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宗盛・知盛の一族

平清宗(たいらのきよむね)

 承安元年(1171)生、元暦2年(1185)没。宗盛の長男。母は平時信の娘(尊卑分脈)。妻は叔父・頼盛の娘。平家主流派の嫡子として、若くして正三位、右衛門督と異例の出世を遂げる。後白河法皇は清宗を寵愛し、3、4歳の頃はよくひざに抱いて可愛がっていたという。壇ノ浦では、入水するも死にきれぬまま父とともに捕われた。鎌倉に移送された後、近江国篠原宿において堀弥太郎景光に斬られた。

平能宗(たいらのよしむね)

 治承4年(1180)生(?)、文治元年(1185年)没。宗盛の二男。従五位上。幼名は副将丸。これは朝敵追討の際、清宗を大将軍に、能宗を副将軍にしたいとの願いを込めて名付けられたという。乳母の冷泉局、女房の少納言局に付き添われて一族とともに西海へ落ちたが、壇ノ浦で捕らえられた。鎌倉に護送される前日の宗盛との対面は、平家物語の中でもっとも涙を誘う場面の一つである。父と対面した翌日、六条河原において斬首。ただし、延慶本によれば、能宗は桂川で柴漬(ふしづけ──体を簀巻きにしたり石籠にいれたりして水中に投じる死刑方法)にされたと伝えている。

平知章(たいらのともあきら)

 嘉応元年(1169)生、寿永3年(1184)没。従二位中納言知盛の長男。母は八条院の女房・治部卿局。従五位上、左馬頭兼武蔵守。一ノ谷の合戦では、父・知盛に従い生田の森で源氏軍を迎え撃った。全軍総崩れの中、知盛とその家人監物太郎頼方と主従3騎で落ちていくところを、源氏方の児玉党に追い付かれてしまう。児玉党の大将が知盛に組み付こうとするのを身をもって防ぎ、大将は討ち取るものの駆け付けた童武者に首を取られた。そのとき知盛は息子を置き去りにして逃げたことを恥じ、「人々の思はれん心のうちどもこそはづかしう候へ」と泣いたという。

平知忠(たいらのともただ)

 養和元年(1181年)または治承元年(1177)生、建久7年(1196)没。従二位権中納言知盛の息子で、知章の同母弟。三歳で従五位下に叙せられ、伊賀国で育ったので伊賀大夫と呼ばれる。平家物語によると、寿永2年(1183)の平家都落ちの際、知盛の乳母の夫・紀伊次郎兵衛こと橘為範に預けられた。建久5、6年頃、為範は成長した知忠を伴って、京都法性寺の一橋のあたりに忍び、反抗のすきを伺っていたが、密告により検非違使の追捕を受け、そこで自害して果てた。知忠の首実検には、実の母である治部卿局があたったという。