高棟王流-公家平氏
平時信(たいらのときのぶ)
生年未詳、久安5年(1149)没。高棟王流の堂上平氏。出羽守平知信の長男。兵部権大輔正五位下。太皇太后令子内親王の半物(はしたもの。召使い)だった先妻との間に時子、時忠、藤原顕頼の娘との間に建春門院滋子、清子(宗盛の妻)らをもうけた。弟に『兵範記』を残した信範がいる。外孫にあたる高倉天皇の即位により左大臣正一位を追贈された。
平時忠(たいらのときただ)
大治3年(1128)生(あるいは大治5年か)、文治5年(1189)没。桓武平氏、高棟王流の堂上平氏。兵部権大輔正五位下時信の長男。清盛の妻時子の弟、後白河帝の女御建春門院滋子の兄。権大納言正二位。豪毅で理論家肌の政治家。“平関白”と呼ばれ世人から恐れられた。「平家にあらざれば人にあらじ」と豪語したとも伝えられている。滋子の縁で早くから後白河の寵臣となるが、皇子憲仁(高倉天皇)を皇太子につけようと画策したことで出雲国に配流されたことも。清盛亡き後、平家の実質的な指導者は、この時忠であった。娘の一人は義経に嫁している。壇ノ浦で息子の時実とともに捕らえられ、配流先の能登で死去。
平時子(たいらのときこ)
生年未詳、元暦2年(1185)没。高棟王流の堂上平氏。兵部権大輔正五位下時信の娘。清盛と結婚し、宗盛、知盛、重衡、徳子らを生む。妹滋子の産んだ皇子憲仁(高倉天皇)の乳母となる。仁安3年(1168)、清盛とともに出家。承安元年(1171)、徳子の入内とともに従二位。治承4年(1180)には清盛とともに三宮に准ぜられた。二位の尼とも呼ばれる。壇ノ浦の戦いで敗戦を告げられた時子は、三種の神器のうち神璽と宝剣を帯し、「浪のしたにも都のさぶらふぞ」と言い聞かせながら孫の安徳天皇を抱いて入水したという。
平滋子(たいらのしげこ)
康治元年(1142)生、安元2年(1176)没。時信の子。兵部権大輔正五位下時信の娘。「小弁」の女房名で後白河院の姉上西門院に仕えていたとき、後白河に見染められ憲仁親王を生む。仁安2年(1167)に女御、同三年に高倉の即位により皇太后となり、翌年、建春門院の院号宣下を受ける。美貌と才智により後白河の寵愛を独占し、院が熊野詣などで不在の折は、上皇の代理として政務を取り仕切ったといわれる。平家と後白河をつなぐ媒介として役割を果たしたが35歳で早世。以後、平家と後白河の関係は険悪化の一途をたどっていった。
平時実(たいらのときざね)
仁平元年(1151)生、建保元年(1213)没。正四位下、左近衛権中将兼讃岐守。都落ちの後、父・時忠とともに壇ノ浦で捕らえられる。妹が義経の妻になってから、義経と密接な関係をもつ。いったんは、周防国への流罪が決まるが、病を理由に配流を延期できたのも、義経が時実を側近にしようと思っていたからだという。文治元年、義経とともに京を退去するが、大物の浦で遭難。京に帰還後、上総国へ配流される。しかし、文治5年(1189)には召還され、権大納言・藤原経房の娘を娶った。建暦元年(1211)、従三位。