忠盛の子どもたち

平清盛(たいらのきよもり)

平清盛

 元永元年(1118)生、治承5年(1181)没。刑部卿正四位上忠盛の長男。母の出自は不明で、白河院の寵姫祇園女御の妹とも。そのため少年時代の異例の出世とからめて、白河院の落胤などと噂されもした。中納言藤原家成に仕えて鳥羽上皇の恩顧を得、保元・平治の乱などの武功により急速に昇進、仁安2年(1167)、従一位太政大臣となる。翌仁安3年(1168)、病により出家(法名は浄海)。妻時子の妹建春門院を仲介に高倉帝に娘徳子を入内させ、安徳帝の出生により天皇の外戚としての地位を固めた。その後は治承三年のクーデター、福原遷都、南都焼き討ちを命じるなど強圧的な施策によって武家政権の樹立を図る。諸国の叛乱が激化する中、治承5年閏2月4日、九条河原口の平盛国の邸で卒した。実力で政権を奪う“中世”の時代を切り開き、朝廷の政治世界に武家の地位を確立させた功績は大きい。

平家盛(たいらのいえもり)

 生年未詳、久安5年(1149)没。忠盛の次男で、母は修理権大夫従四位上藤原宗兼の娘、池の禅尼。久安三年(1147)に常陸介、翌4年(1148)、右馬頭・従四位下に昇る。久安3年11月、賀茂臨時祭では左兵衛佐として舞人を務めたこともある。異母兄清盛の、“棟梁”としての地位を脅かすほどの存在であったが、久安5年、鳥羽法皇に供奉して熊野におもむく途中、病により夭折した。平治の乱の際、捕まった頼朝がこの家盛に似ていたことから、池の禅尼は頼朝に同情して助命を請うた、と平治物語は伝えている。

平経盛(たいらのつねもり)

平経盛

 天治元年(1124)生、元暦2年(1185)没。忠盛の三男で、母は陸奥守皇后亮源信雅の娘。安芸守などを歴任、正三位参議に昇る。『新勅撰集』『続拾遺集』などの入集歌人。笛の名手でもある。武将としても有能であったらしく、平治の乱では異母弟の頼盛、甥の重盛とともに、大内裏に立てこもる源氏軍追討の大将軍に任じられている。一ノ谷の合戦では、経正・経俊・敦盛と一度に三人の息子を失った。壇ノ浦で異母弟の教盛とともに入水。『吾妻鏡』によると、いったん陸地にあがって出家の後、再び戦場に戻って入水したという。

平教盛(たいらののりもり)

平教盛

 大治3年(1128)生、元暦2年(1185)没。忠盛の四男で、母は少納言藤原家隆の娘。邸が六波羅の惣門の脇にあったので“門脇”を号した。娘は藤原成経、源通親らの妻となっている。鹿ヶ谷事件では父成親に連座した成経の助命に奔走し、鬼界ヶ島での配流中も仕送りを怠らなかったといわれる。養和2年(1182)、従二位、寿永2年(1183)中納言に昇る。応保2年(1162)、時忠とともに憲仁親王を二条帝の東宮にたてようとして罰せられた。壇ノ浦で、異母兄の経盛とともに入水。

平頼盛(たいらのよりもり)

 長承元年(1132)生、文治2年(1186)没。忠盛の五男で、母は修理権大夫従四位上藤原宗兼の娘、池の禅尼。妻は八条女院の乳母子、宰相局。六波羅の池殿に住んだため“池殿”“池の中納言”などと呼ばれた。安芸守、尾張守などを歴任し、寿永2年(1183)、権大納言正二位に昇る。常に一門の異端者的な立場におり、治承3年のクーデターの際には他の公卿・殿上人などとともに解官された。寿永2年7月の都落ちの際には、鳥羽離宮の南門から引き返して法住寺殿に逃げ込み、法皇に助命を嘆願した。その後、頼朝を頼って鎌倉へ下向。平治の乱の際、頼盛の母池の禅尼により助命されたことを深く恩に感じていた頼朝は、頼盛を様々にもてなしたという。壇ノ浦直後の元暦2年(1185)5月に出家、その翌年に死去。

平忠度(たいらのただのり)

 天養元年(1144)生、寿永3年(1184)没。忠盛の六男で、母は院御所に仕えた女房。生地は熊野といわれる。左兵衛佐・薩摩守正四位下。歌人としても有名で藤原俊成に師事した。都落ちの際は、途中から引き返して俊成の門をたたき、勅撰集への入集を願い自分の歌集を託していったという。武将としては、一門の傍流だったこともあり、多くの合戦に出撃を命じられ、常に防衛の最前線で活躍した。一ノ谷の合戦で破れて逃げ延びる途中、岡部六弥太忠純に追いつかれ、念仏を唱えながら首を打たせた。ちなみに『千載集』には、忠度が朝敵であるという理由から“読み人しらず”として一首が載せられたという。「さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな」