鹿ヶ谷事件~あらまし

主な登場人物

[新大納言成親]
鳥羽法皇の近臣・藤原家成の三男。後白河法皇の近臣で、妹が平重盛の妻、娘が維盛(重盛嫡子)の妻、子の成経の妻が教盛の娘。鹿ケ谷事件で備前に配流され殺害。

[西光]
藤原家成の猶子で名は師光。平治の乱で殺害された信西に仕え、その後出家して西光と名乗り後白河の近臣となる。鹿ケ谷事件で斬首。

[加賀守師高]
西光の子で検非違使尉から出世し安元元年(1175)加賀守に補任。鹿ケ谷事件で解官、尾張配流後、西光に連座して誅される。

[俊寛僧都]
権大納言藤原雅俊の三男。法勝寺の執行で鹿ケ谷の謀議の際、山荘を提供したといわれる。事件後、鬼界ヶ島に流され同地で没する。

[多田蔵人行綱]
多田源氏で摂津の有力武士。伯耆守正五位下。父は摂津守源頼盛。鹿ケ谷の謀議を清盛に密告したとされる。一ノ谷の戦いで義経軍に加わった後、頼朝の勘気をこうむり追放された。

[後白河法皇]
鳥羽天皇の第四皇子。名は雅仁。源平時代を通して30年にわたり院政を行った。仏教を深く信仰、今様、芸能に精通し『梁塵秘抄』を選定した。平治の乱で殺された藤原信西は後白河を「和漢の間、比類少なきの暗主」と評しているが、その政治的手腕の評価は賛否両論がある。

[入道相国](平清盛)
権大納言藤原雅俊の三男。法勝寺の執行で鹿ケ谷の謀議の際、山荘を提供したといわれる。事件後、鬼界ヶ島に流され同地で没する。

[小松殿](平重盛)
清盛の長男で母は右近将監高階基章の娘。邸が小松谷にあったことから小松殿と呼ばれた。鹿ヶ谷事件の首謀者の一人藤原成親の妹を妻に持つ。物語では常に模範的な息子として、また忠臣として描かれる。

事件のあらまし

 殿下乗合事件の後も、平家の権勢は衰えることがなかった。朝廷の人事もすべて平家の思うままで、安元3年(1177)には清盛の長男・重盛が左大将、次男(正確には三男)・宗盛が右大将となり、新大納言成親をはじめとする公卿の不満は高まっていた。
 その頃、東山の鹿ケ谷にある俊寛僧都の山荘(史実では静賢の山荘)に後白河法皇をはじめ近臣が集い、平家を滅ぼすはかりごとをめぐらした。その夜の酒宴の席でのこと。酔った成親が立ちあがった勢いで瓶子(へいじ-徳利のこと)が倒れた。後白河が「これはどうしたことだ」というと成親は瓶子と平氏をかけて「平氏が倒れました」と応じる。これを機に猿楽が始まり、「あまりの平氏の多さに酔っぱらってしまった」という平判官康頼に対して、俊寛が「それをどうされる」と問う。西光は「首をとるにしくはない」といって瓶子の首をもぎ取ってしまった。あまりのあさましさに、その場にいた静賢法印はまったくものがいえなかった。
 その頃、西光の子の加賀守師高と弟で目代の師経が、任地の加賀において延暦寺の末寺である白山中宮の末寺で乱暴狼藉を行い、延暦寺の大衆が師高の流罪と師経の禁獄を要求する強訴に発展した。4月13日、重盛、宗盛をはじめとする平家軍や大内守護である源三位頼政の軍勢が内裏を守護したが、平家方の放った矢が神輿に当たり、多数の神人や宮仕が射殺された。
 衆徒は神輿を置き去りにしていったん引きさがったものの、後日、ふたたび入洛の姿勢を見せた。そのため、京中は大騒ぎになり、強訴を鎮めるために左衛門督・平時忠がひとり比叡山にのぼった。「捕えて湖に沈めよ」といきり立つ大衆に対して、時忠は少しも慌てず「衆徒の濫悪を致すは魔閻の所業なり。明王の制止を加るは善政の加護なり」と紙に書いて衆徒に見せたところ、大衆は自分たちの非を悟って各々の坊へ帰っていった。

