める火打が城は、山川に囲まれた天然の要害だったため、平家は無為に日を送った。しかし、城内の平泉寺の長吏斎明の内通によって落城、平家は初戦を飾る。5月8日、平家は加賀国篠原に勢揃いした後、軍を二手に分けて砺波山・志保山へ向かう。義仲軍は兵を七手に分け、義仲自身は1万余騎をもって砺波山辺へ出陣した。

願書(がんじよ)

 義仲は平地で平家の大軍と戦をすることを避け、山中で平家軍を倶利伽羅谷に追い落とす作戦を立てる。羽丹生の陣付近の八幡宮に戦勝祈願の願書を奉納すると、山鳩が飛んできて白旗の上を飛び回った。その願文は、清盛に南都を追われ、今は義仲の手書きとなっている大夫房覚明が草した。

倶利伽羅落(くりからおとし)

 義仲は作戦通り、日中は平家軍を適当にあしらい、辺りが暗くなると一万余騎を敵の背後に送りこんで一気に攻撃をしかけ、平家の大軍を倶利伽羅谷に追い落とした。多くの有力な武将が落命し、妹尾太郎兼康は生け捕られた。奥州の秀衡から贈られた駿馬を白山神社に奉納後、志保で苦戦中の行家を救援に向かう。清盛の末子知度をはじめ、多くの侍を討ち、義仲軍は能登へと進撃した。

平家物語絵巻「倶利伽羅落」

篠原合戦(しのはらがつせん)

 義仲は諸社へ神領を寄進した。頼朝の石橋山での合戦の際、平家に属した東国武士は兼ねての約束通り北国合戦で討死にする。5月21日、篠原合戦では今井四郎兼平、樋口次郎兼光らの活躍で平家方は惨敗。高橋長綱は義仲方の若武者入善小太郎に情けをかけ、逆に討たれるなど、平家はさらに敗走する。

真盛(さねもり)

 敗走する軍勢にあって、一人斎藤実盛は敵中にとどまり、最後まで名乗らずに義仲方の手塚太郎に討たれる。七十余際の実盛は、今度を最後の軍として死を覚悟し、白髪を黒く染め宗盛に許された錦の直垂を着ての出陣であった。実盛の首と対面した義仲ら源氏の武将はその心情を思いやって涙を流した。

「真盛」

還亡(げんぼう)

 都では6月1日、戦乱が鎮まれば伊勢行幸ある旨の仰せがあった。伊勢行幸は天平年間、藤原広嗣追討の際が初めてだった。広嗣の亡霊は調伏を試みた玄坊の首を取り、3年後に頭骨を興福寺の庭へ落としたという。また、嵯峨帝の代に斎院が始まり、将門・純友の乱調伏のために石清水八幡宮の臨時祭が始まったように、さまざまな祈祷がなされた。

木曽山門牒状(きそさんもんちようじよう)

 越前の国府に着いた義仲は、上洛に先立って大夫房覚明の進言に従い山門へ牒状を送る。それは、比叡山の衆徒が源平どちらに味方をするのか問いただし、平家に味方をするならば合戦もやむを得ずとする脅迫に近い内容であった。

返牒(へんじよう)

 義仲の牒状に対し、山門では種々論議の末、宿運の尽きた平家を見限り、源氏に同心する旨の返牒を送った。

平家山門連署(へいけさんもんへのれんじよ)

 このことを知らない平家は、重衡・経盛・知盛・頼盛・宗盛ら一門の公卿10人の連署による願書を山門に送った。平家に同心を求める願書であったが、座主はこれを十禅師の御殿に籠め、3日間加持ののち披露した。すると願書の上巻に平家没落を予告する託宣の和歌が現れ、山徒は源氏同心の決を翻さなかった。

主上都落(しゅしようのみやこおち)

 7月14日、肥後守貞能は鎮西の謀反を平定して帰京するが、東国・北国の謀反はおさまらない。同22日、源氏が都に迫るとの報を聞いた平家は、各方面に討手を差し向けるものの、すぐさま防戦を断念、宗盛は法皇・天皇を伴って西国落ちを決意する。しかし、平家の動きにいち早く気づいた法皇は鞍馬へ逃れ、やむを得ず平家は三種の神器と天皇を奉じて都を立つ。摂政基通は平家の前途を危ぶみ、行幸供奉の途中から離脱し、京に帰ってしまう。

維盛都落(これもりのみやこおち)

 維盛は泣いてすがりつく妻子のために出立が遅れる。駆けつけた小松殿の公達はその様子を見て涙を流した。斎藤実盛の遺児斎藤五・六の兄弟に息子六代を託した。平家は都を落ちる際、六波羅・西八条以下の諸所に火を放った。

聖主臨幸(せいしゆりんこう)

 平家の放った火によって都は灰燼と化した。大番役として在京中の畠山重能・小山田有重・宇都宮朝綱ら東国武士は斬られるはずだったが、知盛の進言を容れた宗盛の裁断によって特に赦され、涙ながらに東国へ帰っていった。

忠度都落(ただのりのみやこおち)

 薩摩守忠度は都落ちの途中から引き返し、歌道の師藤原俊成邸を訪れて自分の歌を納めた巻物を託して、将来の勅撰集への入集を希望する。俊成は乱後『千載集』撰集の際、忠度の一首を読人知らずとして入集させた。「さざなみや 志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」

経正都落(つねまさのみやこおち)

 経正は幼時仕えた仁和寺御室を訪れ、宮から拝領していた琵琶の名器青山を返上した。仁和寺の人々は皆別れを惜しみ、なかでも旧知の法印行慶は桂川辺まで同行し、別れ際に歌を贈答した。

青山之沙汰(せいざんのさた

 経正は17歳の時、勅使として宇佐八幡宮へ赴き神殿で青山を演奏した。この青山は仁明天皇の御代、嘉祥3年(850)に唐から相伝した玄象と並ぶ名器である。応和(961-964)のころ、廉妾夫の亡霊はこれを弾じて村上帝に秘曲を伝授したという。

一門都落(いちもんのみやこおち)

 平頼盛はかつて母池の禅尼が情をかけた頼朝を頼るため都へ引き返した。維盛ら小松殿の公達は淀付近で合流し、平家一門は7000余騎で西国をめざす。肥後守貞能は都で最後の戦をしようと京に引き返す。あきらめた貞能は、旧主重盛の遺骨を高野へ送り、かつて恩をかけた宇都宮を頼って東国へ下る。

平家物語絵巻「一門都落」

福原落(ふくはらおち)

 福原へ着いた平家一門は、宗盛を中心にどこまでも運命を共にすることを誓う。一行は旧都で秋の一夜を明かし、内裏に火を放って、西国へ向けて船に乗った。「寿永二年七月二十五日に平家都を落はてぬ」と『平家物語』は語る。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(三)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)