以仁王の乱~あらまし

主な登場人物

[以仁王]
後白河法皇の第三皇子(平家物語では第2皇子-兄の守覚法親王が仏門に入ったため第2皇子とみなされた)。三条高倉に御所を構えていたので高倉の宮ともいう。母は加賀大納言季成の女。

[源三位頼政]
清和源氏、頼光の末裔で兵庫頭仲政の子。治承3年に従三位となるが翌年出家し、三位入道と呼ばれる。物語では以仁王に謀反を勧める役目をしているが、真相はわからない。むしろ以仁王が頼政を誘ったのではないかという説が多い。

[伊豆守仲綱]
頼政の嫡子。物語では宗盛に名馬“木のした”をとられたうえ辱めを受け、それが原因で頼政の謀反となったとしている。

[長兵衛尉信連]
高倉の宮に使える侍。長谷部為連の子で、もと後白河法皇の北面であった。長兵衛尉は兵衛尉で頭立った者。

[前右大将宗盛]
清盛の三男(平家物語では次男)。物語では仲綱の名馬を奪い、辱めを与え、以仁王の謀反を起こす原因を作ったとされる。

[足利又太郎忠綱]
藤原秀郷の末裔で太郎俊綱の子。下野の国足利に住んだ。物語では“馬筏”を使って増水した宇治川を騎馬で真っ先に渡すことに成功する。

[三井寺の大衆]
五智院の但馬(橋合戦で飛んでくる矢を長刀で防ぎ“矢切の但馬”と呼ばれた)、筒井の浄妙明秀(橋板をはずした橋上で幅のない橋桁を渡り活躍)、一来法師(細い橋桁の上で浄妙房の頭を飛び越えて敵に飛び込み討ち死にする)。

事件のあらまし

 ある夜、源三位頼政は三条高倉に御所を構える以仁王のもとを訪ね、平家打倒の陰謀を打ち明ける。そのころ以仁王は後白河の寵愛深かった故建春門院(清盛の妻時子の妹滋子。高倉天皇の生母)のそねみにより不遇をかこっており、三条高倉の御所でひっそりと暮らしていた。頼政は、平家を倒して幽閉されている後白河法皇を助け出し、自らも皇位につくことが孝行の道であると説き、王の令旨を下されるならば、諸国の源氏は蜂起し王の元に馳せ参ることは間違いないと説得する。
 以仁王はしばらくはっきりした返事も出さないでいたのだが、相少納言維長という優れた人相見がこの宮の相を見て「皇位に就く相がおありになる。あきらめてはいけません」と言っていたこともあったので、ついにこれを引き受ける。源為義の第10子源義盛を蔵人に叙し、行家と改名、令旨の使いとして東国に下すこととなった。
 しかし、平家に味方する熊野の別当湛増の知れるところとなり、飛脚をもって都の平家のもとへ通報される。さらに福原にいた清盛の元へこのことが告げられると、怒った清盛は早速に上洛し、討手を三条高倉の御所に差し向かわせた。討手の中には三位入道の次男源大夫判官兼綱もいた。この時点では、頼政がこの謀反に荷担していることは平家に知られていなかったのだ。頼政からの急報でこのことを知った以仁王は、平家の討手の到着する前に女装して逃亡、辛くも園城寺に逃げ延びた。
 御所の留守を預かるのは長兵衛尉長谷部信連である。宮が秘蔵の名笛「小枝」を忘れていったことに気がつき、追いついてこれを渡した上で一人御所にとって返し、門を開いて平家の討手を待ち構える。源大夫判官兼綱、出羽判官光長の率いる300余騎を相手に一人奮戦する信連だが、多勢に無勢、捕らえられて六波羅へ引かれていく。宗盛は処刑を命じるが、清盛は信連の武勇を惜しみ伯耆の国へ配流するにとどめた。

