巻十一
巻十一解説
一の谷の戦いで大敗北を喫した平家は屋島へ退きました。巻十一は源平合戦もいよいよクライマックス。屋島・壇ノ浦の両合戦が印象的に描かれます。
屋島の平家を攻めるべく、義経はわずかの兵を率いて嵐の中、四国へ渡ります。鵯越で見せた得意の奇襲戦法は、屋島でも功を奏し、動揺した平家は源氏の大軍の来襲と誤認、こぞって海上へ逃れます。屋島の戦いは、一の谷のように大軍と大軍が正面からぶつかり合うという合戦ではなかったため、両軍とも大量の犠牲者を出すことはありませんでした。そのせいか、この合戦においては後世に残る名場面をいくつも生み出しました。 那須与一が扇の的は、平家物語の中でも最も有名な場面の一つです。まったく謎に満ちた平家方の行動ですが、この扇を射させるという行為には、戦の行方を占う意味があったといわれています。つまり、与一が的をはずせば平家の勝ち、当たれば源氏の勝ちというわけです。このほか、悪七兵衛景清の“しころ引き”や義経の“弓流し”など、名場面が目白押しです。
さて、後半は一転、勇壮にして悲壮な源平最期の合戦「壇ノ浦海戦」が展開されます。前半は潮の流れから平家方が優勢でした。しかし、潮の流れが変わると平家は劣性になり、かつ義経のセオリーを無視した攻撃に、平家の敗色は濃厚になっていきます。二位の尼は安徳天皇を抱いて入水、一門もことごとく身を投げます。猛将・能登守教経は獅子奮迅の働きをしますが、義経を取り逃がし壮絶な最期を遂げます。知盛も「見るべき程の事は見つ」と明言を残して入水。宗盛、建礼門院、平大納言時忠などが生捕りになりました。
壇ノ浦合戦の後、義経は宗盛を連れて鎌倉へ下向しますが、頼朝との不和で鎌倉へはいることができぬまま、京へ戻ります。有名な腰越状を認めたのはこの時でした。宗盛・清宗親子は斬首、一の谷で捕らわれた重衡も、奈良大衆の手に引き渡され、斬首されます。
逆櫓(さかろ)
平家追討の許可を院より受けた義経は、摂津国渡辺において船揃えをし、屋島に攻め寄せようとする。梶原景時が船の舳先に船を後退させるための逆櫓を取り付けることを評定。逆櫓は不要であるとする義経と口論になる。義経は嵐をついて、ただ5艘の船で阿波国への渡海を敢行した。
勝浦(かつうら)
勝浦に上陸した義経は在地武士・近藤六の案内で阿波民部重能の弟・桜間介能遠の城を攻めた。さらに手薄の屋島を攻めようと大坂越えを越えた。源氏が民家に火を懸けると、狼狽した平家勢は敵の大軍が来襲したと思いこみ、女院・二位の尼以下、こぞって海上に逃れた。
嗣信最期(つぎのぶさいご)
屋島の内裏を焼き払った源氏軍は総勢七、八十騎だった。陸の源氏に対して、平家は反撃に出る。佐藤嗣信は義経の身代わりとなって能登守教経に射殺された。嗣信の頸を取ろうとした教経の童・菊王丸も討たれた。義経は嗣信の死を悲しみ、経を読んだ僧に大夫黒という馬を布施として与えた。
那須与一(なすのよいち)
院その夕刻、平氏は小舟に美女を乗せ、扇の的を立ててこぎ寄せる。扇を射るよう義経の命を受けた那須与一は、射損なった時は自害する覚悟で神に祈願するが、放った矢はみごと命中。「鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に、一もみ二もみもまれて、海へさッとぞ散ったりける」。
弓流(ゆみながし)
与一の見事な弓に感極まって舞い始めた男を与一が射殺。平家方は悪七兵衛景清らが陸へ上がり、源氏方のみをの屋の十郎と戦闘が始まる。景清の悠々たる態度に気持ちを取り直した平家勢は、陸の源氏勢に攻撃をかける。その戦闘の最中、義経は海に落とした弱い弓が敵に渡ることを恥じ拾い上げて帰る。その夜、平家は夜討ちを計画するが、先陣争いのもつれからなされなかった。
志度合戦(しどかつせん)
平家軍は翌日志度の浦に退却、再び合戦となるが、源氏の後続が到着するとまたしても海上へ逃れ、どこへとなく落ち延びていった。河野を攻めていた阿波教能は、伊勢三郎の謀で源氏方につく。その頃、義経勢に遅れて屋島に到着した梶原一行は笑い者となる。都では住吉明神から鏑矢が西へ向かって飛び去ったとの報告が院の御所に入る。
