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重盛・基盛の一族

平維盛(たいらのこれもり)

 保安3年(1158)生、元暦元年(1184)没。重盛の長男。妻は鹿ヶ谷事件の首謀者の一人藤原成親の娘。右権中将伊予権守従三位。容姿端麗で、後白河院の五十の賀宴で青海波を舞う姿は光源氏にもたとえられるほどであった。父重盛の死に加えて、総大将として望んだ富士川の合戦、倶利伽羅峠の合戦で大敗を喫したことで、次第に一門の中で孤立した存在となる。一ノ谷の合戦にも参加しておらず、その後、屋島にあった一門から離脱し高野で出家、那智の沖で入水した。ただし、『玉葉』には九条兼実の伝聞として、一ノ谷の合戦の後、維盛が三十艘の船団を率いて南海をさして去っていったという記事もあり、真偽の程は定かではない。

平資盛(たいらのすけもり)

平資盛

 応保元年(1161)生、元暦2年(1185)没。重盛の次男。仁安元年(1166)越前守、のち右権中将、蔵人頭、従三位。箏の名手。歌人としても知られ『新勅撰集』などに入集。当代一流の歌人、建礼門院右京大夫の恋人でもある。都落ちの際は、頼盛とともに鳥羽から都に引き返し、帰参を願って法皇に連絡を取ろうとしたが、たまたま取り次ぐ者がなかったため、やむを得ず都落ちの一行に加わったという。一ノ谷の前哨基地であった三草山では総大将であったが義経軍に破られて敗走。藤戸の合戦でも大将軍として出陣するが、源範頼の軍勢に惨敗を喫している。壇ノ浦で弟の有盛らとともに入水。

平清経(たいらのきよつね)

 生年未詳、寿永2年(1183)没。重盛の三男で、母は中納言藤原家成の娘で大納言成親の妹の経子。同母弟に有盛、師盛、忠房がいる。承安4年(1174)に正五位下・左近衛権少将に任じられ、治承2年(1178)に従四位上、寿永二年(1183年)に左近衛権中将になる。早くから追討軍として活躍しており、以仁王の乱の際は園城寺追討軍に参加、寿永元年(1181)の大規模な諸国追討計画(計画は中止)では、兄維盛とともに東海・東山道へ派遣される予定であった。都落ちの後、もと家人の緒方惟義に太宰府を追われた平家一門は、豊前柳ガ浦に船を浮かべる。平家物語によると、この状況に絶望し前途をはかなんだ清経は「…いづくへゆかばのがるべきかは。ながらへはつべき身にもあらず」と言って、横笛を吹き、念仏を唱えながら入水したという。

平有盛(たいらのありもり)

 生年未詳、元暦2年(1185)没。重盛の子で、母は大納言成親の妹・経子。安元元年(1175)に従五位下、治承2年(1178)に正五位下・侍従、寿永元年(1182)に左近衛少将になる。一ノ谷の合戦の際は、兄資盛、弟師盛ととともに三草山の前進基地に配されたが、義経軍の襲撃を受けて屋島へ逃れる。源範頼軍に破れた藤戸の合戦においても、弟の忠房とともに大将軍である資盛に従っている。壇ノ浦で資盛、従弟の行盛とともに入水。

平師盛(たいらのもろもり)

 承安元年(1171)生(?)、寿永3年(1184)没。重盛の子で、母は大納言成親の妹・経子。治承2年(1179)従五位下・若狭守、翌年備中守。子に法然の高弟で百万遍知恩寺の開基・源智がいる。寿永2年(1183)には、異母兄の資盛とともに木曾義仲入京を阻止すべく近江方面に出陣。一ノ谷の合戦では、資盛・有盛とともに丹波・播磨・摂津に接する三草山の前哨基地に派遣された。三草山を義経に破られると、一ノ谷の陣に戻りそこで討ち死にした。平家物語によると、主従七人で小舟に乗って落ち延びようとしたところ船が転覆し、駆けつけた畠山重忠の郎等に首をかかれたという。

平忠房(たいらのただふさ)

 生年未詳、元暦2年(1185)没。重盛の子で、母は大納言成親の妹・経子。能登守を経て侍従兼丹後守。妻は藤原脩範の娘。一ノ谷、藤戸の合戦で戦うが、屋島の合戦で破れると戦線を離脱し、紀伊国の豪族・湯浅権守宗重に庇護を求める。やがて、上総五郎兵衛忠光や悪七兵衛景清をはじめ、近隣諸国に潜んでいた平家の家人や落人が忠房のもとに集結。3か月にわたって岩村城に籠り、500余の軍勢をもって源氏軍に抗戦した。しかし、重盛の子息は赦免するという頼朝の甘言に騙され降人となり、鎌倉に送られた後、再度上洛する途上で斬られた。

六代(ろくだい)

 生没年未詳。正二位内大臣重盛の孫、従三位右中将維盛の長男。母は権大納言藤原成親の娘。童名は六代丸、六代御前とも呼ばれ、実名を高清とする説も。平家都落ちの際は維盛に同道を許されず都に残留。平家滅亡後、鎌倉の追及を逃れ菖蒲谷に隠れていたところを北条時政に捕らえられるが、文覚の奔走により斬首を免れる。その後、出家して妙覚と名乗るも、正治元年(1199)の文覚配流と同時に捕らえられて関東に護送、田越川の畔で岡辺権守泰綱の手で斬首された。六代が斬られた場所については、田越川のほか千本の松原、鎌倉の六浦坂など諸説あり、また時期についても正治元年のほか建久9年(1198)、建仁2年(1202)、同3年などの説がある。

平行盛(たいらのゆきもり)

 生年未詳、元暦2年(1185)没。従五位下越前守基盛の子。左馬頭。父基盛が早世したため、伯父の重盛に養育されたといわれる。平家一門では忠度、経正と並ぶ歌人で、『延慶本 平家物語』によると、都落ちの際、忠度と同様に藤原定家に歌集を託し、勅撰集に「読人知らず」として入集したという。壇ノ浦の戦いで従兄弟の資盛、有盛とともに入水した。一方、『源平盛衰記』によると、敗戦を悟った行盛は兜を脱ぎ捨て、鎧の袖を斬り落として身軽になるや、有盛とともに矢を射て多くの敵を倒した。間もなく敵兵が乗り込んでくると、刀を抜いて船中を駆けまわって戦い、有盛と首を並べて討ち死にしたという。