徳子と高倉天皇
王朝絵巻のように華麗な宮廷生活
前回の「徳子の入内」に続き、中宮徳子の華麗な宮廷生活の一端を紹介しよう。前回は、承安4年(1174)正月の中宮御所への天皇渡御の様子を紹介したが、同じ年の春に建春門院滋子と二位尼時子が中宮の御所を訪れた時の様子も、王朝絵巻のような絢爛さだった。
徳子は紅梅色の衣や表着、青白の小袿などで装いをこらしていたが、それぞれの色が互いに映えていいようもないほど素晴らしく、あたりの御所の飾り付けや人々の姿まで輝くように見えたという。例によって右京大夫の述懐だが、華やかな宮廷生活の中で、栄耀栄華の日々を送る徳子の姿が色彩感豊かに活写されている。「春の花 秋の月夜をおなじをり 見るここちする雲のうへかな」(春の桜花、秋の名月を同時に見るような素晴らしい宮中であることよ)という歌からは、華やかな宮仕えに心躍らせる右京大夫の心情がよく伝わってくる。
夫である高倉天皇との夫婦仲は、どうだったのだろうか。『平家公達草紙』に次のような場面がある。ある時、高倉天皇の御所で、藤原隆房、平維盛、源雅賢が朗詠を吟じ今様を歌った。中宮の局である藤壺の御殿の前の紅葉が庭に散り、色とりどりの錦のように見え、風に吹かれてしたがう景色はとても情趣があった。しばらくして天皇は中宮のもとへ渡ったが、中宮の着ている衣が、美しく染まった紅葉の御衣に、紅葉がちりばめられたデザインだったため、天皇は「中宮の袖の上も庭の景色と変わりないね」と冗談を言った。その言葉を承った小侍従という女房が、すかさず詠んだのが次の歌だ。「色ふかき秋のみやまのもみぢ葉は 庭の錦にたちぞまされる」(色濃く味わい深い秋〈秋の宮=中宮〉の山の紅葉は、庭に散り敷いた錦よりも勝っていることです)
平家の栄華に彩を添えた才女たち
もともと二人の結婚は、平家と後白河の提携という政治的意味合いが強い(そもそも公家の結婚とはそのようなものだが)。長らく皇子が授からなかったこともあって、二人は不仲だったといわれることもあるが、このようなエピソードを知るにつけ、案外うまくいっていたのではないかと思わせられる。少なくとも、平家の公達や親しい人たちが集うサロンの様子からは、天皇と中宮の殺伐とした関係は感じられない。
ちなみに、この小侍従という女性は『平家物語』の巻五「月見」で、愛人を待つ夕べと帰る朝のいずれが情趣深いかを問われ、「待よひのふけゆく鐘の声きけば かへるあしたの鳥はものかは」と返歌し「待宵の小侍従」と呼ばれた女性である。平安末期の歌壇を飾る傑出した歌人で、殷富門院大輔とともに当代女流歌人の双璧とうたわれた。当時は高倉天皇に仕えていたが、右京大夫や小侍従のような才女が徳子の身辺にはべり、平家一門とともに王朝文化の一端を担っていたのである。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 糸賀きみ江校注『建礼門院右京大夫集』(新潮社)/ 角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/ 井上嘉子著『五常楽 平家公達徒然』(シースペース)