福原遷都~あらまし
主な登場人物
[入道相国清盛]
刑部卿正四位上忠盛の長男。相国は太政大臣の唐名。
[五条大納言国綱]
右馬権助従五位下盛国の子。五条南、東洞院西に住み五条を号した。文章生から受領を経て正二位権大納言にまでのぼる。
[徳大寺左大将実定]
右大臣正二位公能の長男。近衛・二条両天皇の后、大宮多子の同母兄。「月見」の章では旧都を恋い、近衛河原に御所のある妹多子のもとを訪れている。
[小松権亮少将維盛]
正二位内大臣重盛の長男。富士川の合戦では戦わずして敗軍の将となり、怒った清盛に鬼海が島に名がされるところを、かえって右近衛中将に任官される。
[池の中納言頼盛]
忠盛の五男で清盛の異母弟。母は池の禅尼。福原では自邸を皇居に提供した功により正二位に叙せられる。
[安徳天皇]
第81代天皇。高倉天皇の第1皇子で名は言仁。母は清盛の娘、建礼門院徳子。遷都の時は三歳、のち8歳にして壇ノ浦で入水する悲劇の天子。
事件のあらまし
治承4年6月3日に福原(現神戸市兵庫区の辺り)へ行幸があるということで、京中は騒然となった。「都うつり」の噂は以前からあったものの、今日明日の事とは思いもよらなかったのである。さらに3日の予定が2日に繰り上げられ、安徳天皇、母后建礼門院をはじめ、後白河法皇、高倉上皇も御幸し、摂政基通、太政大臣(当時は空席)以下の公卿、殿上人が供奉した。3日に福原に着き、池の中納言頼盛の邸(現兵庫区荒田町の辺り)が皇居となった。
以仁王の謀反が発覚する直前、幽閉を解かれていた後白河法皇だったが、この乱に憤った清盛は福原において、またもや法皇を小さな板葺きの小屋に押し込めたので、この御所は“籠(牢)の御所”と呼ばれた。安元以来、多くの卿相雲客をあるいは流し、あるいは殺し、関白基房を流罪にし、かわりに自分の婿(基通)を関白に据え、法皇を鳥羽殿に押し込め、高倉の宮(以仁王)を討ち取って、残っている悪行は都うつりだけだったので、このようなことを実行に移したのだろう、と噂された。桓武天皇が都を平安京に定めて以来380余年、天皇さえなしえなかった遷都を、人臣の身である入道相国がしてしまったのだ。
「旧都はあはれめでたかりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方に光をやはらげ、霊験殊勝の寺々は、上下に甍を並べ給ひ、百姓万民わづらひなく、五畿七道もたよりあり」。しかし今は、辻という辻はみな掘り返されて車も通れない有様で、たまに行く人も小車に乗って遠回りしなければならなかった。家々は日に日に荒れていき、人々は賀茂川、桂川に筏を浮かべて資財雑具を積み、福原へと運び出していった。
6月9日、新都造営の事業を始めるべく、小卿(公事を担当する主席の公卿)には徳大寺左大将実定、土御門の宰相中将通親、奉行の弁(命を受けて実務に当たる太政官の弁官)には蔵人左小弁行隆が任命された。一条から九条まで区画を分けたが、旧都に比べて土地が小さかったため五条までしかないとがわかり、造営の事業はなかなかはかどらなかった。とりあえず里内裏をつくることとなり、五条大納言国綱に造進させた。国綱は聞こえた大富豪ではあったが、当面の大事である大嘗会(新帝の即位後に初めて行われる新嘗会)を差し置いてこのような遷都を行うのは、ただ国費の無駄遣いであり、民にとってはわずらい以外の何ものでもなかった。
8月10日に上棟(棟上げの儀式)、11月13日に遷幸(天皇が新しい皇居に移ること)と定められた。夏が過ぎ、秋になると福原の人々は名所の月を見ようと須磨から明石への海浜を散策し、淡路の瀬戸(明石海峡)へ渡って絵島の磯のつきを眺めた。白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月を見て帰る人々もいた。中には故郷の月を恋しく思って、福原から旧都へと上った徳大寺実定のような人もいた。
