巻三
巻三解説
前半は、主に鬼海が島の流人達の後日談と、中宮徳子の懐妊の話が中心になります。徳子の安産祈願のため、鬼海が島の流人に恩赦が出されますが、俊寛だけは許されませんでした。一人取り残される俊寛が、遠ざかる船にむかって叫び続けるという、有名な「足摺」のくだりが印象的です。そんな中、徳子は無事皇子を出産しますが、平家には暗い影が徐々に忍び寄ってくるようです。
後半は、重盛の死という大きなできごとがあります。それに先だって京中に起こった辻風は、鴨長明の『方丈記』にも記されているれっきとした史実ですが、実際は翌年の四月のことだったらしく、重盛の死と関連づけた物語の脚色といわれています。11月には、福原からにわかに清盛が数千騎の軍兵を率いて上洛。有名な“治承3年のクーデター”の勃発です。太政大臣、関白をはじめ多くの公卿・殿上人が流され、あるいは解官されます。法皇もまた、洛南の鳥羽にある城南離宮に幽閉の憂き目にあいます。こうして不安な情勢のまま、治承3年は暮れていきます。
赦文(ゆるしぶみ)
治承2年正月、中宮徳子が懐妊し、平家の人々は皇子誕生の期待を募らせる。しかし、悪左府頼長や西光法師など諸々の悪霊による悩みがひどいため怨霊慰撫を行い、教盛の提案により鬼海が島流人も召し帰されることになった。しかし俊寛は許されなかった。
足摺(あしずり)
鬼海が島に到着した赦免の使者の前に、まず名乗りをあげたのは俊寛だった。赦免状に自分の名前がないことを知り狼狽する俊寛を、成経・康頼は俊寛を懸命になだめて船に乗る。俊寛は必死で船に取りすがり、渚で足摺をして叫び続けた。
御産(ごさん)
中宮が産気づき、産所の池殿には法皇が御幸し、関白基房をはじめ多くの公卿・殿上人が集まった。様々な祈祷のあげく、後白河法皇自らの加持まであって、無事に皇子が誕生する。清盛はあまりの嬉しさに声を上げて泣いた。
公卿揃(くぎようぞろえ)
皇子の乳母には時忠の北の方が選ばれた。御産に関して珍事がいくつかあったが、すべての公卿が祝いに参上した。
大塔建立(だいとうこんりゆう)
皇子誕生は厳島の利益による。平家の厳島信仰は、清盛が高野大塔を修理した時に厳島修理の託宣を受け、厳島を修理し小長刀を授かって以来のものだが、その際、悪行があれば繁栄は子孫には及ばないと告げられた。
頼豪(らいごう)
白河帝の時、頼豪が祈祷によって皇子を誕生させたが、三井寺の戒壇建立を要求して許されず、飲食を絶ち餓死して四歳の皇子をとり殺した。12月8日、生まれた皇子は東宮となった。
少将都帰(しようしようみやこがえり)
成経・康頼は治承3年正月に肥前国を出立し、途次、備前国の成親の配所を訪れて供養を行った。3月に鳥羽に着いて成親の山荘を訪れた。配流の折り、北の方が身ごもっていた子はすでに3歳になっていた。
有王(ありおう)
俊寛の侍童有王は、俊寛の娘の手紙を持って、主を尋ねて鬼海が島に渡った。探索の末、やせ衰えた姿の俊寛に出会うことができた。あたかも現世の罪の報いを受けているようであった。
僧都死去(そうずしきょ)
有王に一家のありさまを聞いた俊寛は食を断ち臨終正念を祈って死ぬ。これをきいた俊寛の娘は出家した。有王も俊寛の遺骨を首にかけて諸国を巡り、仏道修行に専心した。これほどに人々の恨みの積もった平家の行末は恐ろしいものである。
つじかぜ
5月12日、京中に辻風が吹き、家が倒れ、あまたの人畜が死んだ。神祇官は百日以内に大臣の謹慎事があり、天下の大事が続くと占った。
医師問答(いしもんどう)
重盛は熊野に参詣し、清盛の悪心を和らげられぬなら自分の命を縮めよと祈った。予兆があり、病床に伏した重盛は治療も祈祷もせず、宋の名医にかかることも「国の恥じ」として拒み、覚悟の死を遂げた。
無文(むもん)
重盛は生前、春日明神が清盛の頸を取る夢をみて平氏の運命を悟った。清盛に先立つことを予見して、嫡子維盛に大臣葬に用いる無文の太刀を渡していた。
燈爐之沙汰(とうろうのさた)
重盛は東山に48間の堂を建て、48の燈爐をかけ、毎月14、5日に盛大に称名を行ったため、燈爐の大臣と呼ばれた。
金渡(かねわたし)
一門滅亡を予見した重盛は子孫に供養を期待できないとして他国善根を企てた。黄金三千両を宋に送り、育王山に寄進した。
法印問答(ほういんもんどう)
11月7日に大きな地震があり、陰陽頭は近い将来の災厄を予言する。11月14日、清盛が突如、数千騎の軍兵を率いて上洛した。法皇は驚いて故信西入道の子静憲を派遣した。激怒し朝廷への恨みを述べる清盛に、静憲は堂々と応対したので、人々は静憲をほめそやした
大臣流罪(だいじんるざい)
16日、清盛は関白・太政大臣以下多数の公卿殿上人を配流した。基房は鎮西に流されるところを、出家したために備前国と定められる。清盛の娘婿の基通は、中・大納言を飛び越して大臣となった。師長は配所の尾張熱田宮で琵琶を奏したところ、神殿が鳴動する奇瑞があった。
行隆之沙汰(ゆきたかのさた)
前関白基房の侍江大夫判官遠成・家成父子は都へ戻って割腹した。そのころ困窮していた前左少弁行隆は、にわかに清盛に取り立てられたが、一時の栄華と見えた。
法皇被流(ほうおうながされ)
20日、平家勢は院の御所を包囲し、法皇を鳥羽殿に移した。静憲は清盛の許可を得て鳥羽殿に行き、法皇を慰めた。高倉天皇は父法皇の押し込められたのを聞いて、病気を称し寝所に引きこもった。
城南之離宮(せいなんのりきゅう)
高倉帝は法皇に譲位、出家の意志を伝えたが制止された。賢臣は多く没し、または出家した。清盛は安心して福原に帰り、法皇は離宮で寂しい冬を過ごし、治承四年を迎えた。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)