清盛以前

平貞盛(たいらのさだもり)

 生年未詳、永祚2年(989)没?。鎮守府将軍国香の子で、維衡の父。京に上り左馬允に任官していたが、承平5年(935)、国香が従兄弟の将門に討たれると常陸に帰り、天慶三年(940年)に将門を追討。その功により従五位下に叙任、天延2年(974)に陸奥守・鎮守府将軍に補任、子や孫も東国の国司や中央の官職につけるなどして、軍事貴族としての地位を固めた。

平維衡(たいらのこれひら)

 生没年未詳。平貞盛の子(孫とも)で、伊勢平氏の祖。長徳4年(998)頃、下野守でありながら伊勢国神郡に居住し、平致頼と対立。その罪を問われて淡路に移郷(刑罰の一種)されるが、わび状を提出していたためまもなく召喚された。寛弘3年(1006)に伊勢守に補任されるが、2か月で解任。のち、上野介、常陸守など東国の受領を歴任した。

平正盛(たいらのまさもり)

 生年未詳、保安2年(1121)没。従四位下・出羽守正衡の子で、忠盛の父。永長2年(1097)、伊賀国鞆田村・山田村の所領を六条院へ寄進したことをきっかけとして白河院との結びつきを深め、隠岐守から若狭守へ栄進。院の北面として法皇に仕えていたが、因幡守だった天仁元年(1108)、源義親(義家の第二子)追討により一躍武名を挙げる。その後、但馬守、丹後守、備前守を歴任した。元永2年(1119)強盗追捕の功で正五位下、同年暮れに平直澄を追討し正四位下に昇叙された。

平忠盛(たいらのただもり)

 永長元年(1096)生、仁平3年(1153)没。従四位上正盛の長男で、清盛の父。白河院に仕え盗賊追討の功績により従五位下、伊勢守・備前守・播磨守などを歴任。刑部卿正四位上。長承元年(1132)、得長寿院造営の功により天皇の御所への昇殿を許される。これを妬んだ公卿たちが忠盛昇殿の際、危害を加えようと謀ったものの、忠盛の機知によって未遂に終わった話(平家物語「殿上闇討」)は有名である。忠盛の死を聞いた藤原頼長は、その日記『台記』に「数国の吏を経て、富は巨万を累(かさ)ね、奴僕は国に満ち、武威は人に軼(す)ぐる。然るに人となり恭倹にして、未だ嘗(かつ)て奢侈の行有らず。時の人、これを惜しむ」と書き記した。『金葉集』などに入集するなど歌人としても名高い。