都を福原に移して以来、平家の人々は夢見も悪く胸騒ぎなどもして、はては妖怪まで現れる始末だった。ある夜、清盛の寝所を柱と柱の間につかえて入れないほどの大きな顔が覗いた。入道相国はすこしも騒がず、はったとにらんだので、それは見る見るうちに消えてしまった。また岡の御所では、ある夜大きな木の倒れる音がして、2、30人の人がどっと笑う声が聞こえたりもした。
さらに、ある朝入道相国が中庭を見ると、死人のしゃれこうべがいくつも庭に満ちて、上になったり下になったり、ころがってぶつかったり離れたりしていた。からからと音をたてて鳴ったので、入道相国は人を呼んだが誰もいない。そうこうするうちにたくさんの髑髏は一つに固まって、中庭に満ちあふれるほどの大きさになり、千万の人の眼で清盛をにらんだ。しかし清盛はここでも騒がず、逆ににらみ返したところ、あまりに強くにらまれたために霜露が日に当たって消えるように、髑髏は跡形もなくなってしまった。
また、源中納言雅頼の侍が見た夢も、恐ろしいものだった。大内裏の神祇官の庁舎と思われる所で身分の高い人たちが会議を開いている中で、末座にいて平家の見方をしていた人が座を追い立てられてしまった。あれは誰かと問うと「厳島の大明神」という答えだった。そして、八幡大菩薩が、平家から節斗(賊徒征伐に向かう将軍に、天皇が任命のしるしとして与える刀)を取り上げ、伊豆の流人頼朝に与えることを述べ、その後は春日大明神に与えることを話し合ったという。
そうした中、相模国の住人大庭三郎景親の早馬が頼朝挙兵の報を伝えてきた。死罪にするところを流罪に減刑したものを、その恩も忘れて当家に弓を引くとは何たること、と入道相国は大いに怒る。そこで、これ以上頼朝に勢力がつかないうちに手を打とうと、9月18日、小松権亮少将維盛を大将軍、薩摩守忠度を副将軍に、3万余騎の軍勢が福原を進発した。19日には旧都に着き、20日には関東へ下向。道々で兵を加え、やがて7万騎となった。
対する源氏軍は20万騎。その勢力の大きさと、東国武者の勇猛なことを聞いて怖じ気づいた平家軍は、合戦を明日に控えた夜、富士の沼(浮島沼。愛鷹山南麓の浮島が原にある沼)で休んでいたおびただしい数の水鳥たちが、何に驚いたのか一斉に飛び立った羽音を敵襲と勘違いして、戦わずして京へ逃げ帰ってしまった。入道相国は大いに怒り、維盛を鬼界が島へ流し、侍大将の上総守(上総介)忠清を死罪に命ずるが、周囲の取りなしで不問に処せられた。
11月13日、内裏が完成し、安徳天皇の遷幸があった。大嘗会があるはずだったが、福原には大極殿も清暑堂も豊楽院もないので、大礼もできず、御神楽、宴会をすることもできなかった。そこで今年は新嘗会、五節のみを執り行うこととなった。今回の遷都については君も臣も嘆き、比叡山、興福寺を始め諸寺・諸社の訴えも激しかったので、さすがの横紙破りの入道相国も仕方なく還都を決定した。
12月2日に都帰りとなり、上皇、法皇を始め、公卿・殿上人などの卿相雲客、そして平家一門もわれ先に旧都へと帰っていった。旧都に帰った人々は、またしても急なことで住む家もないので、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山などに身を寄せて、御堂の回廊、社の拝殿などを宿とした。今回の遷都の本当の理由は、旧都は南都北嶺が近く、何かというと春日の神木、日吉の神輿などを振り上げて乱暴を働くので、それができないよう、距離も遠く山や川に押し隔てられた福原に都を移したのだという。
『平家物語』で該当する章段
巻一「鹿谷」「俊寛沙汰 鵜川軍」「御輿振」「内裏炎上」、巻二「座主流」「一行阿闍梨之沙汰」「西光被斬」「小教訓」「少将乞請」「教訓状」「烽火之沙汰」「大納言流罪」「大納言死去」