平家物語絵巻「鹿谷」

 一方、朝廷では大衆の要求を飲んで師高を流罪、師経を禁獄に処した。その8日後の4月28日、京を大火事が襲い内裏や公卿の邸宅を焼き払った(安元の大火)。比叡山から大きな猿が、2~3000千も下って来て、手に手に松明をもって京中を焼いたと人の夢に見えたという。
 5月5日、天台座主・明雲が強訴の責任を問われて後白河に解任され、伊豆国へ配流となった。激昂した大衆は比叡山を下りて瀬田のあたりで明雲の身柄を奪還し、東塔の妙光房に入れた。これを知った後白河は憤り、近臣の西光や成親は比叡山の処分を後白河に訴えた。
 その一方で、成親は着々と平家を討つための準備を進め、多田蔵人行綱に弓袋料を送って抱き込んでいた。しかし、平家が容易に倒れるはずもないと考えた行綱は、5月29日、清盛の西八条邸(史実ではこの時清盛は福原にいた)に赴いて鹿ケ谷の謀議を密告してしまった。清盛は大いに驚き、すぐに数千騎の軍兵を招集。俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、丹波少将成経ら謀議に加担した者たちを次々と捕縛した。
 西光はこれを聞いて謀議が露見したことを悟り、院の御所法住寺へ逃れようとしたが途中で平家の軍兵につかまり西八条へ連行された。「下郎の分際で、父子ともに分不相応な振る舞いをしおって」という清盛に対して、西光は「殿上のまじわりさえ嫌われる人(忠盛)の子でありながら太政大臣にまで成りあがることこそ過分である」とののしった。烈火のごとく怒った清盛は、苛烈な拷問を加えて謀議の内容と加担者の名を白状させたうえで首を切った。

平家物語絵巻「西光被斬」

 新大納言成親は、「相談したいことがある」という清盛の連絡を受けて、のこのこと西八条に赴いたところを捕えられ小さな一間に押し込められた。清盛は「平治の乱で(藤原信頼に加担して)誅されるところを重盛のとりなしで首がつながったのではなかったか。何の遺恨があって一門を滅ぼそうと考えたのだ。恩を知る者を人という、恩を知らぬは畜生というのだ」といい、瀬尾太郎、難波次郎に命じて庭に引きずりおろしたが、そこへ重盛が訪れてとりなしたため危うく死を免れた。
 清盛はあまたの院の近臣を処罰したものの怒りは収まらず、甲冑に身をまとい一門を招集し、謀議の首謀者である法皇を軟禁しようとした。それを知った重盛は急ぎ車を飛ばして西八条へ向かう。烏帽子、直衣に袴という平服で現れた重盛を見て、清盛は「例によって重盛が世間を小馬鹿にするように振る舞うことよ。大いに戒めてやろう」と思ったが、重盛が「君(法皇)に奉公の忠を遂げようとすれば、父の恩を無にしてしまう。不孝の罪を逃れようとすれば、君のために不忠の逆臣となる。進退は極まりました。願わくはただ重盛の首をはねてください」と泣きながら戒めたため、清盛も承服せざるを得なかった。
 やがて成親も重盛の尽力で死を免れ備前へ流されたが、清盛の命により配流先で殺害。成経、康頼、俊寛は薩摩国鬼界ヶ島へ流され、事件は一応の決着をみる。

『平家物語』で該当する章段

巻一「鹿谷」「俊寛沙汰 鵜川軍」「御輿振」「内裏炎上」、巻二「座主流」「一行阿闍梨之沙汰」「西光被斬」「小教訓」「少将乞請」「教訓状」「烽火之沙汰」「大納言流罪」「大納言死去」