平家物語絵巻「源氏揃」

 以仁王が助けを求めてやってくると、園城寺の大衆は喜んでこれをかくまう。続いて頼政は自ら屋敷に火を放ち、嫡子仲綱、次男兼綱、六条蔵人仲家(頼政の養子、木曽義仲の実兄)、仲家の子蔵人太郎仲光以下、都合三百余騎で三井寺に入る。大衆等は延暦寺と興福寺に助けを求める牒状を送るが、延暦寺はこれを無視。興福寺からは快諾の旨の返牒が送られてくる。しかし、興福寺からの援軍を待つには時間がない。
 大衆等は六波羅夜討ちを決行する。大手は伊豆守仲綱、搦め手は源三位入道頼政を大将軍に三井寺を進発するが、平家に心を寄せる一如房の阿闍梨真海により僉議が長引いたため、出発が遅れ六波羅にたどり着く前に夜が明けてしまう。明るくなっては勝ち目がないと、軍勢は早々に三井寺に引き返す。結局、三井寺だけではかくまえきれないということで、宮は南都へ落ち延びることになった。老僧たちを留め置き、若大衆、悪僧どもを引き具して、頼政一党ともども南都へ向けて進発する。しかし、以仁王は三井寺から宇治までの間に、6度も落馬するほど疲れ切っていた。そこで平等院で宮を休ませることとし、その間に平家軍に追いつかれないよう宇治橋の橋板をはずして予防線をはった。
 これを知った六波羅からは追討の軍が出発する。大将軍には左兵衛督知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠教(忠度)、侍大将には上総守忠清、その子上総太郎判官忠綱、飛騨守景家、その子飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱(越中前司盛俊の子)、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清以下、都合その勢2万8000騎は宇治橋のたもとに押し寄せる。両軍の矢合わせで戦いは幕を開けた。
 橋上では五智院の但馬、筒井の浄妙明秀、一来法師が曲芸的な活躍を見せ、三井寺の大衆、渡辺党もこれに続いて攻め戦う。平家は軍勢を宇治川の向こう側に渡すべく大きく迂回させようとするが、下野の国の住人足利又太郎忠綱は馬筏を組み、五月雨で増水した宇治川を300余騎で渡すことに成功する。残りの軍勢もこれに続き、平等院になだれ入り激戦が始まった。このすきに以仁王は南都に逃れるべく出発し、頼政一党は平等院に残って最期の戦いを繰り広げる。
 次男兼綱は重傷を負った頼政を自害させるため、寄ってくる敵を防ごうとするが多人数に取り込められてあえなく討たれる。伊豆守仲綱は重傷を負って、平等院の釣殿で自害。仲家、仲光親子も討ち死にする。三位の入道は「埋木のはなさく事もなかりしに 身のなるはてぞかなしかりける」という一首をよんで自害。渡辺党の長七唱は頼政の首を取って、敵にとらせないために重石をつけて宇治川に沈めた。
 豊富な戦場経験を持つ“ふる兵物(つわもの)”の飛騨守景家は、この間に宮が南都へ逃れたであろう事を予期して、500余騎を引き具して宮の後を追う。宮は30騎ばかりで逃げていたが、光明山の鳥居の前でとうとう追いつかれ、雨あられと降る矢の一つに当たって落馬、ついに首を取られてしまう。その頃、南都の大衆は宮を迎えるため木津まで進んでいたが、このことを聞くと涙を流しながら引き返した。

平家物語絵巻「橋合戦」

 軍が帰還すると六波羅では首実検が行われた。数多くいる宮の御子のうち、八条女院(鳥羽天皇の第三皇女。以仁王は八条院の猶子だった)の近習女房との間に生まれた七歳になる若宮は八条女院の御所に匿われていたが、頼盛の再三の呼び出しによって六波羅に連行される。しかし、この若宮に同情した宗盛が命を助けてくれるよう清盛に頼んだため、若宮は出家することなった。また、奈良にもう一人いた御子は出家後、めのとの讃岐守重秀(重季)に連れられて北国へ落ち延びた(後に木曽義仲とともに上洛、木曽の宮、還俗の宮と呼ばれる)。
 南都と三井寺は今回の謀反に荷担したとして、平家はまず三井寺を追討するべく、頭中将重衡を大将軍に、薩摩守忠度を副将軍として園城寺に発向。一日戦うが決着がつかず、夜に入って官軍は火を放ったため、多くの建築、仏像、経文が焼けたのだった。

『平家物語』で該当する章段

巻四「源氏揃」「鼬之沙汰」「信連」「競」「山門牒状」「南都牒状」「永僉議」「大衆揃」「橋合戦」「宮御最期」「若宮出家」「通乗之沙汰」「鵺」「三井寺炎上」