清盛の子どもたち

平重盛(たいらのしげもり)

 保延4年(1138)生、治承3年(1179)没。清盛の長男で、母は右近将監高階基章の娘。保元・平治の乱に功績あり正二位内大臣となる。妻は鹿ヶ谷事件のメンバー藤原成親の妹。小松谷に邸があり「小松」を号した。人柄は誠実・温厚とされ、平家物語ではもっともも作者に好感をもって描かれている。ただ、実際は「殿下乗合事件」で基房に報復を仕かけるなど、必ずしも温厚な人物ではなかったようだ。武将としても有能だったらしく、『平治物語』における源氏の猛将“悪源太”義平との騎馬戦は有名である。晩年は病気がちで、たびたび官を辞しており、死の2か月前に出家した。その死は平家全盛の時であり、一門の中では最も幸せな最期を迎えたといえる。

平基盛(たいらのもともり)

 保延6年(1140年)生?、応保2年(1162)没?。清盛の次男で、母は右近将監高階基章の娘。保元の乱の直前、検非違使として京中の武士に対する警戒を命じられ、法住寺の近くで藤原頼長によって召された大和源氏の源親治を追捕した。平治の乱に先立つ熊野詣では、弟の宗盛とともに清盛に供奉した。応保2年に、二条天皇の押小路東洞院御所の紫宸殿の造営を担当したが、この年急逝したといわれる。

平宗盛(たいらのむねもり)

平宗盛

 久安3年(1147)生、元暦2年(1185)没。清盛の三男で、母は時子。嘉応2年(1170)権中納言、安元2年(1176)辞任、同3年還任、右大将を兼ねる。寿永元年(1182)内大臣正二位、翌年従一位。清盛の死後、家督を継ぎ一門の棟梁となるが、性格は凡庸・臆病で、平家物語でも絶えずその無能さが強調される。入京する義仲軍との交戦を避けて早々に都落ちを決定したのは宗盛の意志であり、その際に法皇を逃してしまったことは最大の失策であった。壇ノ浦で一門の公達が次々と入水する中でも、ただ途方に暮れているばかりであったという。虜囚となってからもさかんに命乞いをし、頼朝の家来にまで卑屈な態度をとって周りから“つまはじき”されたと伝えられている。鎌倉から京への上洛途中、嫡子清宗とともに篠原の宿で斬首。

平知盛(たいらのとももり)

平知盛

 仁平2年(1152)生、元暦2年(1185)没。清盛の四男で、母は時子。仁安3年(1168)中将正四位下、寿永元年(1182)権中納言従二位。一門中では知謀の将として知られる。京都の防衛から壇ノ浦での滅亡に至るまで、一門の軍事面での中心的存在として活躍した。平家物語によると、一ノ谷の合戦で息子の知章が自分をかばって討ち死にするのを見ながら、それを見捨てて海上に逃れた。「よくよく命は惜しいもの」と涙ながらに語ったとされるが、一門を統率する責任ある立場にいた知盛にとってやむを得なかった。一ノ谷敗戦後も、平家が屋島と彦島を押さえ根拠地としとき、知盛の軍勢は彦島を固め、周防・長門に下った範頼の軍を苦しめた。壇ノ浦での最期の場面、「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」という言葉は有名。

平重衡(たいらのしげひら)

 保元2年(1157)生、元暦2年(1185)没。清盛の五男で、母は時子。正三位左近衛権中将。武勇の将として知られ、墨俣、水島など数々の合戦で勝利を収める。南都焼き討ちの際の大将軍も重衡であった。一ノ谷で生け捕りにされ、京中を引き回された後、頼朝の申請によって鎌倉へ下向。頼朝を相手に堂々とした態度を見せ、満座の幕臣らを感嘆させた。一年後、南都大衆の引き渡し要求によって奈良へ上り、木津川のほとりで斬首された。ユーモアに富んだ人物だったらしく、『平家公達草紙』には、高倉天皇の“つれづれ”をなぐさめるために、冷泉隆房とともに盗人の真似をして西の台盤所に忍び込み、中宮の女房達の衣をはぎ取って後、皆で大笑いをしたというエピソードが伝えられている。

平知度(たいらのとものり)

 生年未詳(平治・永暦頃か?)、寿永2年(1182)没。清盛の七男。淡路守、尾張守、参河守を歴任。富士川の合戦、墨俣の合戦などに参加。一門の傍流として常に防衛の最前線に立たされ、養和元年に大規模な諸国追討計画がたてられた際も、最も叛乱の激しかった北陸道への出陣が定められていた(この計画は中止となる)。寿永2年、義仲追討のため北国へ下向。平家物語によると、追討軍は篠原から二手に分かれ、維盛・通盛らは砺波山へ、知度は叔父の忠度とともに志保山へ向かった。ここで十郎蔵人行家と交戦中、倶利伽羅峠の合戦を勝利し駆けつけた義仲軍の攻撃を受けて討ち死にしたという。

平盛子(たいらのもりこ)

保元元年(1156)生、治承3年(1179)没。従一位太政大臣清盛の娘。長寛2年(1164)、9歳で関白藤原基実の北の方となる。永万2年(1166)、基実が急逝、摂関家領を相続するが、実際は父清盛が掌握していた。白河に御所を営んだことから白河殿と呼ばれる。のち甥である高倉天皇の准母、および准后となったが、亡夫基実とおなじ24歳で夭折した。このとき、世の人々は「異姓の身をもって藤原家を相続したため、氏の明神がこれを憎み、ついに罰を与えた」とうわさしあったという。残された摂関家領を後白河法皇が接収したことが、清盛によるクーデターの原因の一つになった。

平徳子(たいらのとくこ)

建礼門院徳子

 久寿2年(1155)生、没年は未詳。従一位太政大臣清盛の娘で、母は従二位時子。宗盛、知盛、重衡は同腹の兄弟。承安元年(1171)後白河の猶子として入内、翌年高倉天皇の中宮に。治承2年(1178)に言仁親王(安徳天皇)を出産、養和元年(1181)に建礼門院の院号を宣下される。高倉天皇崩御の直前、後白河法皇の後宮に入ることを勧められるが、「出家する」とまでいってこれを拒んだという。壇ノ浦の合戦で捕らえられ京に送還された後、文治元年(1185)五月に大原の本成房を戒師として出家、同年九月大原寂光院に入り隠遁生活を始める。逝去の年は建久2年(1191)、建保元年(1213)、貞応2年(1223)、同3年など諸説あり、場所についても寂光院あるいは寂光院から別の場所に遷御しそこで崩じたとするなど様々な言い伝えがある。