巻四

巻四解説

 巻四は治承4年の2月から5月までのできごとです。安徳天皇が即位し、清盛は天皇の外祖父となります。平家の権勢は頂点に達したかのように見えました。高倉院は、上皇になって初めての御幸を厳島神社に決めます。慣例を破るこの御幸に、延暦寺の大衆は怒りの色を示します。上皇になって最初の御幸は、石清水八幡宮、賀茂神社、春日大社、もしくは延暦寺と決まっていたからです。しかし、高倉院は厳島御幸を決行し、このようなところからも反平家の空気は醸造されていきます。
 高倉院が還御される頃、頼政のすすめにより以仁王から平家追討の令旨が出されます。いよいよ、反平家ののろしがあがりました。しかし、この時の平家の行動は迅速でした。以仁王は三井寺に逃れ、頼政一党、三井寺の大衆らとともに、興福寺と合流するべく南都へ向かいます。しかし、平家の追討軍は宇治の平等院でこれに追いつき、頼政は自害、以仁王も流れ矢に当たって絶命します。以仁王の皇子たちもそれぞれに罰せられ、宮に荷担した三井寺は平家の攻撃を受けて焼け落ちてしまいます。

厳嶋御幸(いつくしまごこう)

 治承4年(1180)2月21日、高倉天皇は三歳の春宮(安徳天皇)に位を譲り、平家はわが世の春を謳歌することになる。3月19日、高倉上皇は清盛の謀反の心を和らげるため、厳島参詣を思い立つ。天皇が譲位して後、最初の御幸に厳島を選んだことで、延暦寺の大衆は動揺する。上皇は、鳥羽殿に幽閉されている法皇に面会した後、厳島へと旅だった。

還御(かんぎよ)

 3月29日、厳島参詣の後、還御となる。その途中、所々で遊宴を催し、4月8日に帰京した。同22日、新帝の即位が紫宸殿で行われたが、重盛の息子達は、去年父が亡くなり喪に服していたため出席しなかった。

源氏揃(げんじぞろえ)

 源三位入道頼政は三条高倉でひっそりと暮らす、後白河院の第二皇子以仁王に平家への謀反を持ちかける。以仁王はためらうが、伊長という優れた相人の進言もあり、意を決して平家追討の令旨を与えた。しかし、令旨を東国へ伝える行家の動きを、熊野の別当湛増が知り、行家に荷担する那智・新宮に攻撃を掛けたが大敗した。

鼬之沙汰(いたちのさた)

 5月12日、御所にいたちが多く騒いだので、法皇が陰陽頭阿部泰親に占わせると、3日間うちに吉事と凶事があるという。13日に法皇は鳥羽から八条烏丸の美福門院の御所へ移されたが、そのころ以仁王の謀反の計画が知れ、頼政の次男源大夫判官兼綱を含む追討使が宮の御所に派遣された。

信連(のぶつら)

 頼政から謀反発覚の報を受けた宮は、女装をして三井寺へ逃げた。御所に残った信連は、宮の忘れた笛を宮に届けた後、再び御所に戻り一人勇敢に官人と戦ったが、生捕りにされる。糾問の後、死罪にされるところを清盛の計らいで伯耆の日野へ流された。

競(きおう)

 頼政が謀反を起こしたのは、仲綱の馬「木のした」を奪った宗盛が、馬を惜しんだ仲綱に恥をかかせたからだという。16日夜、頼政一党は自らの館に火をかけ、三井寺へ向かったが、残された競は、宗盛に仕えているように振る舞って、宗盛の愛馬を盗んで三井寺に参じ、仲綱の恨みを晴らした。

山門牒状(さんもんちようじよう)

 三井寺では、大衆僉議し、延暦寺と興福寺に援助を乞うことになり、まず延暦寺に牒状が送られた。

南都牒状(なんとちようじよう)

 延暦寺を自分たちと同格に見る三井寺の牒状に立腹した山門の大衆は、清盛の買収もあって、三井寺の要請を拒否した。三井寺は興福寺にも牒状を送るが、興福寺からは同心の旨の返牒があった。

永僉議(ながのせんぎ)

 三井寺では、大衆が集まり、六波羅を夜討ちにしようと僉議したが、僉議を長引かせようという平家方の僧真海が時間稼ぎをしたため、出発が遅れた。

大衆揃(だいしゆぞろえ)

 二手に分かれた都合2500余人の兵は、三井寺を出たが、僉議に時を過ごしたために程なく夜が明け、夜討ちを断念せざるを得なかった。23日、以仁王は、秘蔵の笛を三井寺にとどめ、頼政の一党、若大衆・悪僧ら1000人を率いて、南都へ向けて出発した。

橋合戦(はしがつせん)

 宮は三井寺を出てから宇治まで六度も落馬した。平等院で休息をとっていると、宮の南都落ちを聞いて急襲した平家軍が到着。宇治川をはさんで戦いが始まった。宮の御方からは、五智院但馬、筒井浄妙明秀、一来法師らが橋の上に進んで勇敢に戦った。平家の侍大将上総守忠清は宇治川を迂回して対岸にまわる策を進言するが、平家方の足利又太郎忠綱は300余騎を率いて馬筏を作り、宇治川を渡った。

平家物語絵巻「橋合戦」

宮御最期(みやのごさいご)

 足利忠綱に続いて、残る平家軍も宇治川を渡ったが、流される者も多かった。平等院内で乱戦となり、頼政は辞世の句を詠んで自害した。「埋木のはなさく事もなかりしに 身のなるはてぞかなしかりける」。また、他の一族の者も自害した。その間に宮は落ち延びようと南都へ逃れるが、“ふるつわもの”飛騨守景家に追いつかれ、光明山の鳥居の前で流れ矢に当たり落命した。

若宮出家(わかみやしゆつけ)

 宮をはじめ頼政一党らの首実検が行われる。宮の御子のうち、八条女院に仕える三位局腹の若宮は、頼盛により六波羅へ召されるが、同情した宗盛の哀願により、許され出家した。

通乗之沙汰(とうじようのさた)

 また宮の子には、のち義仲に連れられて上洛した木曽の宮もいた。さて、このたびは、相少納言の不覚であった。しかし、賢王聖王の子で才学ある皇子でも位につかない例は多い。高僧たちや宗盛の子清宗に勧賞が行われた。

鵺(ぬえ)

 頼政は優れた歌詠みで、そのおかげで昇殿し三位にまで昇った。また弓にも優れ、近衛院と二条院の時、帝を悩ました変化の物を射落とし、武名を揚げた人だが、謀反をおこして滅びたのは残念なことだ。

三井寺炎上(みいでらえんしよう)

 5月27日、宮をかくまった三井寺に対し平家軍が攻撃をかけ、堂塔寺宝や大津の在家を焼いた。寺の長吏や僧綱は処分され、悪僧らは流罪になった。人々は、このように天下が乱れるのは平家の世が終わりに近いからだろう、と言った。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)