鶏合 壇浦合戦(とりあわせ だんのうらかつせん)
義経は周防で範頼と合流。平家は長門国・彦島に身を寄せた。熊野別当湛増は闘鶏占いの結果、源氏方につき、伊予の河野四郎も源氏に入る。源氏3000余艘、平家1000余艘。源平の矢合わせに先立ち、義経と梶原は先陣を争い二人の確執は深まる。戦は平家優勢で始まった。
遠矢(とおや)
和田義盛・仁井親清・阿佐里与一らの武将が遠矢の応酬をする。源平互いに譲らぬ戦闘の最中、源氏勢に白旗が舞い降り、義経はこれを八幡大菩薩の出現と喜んだ。一方、平家方には平家の世の終わりを告げる海豚の奇瑞がある。阿波民部重能が源氏に寝返ったことで、平家側はいよいよ不利になる。
先帝身投(せんていみなげ)
源氏は平家方の水手・舵手を射殺したため、平家の船は自由が利かない。帝の御座船に出向いた知盛は敗戦を告げ、船の掃除をはじめる。二位の尼は帝を抱き、「浪のしたにも都のさぶらうぞ」と言い聞かせ、神璽、宝剣とともに入水する。
能登殿最期(のとどのさいご)
これを見た建礼門院も入水するが、源氏方に助け出される。重衡の妻・大納言佐は内侍所を持って海に飛び込もうとしたところを捕らえられる。教盛・経盛兄弟、資盛・有盛・行盛らもそれぞれ身を投げた。宗盛・清宗父子は死にきれずに泳いでいるところを捕らえられる。教経は船上に義経を追いつめるも八艘飛びで身をかわされ、源氏の兵二人を道連れに海中に飛び込む。
内侍所都入(ないしどころのみやこいり)
「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」と言い残し知盛も入水した。「海上には赤旗、赤じるしなげ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田河の紅葉ばを嵐の吹散らしたるがごとし。みぎはによするしら浪も、うすぐれなゐにぞなりにける」。院には義経の急使が平家敗北を報告、平家の捕虜を連れた義経は上京し、神璽、内侍所も入京した。
劒(つるぎ)
素戔嗚尊が大蛇の腹から取り出した草薙の剣が、壇ノ浦で海中に沈んだのは、大蛇が奪い返しに来たからだと噂された。
一門大路渡(いちもんおおちわたし)
宗盛父子、平大納言時忠ら平家の捕虜の入京するのを見た老若男女はみな涙を流した。法皇も御車をたてて見物した。宗盛父子は六条堀河の義経の宿所に置かれた。
鏡(かがみ)
頼朝は従二位に叙せられる。都では内侍所が温明殿に安置された。
文之沙汰(ふみのさた)
平時忠は娘を義経の妻にして、平家方に不利な手紙を義経の手から取り戻す。都での義経の評判を聞いた頼朝は不快を表明する。
副将被斬(ふくしようきられ)
宗盛は次男の副将と対面する。翌日宗盛は鎌倉に送られ、副将は六条河原で斬殺される。数日後、二人の女房は遺骸を抱いて桂川に入水した。
腰越(こしごえ)
宗盛父子を連れ義経は鎌倉に向かうが、梶原の讒言を容れた頼朝は、宗盛親子の身柄を受け取ると、義経を鎌倉に入れずに腰越へ追い返した。義経は腰越の地で釈明の書状をしたため、大江広元に託す。
大臣殿被斬(おおいとのきられ)
宗盛は比企義員を介して頼朝と対面をするが、宗盛の卑屈な態度は人々の憐れみをかった。義経は頼朝と対面できぬまま宗盛父子を伴って上京。途中、近江の篠原宿で父子を斬ったが、死ぬ間際まで妄念を捨てられない宗盛であった。宗盛親子の首は都の獄門に懸けられた。
重衡被斬(しげひらのきられ)
重衡は奈良大衆の要求で奈良に送られる途中、日野で北の方・大納言佐と再会し別れを惜しんだ。その後、奈良の大衆に引き渡された重衡は、念仏を唱えた後、木津川原で斬られた。重衡の首は般若寺門前にかけられた。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)