巻十

巻十解説

 一の谷の合戦と屋島の合戦の間にあたるこの期間は、約1年の休戦の時期にあたり、物語の内容も重衡の東国下向、維盛の入水が中心となります。
 生捕りにされた重衡は、人々の好意に支えられながら関東に下向。頼朝と堂々と対峙した重衡の立派な態度に、頼朝や鎌倉の御家人たちは感心しました。重衡の周りに、内裏女房や千手の前など、重衡を慕う女性が多く登場するのも読みどころです。
 一方、重衡とおなじ三位中将である維盛は屋島を抜け出し、数人の供を連れて熊野へ向かいます。熊野では、元重盛の侍であった滝口入道の先達で熊野参詣を遂げ、従者二人と供に出家します。有名な滝口入道と横笛の悲恋が語られるのもこの章になります。どうしても妻子への思慕を思いきれない維盛でしたが、滝口の訓戒で妄念を捨てることができ、那智の海に入水して果てます。このような中、朝廷では大嘗会が催されましたが、諸国は源平両氏の争いが続き、疲弊していました。

内裏女房(だいりにようぼう)

 生捕りにされた重衡は六条大路を渡されたが、人々は南都を焼いた仏罰だと噂した。法皇は三種の神器と重衡を交換するよう屋島の平家に院宣を下し、重衡も手紙を書いた。重衡はかつての家人・馬右允知時や土肥実平らの好意で、かつてなじみのあった女房と会うことができた。この女房は、その後重衡が斬られたことを知ると剃髪し、重衡の菩提を弔った。

八嶋院宣(やしまいんぜん)

 院の使いは屋島に到着した。院宣の内容は、重衡は死罪に相当するのだが、三種の神器を都に返せば重衡を許そう、というものであった。

請文(うけぶみ)

 重衡の手紙に二位尼は悲嘆にくれるが、宗盛に説得された。知盛の意見によって拒否することになり、請文が書かれた。その内容は、神器は安徳天皇を離れることはできず、還幸できない場合は神器を持って異国に赴く決意である、というものであった。

戒文(かいもん)

 院宣拒否を聞いた重衡は手紙を出したことを後悔した。重衡の出家の願いは許されなかったが、法然との対談は許可された。重衡の懺悔を聞き、法然は来世での極楽往生に至る道を説き、戒を授けた。重衡は布施として宋から送られた硯を渡した。

海道下(かいどうくだり)

 頼朝の召しにより重衡は鎌倉に護送されることになった。池田の宿で侍従という遊君と歌の贈答をしたが、その女は東海道一の歌の名手で、かつて宗盛がこの国の守であった頃、歌を詠んで名を挙げた者だった。

千手前(せんじゆのまえ)

 頼朝は重衡に見参したが、その堂々とした態度に頼朝も御家人たちも感心した。重衡は狩野介宗茂に預けられた。頼朝は手越の長者の娘千手の前を重衡のところへ遣わした。千手は朗詠して重衡を慰め、重衡も自分の境遇にふさわしく歌い変えて、終夜遊んだ。重衡の死後、千手は出家して重衡の後世菩提を弔い、往生の素懐を遂げた。

横笛(よこぶえ)

 屋島を脱出した維盛は妻子に会いたい心を抑えて、高野山の滝口入道のところへ行った。滝口は重盛の侍であったが、身分の低い横笛との恋を父にいさめられ、それを機に出家した。横笛も出家したが、滝口を思うあまり死んでしまった。維盛は滝口の、やせ衰えながらも仏道修行に徹した姿をうらやましく思った。

高野巻(こうやのまき)

 明くる朝、維盛は出家に際して供の重景・石童丸を帰そうとするが、重景は父の代からの小松家との深い関係を言いたてて承知しないので、三人ともに出家した。舎人の武里だけ、このありさまを屋島の一門に伝えるよう言い含められる。熊野へ行く途中、湯浅宗光に出会ったが、維盛と知りつつも宗光は一礼して通り過ぎた。

維盛出家(これもりしゆつけ)

 維盛は熊野本宮に参詣し極楽往生願うものの、迷いの心尽きず妻子の安穏を祈る。那智では、維盛を見知っている僧が同行の者に、かつての華やかであった頃の維盛の話をして泣いた。

熊野参詣(くまのさんけい)

 熊谷直実・平山季重が、一の谷西口(搦手の土肥実平7000余騎)の先陣を争う。熊谷がまず、夜のうちに城にたどりついて名告りをあげる。平山は遅れをとったが、明け方、平家方の城の木戸が開くと、一番に敵陣に駆け入ったのは平山だった。

維盛入水(これもののじゆすい)

 維盛は入水するため船に乗って沖へ漕ぎ出したが、どうしても妻子への思いを振り払うことができない。滝口入道も哀れには思ったが、出家の功徳とひたすら弥陀を信ずべきことを説いた。維盛は妄念をひるがえし、「南無」と唱えながら入水した。二人の従者も後に続いた。

三日平氏(みつかへいじ)

 続いて舎人武里も入水しようとするが滝口に止められる。武里は屋島に帰り、維盛の遺言を伝えると平家の人々は涙を流した。5月には頼盛が関東へ下向し、頼朝の歓待を受けた。6月には伊賀・伊勢平氏の蜂起等のことがあった。7月、維盛北の方は維盛入水を聞き出家した。

藤戸(ふじと)

 後鳥羽天皇が即位したが三種の神器なしの即位は初めてであった。範頼軍と平氏は備前児島に陣を構えた。平家は軍船で攻め寄せたため、船のない源氏は攻撃できない。佐々木三郎盛綱は浦の男から藤戸の浅瀬を聞き出し、その浅瀬を渡って平氏を攻めた。

大嘗会之沙汰(だいじようえのさた)

 義経は検非違使五位尉となり九郎大夫判官と呼ばれるようになった。同じ月に大嘗会が催されたが、諸国の民は諸国の民は源平の戦で疲弊していた。範頼は引き続き平家を攻めることをせず遊び戯れていた。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)